第一章 揺り籠

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 おっと、と思わず口から零れたそれを咄嗟に拾い上げるように、ウィルオンは口元を押さえた。月光を頼りに見下ろしたメモには、何度確認しても簡潔な文字が四文字並んでいるだけだ。暗殺奴隷。彼が自分に伝えたい事、そして頼みたい事は頭では分かっていた。分かっていたが、しかし。 「(おーいおいおいおい、なんだってあんな小さな競売でそんな物騒なもん出品されんだよ?)」  いや、決して言うほど小さくはない。ないがしかし、流石に大富豪が来るような競売の規模ではなかった。暗殺奴隷など、それこそキルスカ家に肩を並べるか更に上を行く富豪が行く競売で売られるものだ。そう、今日あの場にキルスカ家であるアルティカが赴いたのは言うのであれば場違いだ。あの場は、彼には不相応だ。あまりにも高価ゆえに逆に出品者の特定はしやすそうだが―――いや、暗殺奴隷を出品する程だ甘くはないと見て良い。今から朝までに間に合うか、いや、間に合わせる。黒い瞳が、じっとメモを見つめて思考する。この言葉をアルティカの口からきいて、このメモを自分に託すためにペンを持った時、ミフェリオは何を想ったのだろうか。いや、違う。考えるべきはそこではなく―――ふ、と視界が晴れていくのを感じた。少しばかり雲に隠れていた月が、顔を出したのだ。それに合わせて黒い瞳もまた見開かれ、心地良い夜風が焦茶の髪先を撫でた。 「………あぁ、そう言う事か」  瞬きを忘れた黒い瞳が街を見下ろし、くしゃりとメモを握りしめた瞬間、一人の青年は夜の街を跳んだ。  ―――トン、と軽やかな足音に目だけでも休める為に閉じていた瞳を開いた。カーテンの隙間から差し込む光は、朝を知らせていた。とん、とん、と屋根を伝ってくるそれはわざとらしい、何かを訴えている。何事かとミフェリオは腰を下ろしていた椅子から立ち上がる。カーテンを潜り抜けて窓を開ければ、吹き込んできた風は少し肌寒いくらいだが、心地良い風だった。 「お。さっすがミフェリオ」 「お疲れ、ウィル。随分と時間かかって」  トン、と窓の真上に着地したウィルオンは顔を覗かせたミフェリオに対してまずは一通の手紙を放った。予想通りの時間にテオドールから返って来た手紙らしく、口を噤んでミフェリオは条件反射でそれを受け取った。少し遅れて、更に二つほどの書類の山が飛んでくる。バサ、とその奥で此処まで手紙を運んできてくれたらしい鳥が羽を解すように羽ばたいた。なにこれ、と問おうとした息を吸った時だ、朝の心地良い風に混じって香って来たそれにミフェリオが気付かぬ訳がなかった。故に受け取った手紙と書類を一度テーブルの上に置いてから、窓辺から身を乗り出して屋根の上にいるウィルオンを見上げた。 「ウィル、お前まさかっ」 「いーや、そのまさかなんだわ。悪ィんだけど俺の着替え取ってくんね?」  彼が散々言っていた、この街の血生臭い匂いだ。泥のようなそれはねっとりと二人の嗅覚を刺激し、嫌な後味を残す。ほとんどの血は洗って拭ってきたらしいが、衣服についたそれだけはどうしようもない。早いところ着替えて、捨ててしまった方がいい。何かを言いかけて、止める。少し速足で彼の荷物袋をひっくり返して衣服を手に取り、窓から放り投げる。礼と共に放られた衣服を、ミフェリオが指先に灯した火魔法で焼きはらい、更に風魔法でその匂いが部屋に入らぬように空の彼方へ押しやった。少し間を置いてからズボンも同じように処理をし、最後に軽く滑り落ちてきた彼に風魔法を施す。びゅ、と少し強めの風がウィルオンを包んでいた血と泥の匂いを掻き消せば、おぉ、と黒い瞳が輝いた。 「サンキュー、ミフェリオ。助かったわ」 「………何人始末してきたんだよ、お前」 「覚えてねー」  そして涼しい顔で部屋に転がり込んできたウィルオンにミフェリオが問えば、逆にいちいち倒してきた敵の数を数えるかと問われた。答えは否であり、それと同じだ、と変わらぬ涼しい顔でウィルオンは言い放った。それもそうか、と思った自分がいた。 「…そう言う事からは、足を洗ったんじゃなかったのかよ」 「洗った洗った。けど俺は、そーゆー技術を私利私欲の為には二度と使わねえって誓っただけだぜ?」  しかしまぁ、と続けようとした言葉はぶつ切りにされた。黒い瞳が一瞬ミフェリオの茶色の瞳を一瞥して、逸らされた。久しかったという事もあってか―――いいや。流石にミフェリオのように綺麗に殺せる程の技量は持ち得ていない、という言葉を飲み込んだのだ。 「目には目を、歯には歯を。因果応報、ってやつだな」  言いながらウィルオンはテーブルの上に置いた手紙の封を切り、中身を一瞥程度で確認してはミフェリオに放った。 「…それで、出品者は?」 「ん。今回の"揺り籠"の主催者」 「―――は?」  流石に少し疲れているのか、雑な扱い方にもっと丁寧にと言いかけた言葉が全て吹き飛んだ。そのままウィルオンはテーブルの上から書類を手に取り、必要な部分だけまとめるつもりなのだろう扉の外へと向かう。肩越しに振り返った彼の黒い瞳が、手にした手紙を見ろ、とだけ訴えると直ぐに体ごと向きを変えた。 「案の定アルティカ様が言っていた腰抜け野郎様が、旦那様が最近怪しいって仰ってたお偉いさんに悪巧みの話を持ち掛けたっぽいな」 「………それで?」 「旦那様とテオさんが離れてる時を狙って開催したのは、俺等の牽制が甘いから。…と、俺達にそう思い込ませる為と、絶対にこの街に呼び寄せる為の第一のトラップ」  二人の当主が不在故にキルスカ家とトルスカ家の牽制は甘い、という理由で"揺り籠"の競売を開催した。それはある意味では確かな事実であり理由の一つだ。あの競売に参加した者は殆どがそう考えたはずで、自分達もそうだと判断した。だが、それこそが主催者による罠だったとウィルオンは自身の甘さを呪った。ぐしゃりと後ろ髪を掻いた彼は、珍しくイラついているらしい。 「で、その競売に出品されてた"例の商品"が、第二のトラップ。その場で動けば間違いなくアウトって判断したあたり、まぁ馬鹿ではなかったな」 「………待てウィル、それって」 「そう言う事。俺等の心配通り、あの商品は間違いなくアルティカ様が落札する事になってた」  そんな彼から視線を外しながら言われた通り手紙を見下ろし、目を通しながら頭を回転させれば途端に見えてきた。相変わらず話が早くて助かる、と言った様子でウィルオンが肩をすくめたのが視界の端で見えた。 「まぁ、なんつーの?すげえ嫌な言い方になっちまうけど…―――……お前の時と、全く同じ手口だよ」  そういう使い方が正しいのか、それとも流行っているのかは知らないけれど、とウィルオンが細い指先を振るった。即ち、最初から主催者の狙いは今も眠るアルティカ自身であり、その為に忍び込ませた毒を塗った凶器は。  "………お前、さ………暗殺奴隷、の……相場って、知ってるか?"  自らの手で買わせるという、なんとも趣味の悪い嗜好をお持ちのようだ。そしてウィルオンほどの技量を持つ者がこれだけの長時間を要したと言う事は、此方が出品者を調べると読んでいたから。ウィルオンが持ち帰って来た書類の束は、恐らく今回の件で公の場で対抗するための物的証拠、だ。 「此処まで言えば、もう分かっただろ?」 「………ああ、」  恐らく首謀者の二人はもう、この街には居ない。こちらがそこまで動くと読めるほどの頭は持っている。それは即ち。 「アルティカ様の朝食が済み次第、一刻も早くこの街を出てく」 「そこからが本番だな。夜勤明けで疲れてるから、日勤は頼むわ」  アルティカの絶対守護を指示する手紙をミフェリオは丁寧に封に仕舞い―――この街に張り巡らされている第三のトラップを切り抜けるには、流石に剣を抜かねばならないか、と数刻先の未来を予知して目を眇めた。 「なるほど、そう言う事か」  朝食を終えたアルティカの反応は、酷く落ち着いていた。頬杖をついた彼を、ミフェリオが見やる。少ししてその視線に気付いたアルティカは顔を上げると、何とも言えない、と言った微苦笑を浮かべた。息を吐き出しながら、決して上質とは言えない椅子の背もたれに身を預けて、後ろ髪を掻いた。 「誰かに命狙われる程、悪い事した覚えはねーんだけどな。良い事してると、悪い事してる奴に恨まれやすいんだよな」  逆も然りだが、と語ったアルティカはその時、何を想ったのだろう。ぎゅぅ、と胸の奥が締め付けられた。まんまと釣られたなとは思うものの、今回の競売に巻き込まれた者も大勢いる。そう考えれば自分は来て正解だったのだと、そう思う事にした。 「で、その…例の暗殺奴隷は?」 「…恐らくは、ウィルが」 「………そうか。なるほど、道理でウィルの奴が眠そうな顔してた訳だ」  その為に芋づる式で他も多く始末したらしい、という事は敢えて伏せた。アルティカの耳に入れる事でもないと思ったからだ。…いや、ミフェリオが言わなくても、その時浮かべた哀しそうな顔を見ればその事まで気付いている、という事を理解するには十分すぎた。 「親父とテオはなんて?」 「…用が済み次第、直ぐに街を出るようにと」 「違いねーな。…けど領収証と落札したのは引き取りたい、構わないか?」  今回の件を敢えて口にしたのも、確認のようなものだ。アルティカは確かに、自他共に頭の出来が良くない事は認めている。しかし、彼は頭の使い方がとても上手い。特に対人においては細かい表情や動作を読み取っては、心理レベルで真偽を見透かす。総じて、アルティカに嘘を吐いたり物事を隠すと言う事は非常に難しい。それが彼が商人としてやっていけている技量の根本だ。ミフェリオとウィルオンからしてみれば今すぐにでも街から離れて欲しい気持ちが溢れているが、ミフェリオは静かに頷いた。ありがとう、と述べられた感謝の言葉は、酷く重かった。自分が掛けられて良い言葉ではないとか、そうじゃない。それでも彼から掛けられた感謝の言葉はあまりにも重くて、悲しくて、切なくて―――なによりも悔しくて。 「すみ、ません」 「………ミト?」 「…俺が、もっとちゃんとして居れば、」  そんな彼に対して、下らない事しか言えない自分が酷く嫌になった。いや、例え最初からその可能性に気付いていたとしてもアルティカはこの街に来ていただろう。それこそミフェリオやウィルオンに申し訳ないと、ありがとうと礼を言いながらだ。分かっている、分かっているが、しかし。甘かった、と二人の護衛は自分の油断を呪わずにはいられない。特にミフェリオはその感情が強いだろう、両の拳を握りしめて肩を縮めた。 「…なぁ、ミフェリオ。最初に言っただろ、俺は売られた喧嘩を買わないような大人しいお坊ちゃんじゃない、ってさ」 「それでも俺はっ……俺は、アキの護衛、なのにっ…」 「ああ。ミフェリオもウィルオンも、二人とも俺には勿体ないくらい優秀な護衛だ。だから俺はきっと、どっちにしろお前らを連れてこの街に来てた」  それだけの話だと言う彼の言葉が、いっそ残酷なくらいに優しいのだ。彼は自分の命を狙われたというのに、何故だと嘆く事もなく。ただただ、共に来た自分達に気を使って、そう言うのだ。シャク、と最後にアルティカはミフェリオが切って用意した林檎を口にする。いつもより食欲がないのは、食事する速度の遅さを見れば分かる。それでも彼は、ミフェリオが知る限りでは一度でも食事を残したことがない。小さい頃から何一つとして好き嫌いもせず、どんな時も出された皿は空にするまでは手放さないのだ。しっかりとそれを噛み締めては飲み込んで、次の欠片を口に運んで、噛み締めていく。それもまた、彼の父の教育だ。最後の一欠けらを飲み込んでから、彼はテーブルの上に置かれていた聖水を手に取った。きゅ、と軽い音を立ててふたを開け、半分ほどを飲み込んだ。 「………行くか。屋敷まで護衛を頼む、ミト」 「………………はい」  残りは帰り道にでも、と蓋をした聖水を片手に立ち上がった主人の傍に、護衛はそっと身を寄せた。
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