第一章 揺り籠

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 くい、と途中でミフェリオがアルティカの腕を引っ張り、別方向を指差した。それに素直に従って方向を変えれば、どうやら少女は少年を抱いて移動したらしい。そのまま何処かへ逃げようと思ったのだろう、しかし人を抱えて走れるほどの体力も気力も、少女には残っていなかった。防壁の外へ移動した事に気付いたのだろうミフェリオは正確にその気配を掴み、見事に見つけてみせた。しかし少年二人よりも早く"奴隷解放"を装っていた賊に見つかったらしい、取りこぼしか、とミフェリオが内心で舌打ちをした。 「いやっ…いやっ、いやっ!はなして、はなしてっ!!お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!!」 「馬鹿言わないで頂戴、こんな死体の為にあんたまで死ぬつもり!?良いからほら、早くっ」  名を呼ぶわけでもなくアルティカがミフェリオに目配せをした瞬間、彼は最後の距離を一足先に跳んだ。一、二、三。音もなくそのリズムは刻まれれば、少女を囲っていた男女三人が地に伏せた。何が起きたのか理解できないのだろう、ボロボロの少女の瞳が丸められた。一呼吸程して、やっと彼女はミフェリオの存在に気付いた。 「…ひっ…!」  気配を消した訳でもないのだが、それでもまだ未熟な少女だ、現実を受け入れるので精一杯すぎて気付けなかったのだ。その精一杯の世界で、少女は兄を抱えて耐えられない現実から逃げようとしたのだ。…当然だ、逃げたくもなる。ミフェリオは勝手に動いた少女を、責めるつもりはない。一人の女が少女から奪ったのだろう、支えを失くした兄を受け止める。哀れな程に、酷く軽かった。死因は飢餓だろう。しかしもう動かない人間を一人抱えて少女が逃げたところで、その未来は目に見える。小さな手で土を掘り返して兄を埋め、その場で動けずに少女も死ぬ。安易に浮かぶのはそんな所か。最悪、兄が不死者や死霊化して少女を道連れにするだろう。明かに聖水を買う金があるなら水と食物を買った方が良い。この少女は、一人で生きていける程の力を有していない。それならば今この場は大人しく少年二人に従った方がいい。彼らは決して少女に乱暴するつもりはなく、むしろ少年をちゃんとした手順を踏んで葬儀をするつもりだ。だが、少女はそれを理解できる程の余裕がない―――故に、響いた軽い音にミフェリオは僅かばかりに目を細めた。 「(…また手に余るものを)」 「ミト」  倒れた三人のうち誰かが持っていたのだろう、少女は傍に転がっていた短剣を手に取ったのだ。ガタガタと震える手に合わせて、短剣が鳴る。これは大人しくさせるしかないかとミフェリオが考えた時だ、それらを全て止めたのはようやっとその場に辿り着いたアルティカの声だった。その声にミフェリオは直ぐに自分を諫めるように一度目を伏せ、一方で少女はびくりと全身を震わせた。逃げ出す勇気さえない少女が、アルティカを見上げた。その目に、アルティカの姿はどう映ったのだろう。見る見る絶望へと染まっていたその瞳を見れば、一目瞭然だった。当然と言えば、当然だろう。少女はこれまでも幾度も"揺り籠"として取引されてきたのだ、次の買い主がアルティカである事を理解したくなくても理解してしまったのだ。酷く震える身体で短剣を握り、必死に自らの運命に―――買い主であるアルティカに抗おうとする様は、酷く少年の心を締め付けた。自分と少年以外の存在を、自分達に害を成す敵としか認識出来ないのだ。この少女と少年は、そう言った生き方しか出来なかった。あまりにも哀れだと、そう思う事さえ罪悪を感じる程に。す、と持ち上げられたアルティカの左手に、ミフェリオは一瞬迷うもののその場を主人に譲った。 「………それを放せ。それはあんたが持つ物じゃない。あんたには…そうだな、包丁の方が似合う」  それは、人を傷つける武器だ。ミフェリオが抱える家族を想うならば、少女は短剣よりも包丁を握るべきだ。家族の為に毎日の食事を作る女性というのは、どうしてこうも心惹かれるのだろう。そんな姿を見てみたいと、アルティカが思う。そんなアルティカが見ても分かる、その細い指先は一度でも短剣を握った事がない。たった一度でも、人を傷つける為にそれを振るった事がない。これまで散々、少女は他者に傷つけられてきただろう。それでも一度でも握った様子ではないと言う事は即ち、それを防いでいた者が居る。ミフェリオが抱える少年が、少女の代わりにその罪を背負ってきたのだろう。少し考えれば安易に分かる事だ。少し間を置いて、一歩を踏み出した。 「ちっ、近づかないでっ!!いや、いや、来ないでっ!か、返して、お兄ちゃんを返してっ!!」 「返して、その後どうするつもりだ?何処か匿ってくれそうな、逃げ場所に当てがあるのか?ないよな、あるんならこんな所に居ない」 「……ッ…!!」 「こいつはどうする?聖水は持ってるのか?ちゃんとした形で葬儀を行わないと、死霊術師(ネクロマンサー)の良い奴隷になるだけだぞ」  死してなお、この少年を奴隷にしたいのか。そうアルティカの青色の瞳が問えば、少女は瞳を酷く震わせ歪ませた。少女がそれを望むなら、アルティカは何一つ文句は言わないし止めもしない。だが、それを望んでいるようには見えない。それを望むならば、今頃少女は少年を見捨てて一人だけでも逃げている。そもそも、そうならば少女は少年を想ってあんなに泣き叫ばない。 「生きるためには金が要る。だけど、ちゃんと死ぬためにも金は要る。あんたは、それだけの金を持っているのか?」  この国が掲げる絶対無二の力、金という力が無ければ人は生きる事はおろか、死んでも死にきれない。僅かばかりでもその力を、少女は持っているようには見えない。持っているならば、こんな場所に居るはずがないのだ。自らの運命を恨みそれに抗う為には、金が必要なのだ。それに屈しない心だけでは、運命には抗えない。 「…う…うぅう…っ…!」 「…悪い、今は時間が惜しい。信用しろとは言わない、だけどあんたがこいつをちゃんと弔いたいと思うなら」  そして願わくば、少女が生きたいと思うなら。そうアルティカが手を伸ばそうとした時だ、ついに少女は現実を受け止めきれなかった。やせ細った身と心では受け止めきれるはずもない、あまりにも重い現実から逃げるように目を伏せて―――それを、誰かに代わりに受け止めて欲しいのだろう。 「…っ…うわぁぁぁぁ―――っ!!」  その時アルティカは、強く短剣を握りしめて一直線に自分めがけて駆け出した少女を止めるのではなく、ミフェリオを左手で抑えた。でなければミフェリオは少女を気絶させていただろう。しかし、それでは駄目だと思ったのだ。それはきっと、無理矢理に少女に現実を抱えさせる事になる。重くて苦しすぎるそれを受け止めきれないのだ、ならば。それを一緒になって受け止めてあげなければ、少女は壊れてしまうと、そう確信したのだ。故にアルティカは、少女が受け止め切れない運命を乗せて振りかざした短剣を、受け止めた。―――パリン、と辺りに響いたのは酷く澄んだ軽い音だった。少女の振るった短剣を受け止めて、一本の聖水が砕けたのだ。中身が半分以上減っていた聖水が、砕けたガラス瓶と共に雨と成りてその場に飛び散る。は、と少女が息を呑み込んだ。キラキラと僅かな光を反射するガラスと聖なる水が、パラ、とアルティカの細い指先を濡らし、力を与える。本来、法術とは祈りの力を用いるものであり、魔法と違って特別な詠唱や呪文、言霊を必要としない。 「…―――……」  それは祈りの力、即ちその祈りを捧げる心こそが魔法で言う詠唱や呪文の代わりになるからだ。元々、戒律の厳しい教会や聖堂では女性の聖職者は日常生活でも声を出す事を禁じられる。だが、祈りの時は例外とされる。それでも多くの者が唯一の例外とされる祈りの時にさえ声を発さない。それは、祈りを言葉にすると法術の威力が著しく低下するからだ。だが、法術は心に抱く祈りを、願いを力に発揮される術である。故に魔法と同じで、心に秘めたそれを言葉にすることで真価を発揮する場合もある。例えば、心に抱く祈りや願いが大きくなった時。内に秘めて積もりに積もらせたそれが、祈りの力が心を溢れてしまった時。心を満たし溢れる祈りを言葉に成す事で、数多の聖職者たちは法術の真価を引き出し多くの人々を救い導いてきたと言う。 「"聖域(サンクチュアリ)"」  その声はとても静かでありながら優しく、それでいて痛いほどの博愛に満ちていた。アルティカの心を満たし溢れ零れた祈りは、聖なる水の力を受ける事で飛躍的な癒しと成りて乾いた牢獄を包み込んだ。"聖域"は牢獄に居た全ての者を癒した。そこには奴隷も下賤も、死者も生者も、従者も主人も関係ない。そこ在る全ての者を、分け隔てなく癒す。地位も立場も力も関係ない、全ての者の傷を癒す。地に伏せていた誰かの傷を癒し、牢の奥で蹲る誰かの心を癒し、死者の魂をも慰める。ふわ、と温かい聖なる風がアルティカのフードを持ち上げた。その奥に見えた博愛に満ちた青い瞳は、今にも割れそうだった。ただただ、強いられた運命によって短剣を握らされた少女を救いたいと、そう祈り願っていた。溢れる癒しの力を宿すアルティカの指先が、震える少女の指先をそっと包み込んだ。その指先は、聖なる水によって少しばかり濡れていた。ひやり、と少し冷たいそれが何故だろう、酷く心地よかった。 「………あんたが握るもんじゃない。お願いだから、放してはくれないか」  きっとそれを少年も望んでいる、などと知った風な口は利けなかった。それでもアルティカは、少女にそう祈り願った。奪われ続けてきた少女に、奪うなというのはあまりにも理不尽だろう。だが、それでもアルティカは願わずは居られなかった。奪う事を覚えた人間は、それに依存して生きていかざるを得なくなる。他者から奪う為に、より強い力を奪ってはまた奪う。そんな生き方をしてほしくはないと思うのは、傲慢な事だろうか。強欲な事だろうか。それでも、構わないと。する、と震える指先から一本の短剣が滑り落ちると、それはカシャンと軽く澄んだ音を立てて"聖域"内で転がった。暗く淀んだ鈍い瞳に、青い瞳が酷く苦しげに笑って見せた。悲しくて、悔しくて、けれど嬉しかったのだ。 「ありがとう」  その言葉は、短剣を手放すよう祈り願ったアルティカの言葉を聞いてくれた少女に対する礼でしかない。しかし何故だろう、その言葉は少女にとって別の意味もまた含まれているような気がした。祈りを、願いを聞いてくれたこと。そしてそれ以上に、此処まで生きてきた事を感謝されたような、そんな気がしたのだ。生きる為に他者から何かを奪う事もなく、酷く奪われ誰かを恨み憎んでも決して武器を手にしてこなかったことに、感謝されたような気がした。それはきっと気の所為だ。少女の一方的な思い違いで、彼の言葉を自分を助ける為に履き違えているだけだ。だがそれでも、少女にとってはその言葉が救いだった。気の所為でも勘違いでも思い違いでも、その言葉は救いだったのだ。 「…っ…ふ、……ぅッ………」  少女の手は今にも折れてしまいそうな程に細く、酷く汚れていた。だけれどアルティカはその手を、とても綺麗な手だと思った。その手が汚れなかった事を天に…否。その手を汚さないでいてくれた少女に、感謝した。ぼろ、と溢れたそれが握りられた二人の手を濡らした。ぷつん、と糸が切れたように少女は泣いた。天に向かって声を上げ、泣いた。アルティカの手に縋るように必死に手を伸ばして、掴んで、その身を委ねて。崩れそうになった少女の身を支えては、アルティカはその背を優しく撫でた。きっと以前まで、その役目を担っていたのはたった一人の兄だったのだろう。その代わりに成れるとは、到底思えないけれど―――法術の根源、"祈りの力"。それは分け隔てなく誰かの幸せを願う、博愛の心である。 「おっ、おかえりなさい、アルティカ様!」  と、何事もなかったように言ったつもりらしいウィルオンだったが、その様は酷いものだった。ボロボロという表現以外に似合う言葉がないと言うほどに傷だらけのウィルオンに驚いたのはアルティカだけではなく、ミフェリオも同じだった。 「ウィルお前っ、姿が見えねーと思ったら、なん、なに、今朝からの短時間でなにがあった!?」  主人であるアルティカが動くという状況で動きを見せなかったウィルオンに対して募らせていた憤りが消えて行くのを感じた。むしろ何をしたんだとアルティカと一緒になって肩を並べて問えば、彼はいつものようにへらり、と笑って見せた。 「いやぁすみません、お二人の様子はちゃんと見てたんですが」 「良いから何があったのか話せ!ミト、治療!」  そんな彼に有無を言わせずに問いながら、アルティカはウィルオンを指差しながらミフェリオの名を呼んだ。黙って頷いたミフェリオは抱えてきた少年を一先ず馬車に乗せてから、手厳しくウィルオンの腕を引っ張った。酷い痛みに顔を歪ませたウィルオンだが、直後に彼を包んだ水魔法は直ぐにその痛みを和らげた。 「なんでそんな傷だらけなんだよ、お前は光魔法使えるだろうがっ!?」 「あ、いや、すみません、それがガス欠で」 「馬鹿野郎、自分を治癒出来るくらいの魔力は残しとけ!!」  アルティカもまた泣き疲れて気を失った少女を馬車に乗せてから、ずい、とウィルオンに思い切り顔を近づけてやる。話しますから、と突然の至近距離と滅多に見せない威圧にウィルオンは苦笑を浮かべた一方、もう少し丁寧に扱えとミフェリオに苦情を飛ばす。ワンテンポ遅れて、ミフェリオは的確に致命傷にさえ近い深い傷を見つける。バ、と背中の衣服を捲ればおびただしい量の出血が確認できた。 「あっ、ちょ、待てミフェリオ、アルティカ様の目の前でそんな大胆に」 「黙れ、本当にこの傷を致命傷にしてやろうか?」 「悪ィ」  冗談を言ってる目じゃないと察したウィルオンは流石にふざけすぎた、と直ぐに反省と後悔をする。細い指先を翳し、コポ、と溢れた癒しの水がその傷口を少しずつ癒していく。傷口からして斧に分類される大きめの武器によるものだ。それも背後となれば、致命傷にならなかったのが奇跡のようだ。 「(ウィルが背後を取られた?…それだけ腕が立つ相手とやり合ってきたのか、それとも)」 「すみません、実は街中に潜んでた伏兵を片っ端から片付けてたら、流石に数が多くて」 「当たり前だ、この馬鹿!!」  案の定だ、とミフェリオは声を荒げるアルティカにその頭部を殴られたウィルオンが悪い、と堪らずため息を吐いた。手厳しいそれにウィルオンは本当に反省する事にしたらしいが、でも、とへらりとまた笑った。 「けど、これでも結構そっちに行く数減らしたんですよ?鞭は甘んじて受け止めるので、飴も下さい!」 「誉めてほしけりゃまずはその事後報告癖をいい加減に直せ、ぶん殴るぞ!?」 「すみませんってば!!でも俺だって誉められたい!!」 「お前本当、良い意味でクソ野郎だな!!よくやったおかげで助かったよ畜生!!」  道理で思っていた以上に数が少なかった訳だ、とアルティカは渋々と言った様子でウィルオンを誉めた。それだけで彼は子供のように喜ぶのだから、調子に乗るな、と治りかけの傷をミフェリオが叩いたのも無理はない。 「…それで?まさかお前がただで帰ってくる訳ないだろ?」 「そりゃ勿論!」  はあ、とため息を吐きながらアルティカが腕を組み問えば、よくぞ聞いてくれました、と言った様子でウィルオンは目を輝かせた。もっと厳しく治療していいぞ、との命令にミフェリオは黙って従えば、さらに強い痛みを生じる治療にウィルオンはやっと無駄口を叩くのを止めた。 「てっきり"揺り籠"の主催者と、今回の件をソイツに依頼した二人が首謀かと思ってたんですが…まずはそこを疑ってみて正解でした」 「…と、言うと?」 「調べて見たらこの街の全盗賊ギルドまで関与してたみたいで、流石に主催者サマみたいな小金持ち程度の人間が出来る事じゃないなぁ、と」  確かに張り巡らされていたトラップの規模からして、ちょっとした小金持ちの者による仕業じゃない、と確信した。―――そう、逆だ。主催者は依頼されたのではなく、依頼した側だ。自分に手を貸せと、一体いくら出したのかは知らないが。 「それこそこの街を丸ごと買える程の力を持つ者か、あるいは…」  ここまで言えば分かるだろう、とウィルオンはその言葉を最後まで紡がずにそっと目を伏せた。それに対してアルティカはぐしゃりと前髪を掻き上げ、予想を遥かに超える規模に眩暈を感じた。はて、街を丸々一つ動かせる程の力を持つ者に対して一度でも喧嘩を売った覚えはない、のだけれど。 「………ヘブリッジの所有者、か。あーあ、ついにやってくれたな、あの領主様…」  この地域周辺の町村を買い占め管理している、領主。確か彼は何時も、領地の中でも一番栄えている街に居るはず。これは父も自分も、いくつか取引先を切る覚悟をせねばならないだろう。ただでさえ"揺り籠"で出費が増えている今、非常に痛手だ。しかし、背に腹はかえられない。 「…あー…止め止め。一先ずさっさと帰ろうぜ、難しい事は親父とテオに丸投げしとけば良いだろ」  そこまで規模の大きな話なら…否、どちらにせよ今回の件はもう、アルティカの手に負える範囲を超えている。故にアルティカは息を吐き出しては踵を返し、あの領主様の名前はなんだったか、と顔しか浮かんでこない誰かを思い出しながら歩き出した。違いない、ととっくに情報を送っているだろうウィルオンはミフェリオと顔を見合わせてから、二人の従者は主人に続けて歩き出した。
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