第一章 揺り籠

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 一人の男が速足に屋敷の中を進んでいく。何か不幸でもあったのか、その足音は苛立ちを隠せずにいる。荒々しく歩を進めていく男を一目見ては、その屋敷に仕える者達が頭を下げて道を譲る。それに応える事無く、男は一枚の扉を開けた。 「失礼致します、セドリート殿!至急お話がっ」  ふわ、と香ったのは淹れ立てのコーヒーの香りだ。時刻は三時、丁度良いティータイムと言った時刻だ。またいつもの茶会でもしているのだろうか、しかし今回ばかりはそれを打ち切ってでも話し合わねばならない。故に男はこの屋敷の主に怒鳴られる事を覚悟でその扉を開いたのだが、目に飛び込んできたのは見慣れない男だ。一杯のコーヒーを音もなく一口飲み込んでは、その香りを楽しむように一度目を伏せ―――ふ、と赤い瞳が男を見上げた。その動きに合わせて美しい銀髪が揺れると、彼は薄く微笑みながらとても丁寧な動作でカップを置いた。上質な布で作られた衣服は決して派手ではないが、高貴な身分である事を証明するには十分だろう。 「おや、ジルベル殿。久しいな、最後にお会いしたのは半年前のパーティー以来か?」  何より物腰柔らかな言動が彼の高貴さを表しており、彼は逆に下流階級者の衣服に身を包んでもその生まれと育ちの良さを隠せないだろう。直前まで考え込んでいた思考と言葉が彼の赤い瞳に吸い込まれていったらしい、男は瞬きをすると一度その場で硬直した。二呼吸程してからみるみるその表情を強張らせ、目を見開いてく。何かを言いたそうな口からは、声が出ない。 「こ……これはこれは、大変失礼を…。…何かご商談、でも?」 「ああ。…そうだ、今回の件はジルベル殿にも是非ともお聞き願いたい。構わないか、セドリート殿?」  なんとかと言った様子で声を絞り出せば、彼は実にわざとらしく目の前にいた男に話を振った。その視線を追って見やれば、彼と目を合わせたくないらしい酷く青ざめたこの屋敷の主が居た。声を出す事さえままならないのか、軽く肩をすくめる事でそれに応えた。握りしめられた両手は、震えていた。 「ありがたい。まぁ立ち話もなんだ、お座りに…と、失礼。私はこの屋敷の主人ではないのだが…どうにも先ほどからセドリート殿は考え事で忙しいようでな」 「は…はは…」  にこり、と微笑んだ赤い瞳が同席を促す。それに逆らう術はないと、悟った。故に今すぐこの場から逃げたい気持ちを噛み殺して足を進めた。腰を下ろした椅子は、この上ない程に座り心地が悪かった。まるで氷の針の上に座ったかのような、そんな痛みが腹部に走った気がした。行き場のない視線を忙しく彼方此方に移動させれば、ふ、と彼の傍に居たもう一人の存在に気付く。氷の針で出来た椅子よりも鋭い、凍てついた紫色の瞳が男を見下ろしていた。黒髪越しに見える瞳は、その視線で男の心臓を突き刺した。それを隠す為かそれとも諫める為か、彼の傍に居た護衛だろう男はそっと目を伏せると軽く頭を下げた。震える指先でそれに応える一方で、男が持ち上げていた右腕で羽を休めていたのは一羽の鳥だ。非常に大きな鳥は両翼を広げればゆうに二メートルを超えると安易に想像がつく。決して軽くはないだろう鳥は、長い空の旅でも終えた後なのか、男の腕の上で静かに目を伏せて休んでいた。 「…ん?ラディオ殿は一緒じゃないのか?」 「は………はい?」 「おや?昨日ヘブリッジにてジルベル殿が主催した競売にラディオ殿を招待したのでは?」  柔らかい口調でありながら、その言葉は男たちの腹を刺した。ぐ、と喉が詰まる感覚がした。逃げるように視線を動かせば、なるほど彼の言う通り隣に座る男は"考え事に忙しい"らしい。 「なんでもセドリート殿も一緒になって主催した競売だったそうじゃないか、さぞ盛り上がったのだろうな?」  更に彼は男たちの腹を抉ってみせれば、どうだった、とわざとらしく小首を傾げた。行き場のない視線を止める為か、彼は背もたれに預けていた身を起こしては彼らを挟むテーブルを軽く叩いて見せた。びくりと震えた肩を、赤い瞳が流し見る。その一方で促されて、ようやっとそれに気付く。 「…な……っ……」 「"何故この書類が此処に"、か?幸せな事に、私の許で働く者の中にとても優秀な情報伝達役が居てな。いつも命を救われているよ」  テーブルの上に綺麗に整えられたままの書類が並んでおり、それを目にした途端、喉から声が溢れた。それを遮り、主命なしで主命以上の働きを見せてくれるのだ、と語った彼は何処か複雑そうな笑みを浮かべていた。男たちの代わりに、彼は一つの書類の束を手に取ってみせた。見覚えがないはずのない書類を、細い指先が捲った。 「お二方。反国家主義に所属するにあたり、"揺り籠"の取引は厳禁だ。まさか、存じない訳あるまい?」  問いの答えは、沈黙による肯定だ。当たり前だ、否と言えるわけがないのだから。三呼吸程の沈黙を聞いてから、彼は手にした書類を放った。ますます考え事が忙しくなってきたらしい。不意に、部屋に響いたのは丁寧なノック音だ。それに屋敷の主は答えない。答えるだけの余力がないのだ。 「失礼致します、セドリート殿………ああ、皆さんこちらにお揃いでしたか」  ふ、と顔を上げれば見えたのは正式な鎧に身を包む一人の女だ。兜を脱いだ彼女は美しく、さぞ多くの男から求婚されるだろうに。そんな彼女が身も心も捧げているのは、鎧に刻まれている紋章―――"反国家主義"を掲げる頂点の一人、ハンフリー・アルヴィスだ。 「これは、エルフィナ殿。まさかそなたが来るとは」 「いえ、私は"偶然"近くの街で調査を行っていたものでして」 「…なるほど。流石はアルヴィス殿だ、手助けにはならなかったか」 「何を仰いますか。…たった一夜でそこまで決定的な証拠を揃えたのは、貴方様ですよ」 「いいや、私ではないよ」  まさか、と彼女の言葉に彼は微苦笑を浮かべながら立ち上がると、早々に歩き出してその場を彼女に託す。それを止める気はないのだろう彼女は軽く彼に頭を下げるも、名残惜しそうにその背を目で追う。開いた扉の先には、彼女が連れてきた多くの兵が並んでいた。恐らく屋敷の外は既に制圧されたのだろう。 「…もう行かれるのですか?せめてハンフリー様がご到着なさるまで、お待ち頂けませんか?」 「いや、すまないが先に失礼させて頂くよ。暫く屋敷を空けっぱなしでな………と言うのは建前で、アルヴィス殿の話は長いからな」  捕まりたくないのだ、と白状すれば彼女はご尤も、と両目を伏せてみせた。そして彼は肩越しに目配せをすると、ずっとその場で待機していた護衛もまた歩き出す。面識があるのか、すれ違い際に同じ立場である男女は互いの健闘を願って頭を下げた。 「…と、エルフィナ殿。すまないがアルヴィス殿に伝言だけ頼めるか?」 「はい、なんなりと」  ふ、と彼が足を止める。その呼びかけに応えれば、彼は肩越しに振り返ると赤い瞳で柔らかく微笑んで見せた。 「"私の息子が世話になった。お二方には、たっぷりの礼をしてやってほしい"、と」 「…かしこまりました。必ずやお伝え致します、キルスカ様」  その言葉を残し、彼はその屋敷を後にした。随分と長い寄り道をしてしまった、と彼が護衛に愚痴を零したのはその後すぐの事だったらしい。  ふ、と黒い瞳が天を仰ぐ。目を細めて一呼吸程してから、ウィルオンはその場で軽く地を蹴った。屋敷の屋根へと到着すると同時に首元を優しい風が吹き抜けていく。実によく晴れた日だ、太陽の日差しに一瞬目が眩んだ。遠くから響いた声は間違いない、彼の相棒の鳴き声だ。左腕を天に掲げるよう持ち上げた次の瞬間、彼の許に一羽の鳥が舞い降りた。ウィルオンの左腕に止まった鳥が、バサ、と少し強めの羽音を立てると、その姿が空気から溶け出すように現れた。幻影鳥と呼ばれる彼は、鳥類の中でも非常に希少な種だ。その最たる特徴はその名の通り、彼らは幻影を身に纏う能力がある。風景に合わせた幻影を身に纏えば、その姿は非常に見つけにくく、例え視覚で捕らえたとしても彼らを捕まえるのは難しい。鳥類の中でも非常に素早い飛行速度を誇り、特に長距離の飛行を得意とする体力を備えているからだ。大きな翼を広げる事で敵を威圧し、性格もどちらかと言えば好戦的と言える。決定的なのは肉食である事だ。故に世界中に居るハンターたちは誰もが一度は彼ら幻影鳥を相棒にし、従えたいと夢見るものだが実現できる者はそう多くない。  手懐けるのが非常に困難な種だが、彼らの見せる幻影は他国においても非常に高い評価と価値がついている。その荒い性格とは裏腹に、彼らの持つ翼は風景は勿論その日の天気や僅かな光の加減で無限の色彩を彩るのだ。多くの貴族が彼らを求め乱獲した結果、一時期は絶滅危惧種に指定される一歩手前まで数が減った。彼らを捕らえようとして逆に食い殺される者も少なくはなかった為、保護するか否かで討論が行われたのはここ最近の話だ。結局、人間がそうこうしている内に彼らは驚異的な生命力と体力、そして何より幻影の力を活かした鋭い狩りでその数を回復させた。彼らは風景に合わせた幻影を身に纏う…即ち、夜の闇に身を溶かせば、下手な人間の暗殺者より遥かに脅威的な存在になる。深夜にこそ真価を発揮すると言えるが、総じて彼らは何時飛んでもその能力を輝かせる事が出来る。そもそも見つける事が困難だと言うのに、他の鳥と比べても戦闘能力に長けている。訓練してしまえば尚更だ。故に彼はこの屋敷において誰よりも早い情報伝達役―――それも、例え他者の妨害を受けても難なく退けられる―――を担っており、今回の手紙のやりとりも彼が居てこそだ。 「おけーり、ルクト。お疲れさん」  そんな彼―――ルクトとウィルオンは、親友であり相棒と呼べる仲だ。最初に出会ったのは、ウィルオンが齢十三の時だ。彼が何故自分を選び、そして懐き心を開いてくれたのか、今でも明確な理由は分からない。……いや、なんとなくだが、分かりはする。だがそれを確認し、確信を得る気がウィルオンにはない。そしてルクトもまた、それをウィルオンに教える気がない。この世の中、知らなくても良い事がある、という事だ。名を呼ばれたルクトは答えるように翼を軽く羽ばたかせ、ウィルオンは羽先が目に入らぬよう少し身を離した。長距離を飛ぶのを得意とする彼だが、今回ばかりは流石に疲れたのだろう。羽を落ち着かせてから、彼は嘴をウィルオンの頬に摺り寄せた。その様子を世界のハンターたちが見れば酷く羨むだろう、ルクトはウィルオン以外には殆ど懐いていない。強い者には従う習性を持つため、比較的テオドールに対しては大人しいと言えるだろうか。とは言えウィルオンの言う事には絶対的に耳を貸す為、通常の幻影鳥と比べたら信じられない程に大人しいだろう。適度にあやしながら、飛行の邪魔にならぬようしっかりと固定されている装甲に取り付けられているポケットを開く。一通の手紙は間違いなくこの屋敷の主人からの物だ、一先ずそれを今度は自分のポケットに滑り込ませてからルクトを乗せた左腕を軽く持ち上げた。 「暫く自由にしてて良いぞ。またなんかあったら呼ぶからさ」  自由に飛ぶも狩りをするも休むのも、全てはルクトの気分次第だ。それを促すと彼は少し迷ってから、緩やかに舞い上がる。腹が減ったのか、狩りをすることにしたらしい。どうにも彼は屋敷で食事するのを嫌う…というよりも、自分の狩りの力で食をしたいらしい。ひゅ、と風を切って一瞬で遠くへ飛んで行ったルクトを見送ってから、ウィルオンは軽くその場で跳んだ。着地するまでの間にその姿と気配を探り当て、着地と同時に地を蹴り、跳び…それを繰り返した先、一枚の扉の前で一度足を止めた。自室、ではなく聖堂だ。屋敷の西側に存在するそこは、第一区画にある大聖堂と比べれば規模は小さい。しかしこの街で自宅に聖堂を持っているのはキルスカ家だけであり、その理由は無論、幼い頃は発作を繰り返していたアルティカの為だ。 「失礼します、ウィルオンです」  一応ここは屋敷の者であれば誰でも立ち入りが許可されているが、中に主人が居る事が分かっている故にノックと共に声をかけた。僅かな沈黙を挟んでから扉を開ければ、ふわり、と香ったのは聖堂独特の酷く澄んだ空気だ。心なしか、少し冷たく感じる。決して重くはないが、触れ難い沈黙が聖堂を包み込んでいた。この聖堂に仕えている者はおらず、いつも大聖堂に居る聖職者を呼んでいる。聖堂の奥の方に、アルティカは居た。その隣には無論ミフェリオがおり、一先ずウィルオンは速足に距離を縮めた。アルティカと対面して話していたらしい司祭に軽く頭を下げれば、彼は優しく手を持ち上げる事で応えてくれた。 「ウィル」 「アルティカ様、旦那様からのお手紙をお持ちしました」  名を呼ばれたのに対して手紙を持ち上げ、一度それをミフェリオに託す。手早くそれを確認してから、それはアルティカに手渡された。迷うことなく、アルティカは封を切った。少し急ぎ足で中身を確認し始めたアルティカを他所に、ウィルオンは左方へと視線を移す。掲げられている十字架の下に、二人の兄妹が居た。アルティカが"揺り籠"の競売で競り、一足先に連れ帰った者達だ。あれから、一日が経過している。一人の娘が縋りつくように、腐敗を防ぐ為にと作られた水晶の上で今もなお泣いていた。痛々しい姿だ、とウィルオンは顔を僅かばかりに顰めた。それを遮るように、アルティカが僅かばかり息を吐き出すと共に手紙を下ろした。 「司祭様、あと二日…どうにかもたせる事は出来ませんか?」 「…二日ですか…。…難しいですね、あの少年の身体は元から弱りすぎておりました。どれだけ手を打っても、恐らくもってあと一日です」  アルティカが司祭に問えば、手紙の内容を理解した彼は少々険しい表情で告げた。ぐ、と誰もが苦い顔をする。そう、腐敗を防ぐ為に施された水晶化の魔法にさえ、少年の身体が蝕まれ始めている事に気付いたのは今朝の事だ。その魔法を施したのはミフェリオだが、例え此処で彼以上に高度な魔法を施したところで逆効果だろうと司祭は語る。 「………仕方ない、か。…司祭様、父に代わって葬礼をお願いできませんか?」 「構いませんが…そうですね、それはあの娘に聞いた方が良いかと私は思います」  アルティカの言葉に、司祭は水晶の上に顔を伏せている娘を見た。今の彼女は、誰が何を言っても聞く耳を持たないだろう。司祭も幾度か言葉を掛けたらしいが、まるで反応がないと言う。水さえろくに喉に通していないと言う娘は、そのまま本当に兄の後を追いそうだ。 「大切な家族を天へ送る者は、家族である彼女が選ぶべきではないでしょうか」  それが天より娘に与えられた役目であると、そう司祭は語る。なるほど、と一理ある言葉にアルティカは一度沈黙した。大聖堂に行けば彼以外にも聖職者はいるし、あるいは彼女自身に心当たりがあれば―――否、それは流石にない、だろう。少し迷ってから、アルティカは娘の方へと歩き出す。僅かばかりに響く足音は聖堂内に響くも、不思議と悲しい音色に聞こえた。 「…クラリス、」  二呼吸ほど迷ってから、アルティカは娘の傍にしゃがみ込み、その名を呼びながら優しく肩を撫でた。ぴくり、と確かな反応をしめすものの娘…クラリスは決して顔を上げようとしない。こちらの会話は聞こえていた、だろうか。肩から指先を離しては、行き場を失くした手を軽く握ってから膝の上に下ろした。一呼吸程の沈黙を挟んでから、アルティカはまた顔を上げた。 「…悪い、本当は俺の親父…父に頼みたかったんだけど、間に合いそうにない」  今こうして彼女達を救ったのは、他ならぬ父だ。それでいて父は法力に長けており、かつては法力国家シュレリッツで法術を学んだ事もあると言う。詳しい話は聞いた事はないが、アルティカの予想ではそれこそ司祭、下手をすれば司教の位に就いた事もあるほどではないかと考えている。今はただの商人である事と、自分という子が居ると言う事は既にその位は解されているのは明らかだが、それほどにまで彼の法力は高い。 「………クラリス。お前がお前のお兄さんを託せると思う聖職者を、決めて欲しい」  心当たりがあるなら勿論だが、居なければこの街にも多くの聖職者は居る。誰でも構わないと言うならば、この場に司祭も居る。もしそれを決める事さえ苦しくて仕方ないと言うならば、と言葉を続けたところで声は溶けて消えた。今にも砕けて壊れてしまいそうな彼女に、それ以上の言葉を掛ける事が出来なかったのだ。その重みで、壊れてしまいそうな気がした。長い長い沈黙が流れた。駄目か、とアルティカがそれを諦めようとした時だ、ずっしりと重いだろう頭をクラリスが持ち上げた。酷い顔をしていた。既に涙は枯れてしまったのか、虚ろな瞳がアルティカの輪郭を探し回って、ようやっと捉えた。ただ頭を持ち上げただけだと言うのに、その身は倒れそうで思わず手を伸ばしてその肩を掴み支えた。 「………貴方は」 「え?」 「…貴方は、神官様では、ないのですか?」  ぽつ、と擦れた声で囁かれた問いを理解出来ず、アルティカは間を挟む。二回ほど瞬きをしてから、自身を指差した。 「俺っ?いやいや、違う違う!俺は………ただの商人だ、神官…と言うかそもそも聖職者じゃない」 「…けれど、あの時の法術は…」 「…あー…あれは、その…。幸い、法力に恵まれてるってだけだ。父親譲り…なんだろうな」  慌てて横に振るった指先で頬を掻きながら言えば、彼女は一度そっと視線を逸らした。一度眠る兄を見てから、また酷く重たい頭を必死に持ち上げるようにアルティカを見た。 「…貴方は、どうして、私達を買ったのですか?…直ぐに働かせる訳でもなく、私達奴隷に対して葬礼、だなんて…聞いた事、ありません」  それも聖職者を用意した上での葬礼だなんて、と彼女の瞳は悲しみに溢れながらも、何処か少し不思議そうだった。恐らく"揺り籠"として彼方此方で売買されてきた所為だろう、酷く戸惑っている様子でもあった。その感覚が彼女にとっては当たり前の事であると言う事に、胸を締め付けられた。だが、それ以上に。 「奴隷だからって、自分の…自分達の命を、軽いものとして扱うな」  自分で自分を奴隷として認識し、その命に価値がないと言いたげな瞳が許せなかった。それは決して、彼女の責任じゃない。彼女をそう扱ってきた多くの者の所為だ。だからこそやり場のない怒りを、アルティカは軽く指先に力を込める事で自分の内に留めた。しかし彼女の肩を支えていた指先からそれは伝わったらしく、ぴくり、と僅かに彼女は身を震わせた。 「人の命に、地位も何も関係ない。金持ちだから死んだら葬礼されて、奴隷だから死んでも葬礼されないなんて、そんなの可笑しいだろ」  命は平等に与えられたものだ、ならばその命は平等であるべきものだ。即ち、死を迎えれば皆、平等に弔われるべきだと。一度、深く息を吐き出しては吸い込む事で力を抜いた。彼女の肩を支えていた指先を離しては、アルティカは少しだけ視線を逸らした。 「お前達を………買った、のは…解放運動だよ、聞いた事くらいあるだろ?とは言っても、俺は父親に頼まれて行ったに過ぎない、けど」  実際に彼女達を救ったのは、自分ではなく父親と言えよう。故に酷く言葉を選びながら言えば、クラリスはまた沈黙を挟んだ。 「…貴方のお父様が、どのような方かは存じません。ですが…兄を…私の所に連れてきてくれたのも、貴方のお父様が?」 「………いや。それは俺の独断、だな」  しかし奴隷だからと言ってそのまま捨て置くほどの人間なら、そもそもアルティカはあの場には赴かなかった。不死者化や死霊化の恐れ、何より人々が思って居るほど腐敗は遅くはない。書類で身内を見つけた時、アルティカはそれを迷わなかった。故にこうして一足先に連れ帰って来たし、実際に葬礼を行おうとしている。虚ろだった瞳が、僅かばかりに何処からか注ぎ込んでくる光を映した。 「なら、私達の…少なくとも、私の心は、貴方に救われました。…いいえ、救われて、います」  否、違う。僅かばかりに浮かび上がってきた涙が光を反射したのだ。それを隠す為か、彼女は眠る兄を見下ろす。一晩中、此処で泣いていたと言うのにまだ涙が出てくるのは、それだけ兄の事を好いていたからだ。当たり前だ、唯一の家族だったのだから。 「あの時の、貴方が放った光は、とても…とても優しくて、温かかった」  あの光に救われた者は、決して自分だけではないとクラリスは確信していた。眠る兄も、きっと救われた。それ程にまで優しく温かい光は、今もクラリスの瞼に焼き付いて離れない。奴隷だからと浴びる事の赦されなかった光だ。光届かない崖の底に届いたその光は、多くの奴隷達にとって奇跡の光に近いものだったろう。 「…もし、赦されるならば。どうか…どうか兄の、葬礼を、お願い出来ませんか。きっと兄も、貴方、なら…っ…」  ふ、と込み上げてきたそれを塞ぐように、クラリスは自身の口元を覆いながら身を縮めた。溢れてくる涙が眠る兄を包む水晶を濡らし―――それを拒む事など、アルティカに出来ようか。青い瞳が酷く迷いに迷い、深く思考するように息を吐き出してから、くしゃりと髪を掻き…一度瞳を伏せて、開いた。 「………分かった。時間はねえけど…ちゃんと行いたいから、準備をさせてくれ」  実際に自分がそれを行った経験はないが、幾度か父が行っていたのを見ていた事はある。分からない所は司祭に教わればいいだろう、とアルティカはそっと立ち上がった。何処からか降り注ぐ光に、一瞬目が眩んだ気がした。
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