第一章 揺り籠

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 司祭から借りた法衣は、思っていた以上に軽く、けれど思っていた以上に重かった。非力な聖職者が身に纏うものだ、軽く作られたそれは不思議と首元が締まった。それを気遣ってか、司祭は首元を少しばかり緩めてくれた。何食わぬ顔で、彼に聖水をかけるんだろうか。そんな事を考えていたのは本当だったが、まさか聖水を持つ役目になるとは思わなかった。少量の聖水を、差し伸べられた細い指先に注ぐ。ツゥ、と綺麗とは呼べない細い腕に聖水が伝う。その一滴さえ無駄にならぬようにと、クラリスは与えられたそれをそっと兄の身体に掛けた。水晶から解放されたその身は、聖水を吸い込んでいく。ぱしゃ、と散った聖水が光を反射して輝く。濡れた指先でその頬に触れ、彼女は兄に言葉無き最後の別れを告げる。その表情は、よく見えなかった。そっと身を引きその場をアルティカに返したクラリスは、一歩引いた所でしゃがみ込んでは胸元で両の手を握り合わせた。呼吸を整えてから、一歩を踏み出す。手にしていた聖水で、今度は自分の左手を濡らす。一度、それを胸元に寄せて目を伏せる。  名しか知らぬ少年に、祈りを捧げる。彼はどんな声で、どんな口調で、どんな話をしていたのだろう。それをアルティカは知らない。どんな性格で、どんなものを好み、どんなものを嫌う少年だったのだろう。分かる事と言えば、傍で彼の安らかな眠りを心から祈り願う彼女を守り続けてきた、とても勇敢な少年だと言う事だけだ。―――ふ、と心の奥底に言葉にならない何かが浮かんできた。一つ、二つ、三つ…とそれは少しずつ増えて行く。音もなく、何処からか湧いてくるそれが"祈りの力"であると、昔父に習った覚えがある。それを、自分の内に留めていく。ゆっくりと少しずつ、たった一つでも逃さぬように大切に。やがてそれは、アルティカの内から溢れ出す。言葉は、無かった。溢れたそれを全て聖水に溶かし、伏せていた瞳を開けて少年の身体にそれを振り撒いた。シャラ、と降り注いだ聖水が光輝き―――ふわり、とその身を包んだ。一つ、二つ、三つと淡い光が集う。そこに集った祈りの力が、少年を天へと運び始めたのだ。次第に光度を増していくそれに、アルティカもまた目を伏せた。  胸元で十字を切り、その安らかな眠りを少女と共に祈り願う。熱を宿した光はその身を溶かしはじめ、三呼吸。カラ、と酷く軽い音を立てて祭壇の上に転がったそれは、酷くボロボロだった。少女に代わって、アルティカは一歩近づいた。信じられない程に軽く、細く、弱い。まともな栄養を取れなかったと言う事が実によく分かる。あらかじめ用意しておいた骨壺に収めていく。時間をかけて粗方収めたところで、少女の肩を撫でた。びくりと肩を震わせた少女は、恐る恐る目を開ける。それでも彼女は、その姿を見送らねばならない。震える瞳がそうっと兄を見て、酷く顔を歪めた。強く握りしめられていた指先を解くも、震えていた。最後はしっかりと少女が全て骨壺に収めて、蓋をする。光が遺した熱が、壺を熱くしていた。それを冷ますかのように、アルティカとクラリスは共に骨壺に聖水をかける。ほう、とアルティカが息を吐き出した時だ。限界だったのだろう、ふ、とその場で意識を手放したクラリスの身を咄嗟に伸ばした両腕で受け止め、支えた。  が、どうやら大分きているのは同じらしい、アルティカは軽いはずの彼女の体重に釣られてその場にしゃがみ込んだ。それに逆に驚きながらも自覚すれば、情けない、と自分に呆れる他なかった。一呼吸程、深く深呼吸をする。大きな十字架の下、聖水に濡れた骨壺を見上げてから少女を見下ろす。やせ細った身で、此処まで耐えてきた。 「………お疲れ、クラリス」  此処まで生きて来てくれた事に、感謝した。溢れるそれは、総称するのであれば"博愛"である。あとはゆっくりと休んで、それからこの先の事を考えればいい。一人残された彼女は、きっと酷く寂しい思いもするだろう。だけれど、彼女は生きている。まだまだこれから先、彼女の命は鼓動を刻み続ける。それを止めるのもまた、彼女の自由だけれど。少年が守り続けてきた少女の鼓動が長く続く事を、願わずには居られなかった。少ししてから、アルティカは少女を抱き上げ立ち上がった。少しふらついた足元をしっかりと確認してから、聖堂の扉に向けて二人の従者の名を呼んだ。 「ミト、ウィル」  ワンテンポおいてから、その扉は開かれた。そっと様子をうかがう様に顔を覗かせた二人に、手を貸してくれ、と訴える。少し驚いた様子でウィルオンが先に歩みを進め、続けてミフェリオと司祭が聖堂内へと入る。 「限界で気ィ失った。部屋で休ませてやってくれ」 「はい、分かりました」 「…お疲れ様です、アルティカ様」  クラリスをウィルオンに託す一方、ミフェリオの呼びかけにアルティカは力なく肩をすくめた。司祭に軽く頭を下げれば、彼は安堵したように頷いて見せた。少し遅れて、振り返る。残された骨壺は、クラリスの傍に置いておくのが良いだろう。故にそれに手を伸ばそうとした時だ、司祭の優しい手がそれを柔らかく止めた。 「私が運んでおきましょう」 「…いや、でも」 「アルティカ様も、お休みになられて下さい」  否、と彼はアルティカを気遣う様に優しく首を横に振るった。顔色があまり良くない、とその頬に触れ撫でた。鏡は見たくないな、と青い瞳が逃げるように逸らされたのを見て、司祭は酷く心苦しそうに顔を歪めた。それを諫めるように目を伏せては、彼はミフェリオに目配せをした。その意図をしっかり受け止めてから、ミフェリオはアルティカに腕を伸ばす。促されるように扉へと向かい、聖堂から一歩外へ出た瞬間にちゃんと儀を行えていただろうかと不安が押し寄せてきた。クラリスを抱えたウィルオンが、そして骨壺を両手で抱く司祭がアルティカに対して頭を下げ、踵を返した。その背を見送ってから、アルティカもまた歩き出す。何かを考える気にならなくて、やけに疲れた自分の肩を掴んだ。 「…アキ、大丈夫か?」 「…あー…。………いや、流石にちょっと、寝るかな…」  ふ、と視線を下ろせば自分の身を包む法衣が目に入った。今更だが、法衣に着られてる感が凄まじい。父親と違ってとても着こなせる気がしないし、そもそも似合っていないと言う事は自覚していたが予想以上に酷い。本当に自分で良かったのだろうか、と過ぎた事を無駄に考え込んでしまう。否、これで文句を言われても知った事じゃない。 「あ。待て、その前にそろそろヘブリッジから、届くだろ」 「大丈夫、俺とウィルでちゃんと対応しておくから」 「いや、」 「―――アキ」  意外にも少し強い声が、アルティカの声を遮った。それに驚いて足を止め、視線を移せば酷く揺れる茶色の瞳が見えた。一呼吸ほど置いてから、堪らずと言った様子でミフェリオの指先がアルティカの頬に触れた。 「休んだ方が、良い」  どうやら相応に酷い顔をしているらしい、とミフェリオのその瞳を見てようやっと認めた。故にアルティカはくしゃりと後ろ髪を掻いては、自分を諫めるように瞳を伏せた。 「………悪い、ミト」  出てきたのは、何故だろう酷く虚しい謝罪の言葉で―――その言葉は、一体誰に捧げたい言葉だったのか、分からなくなってしまった。 「お前、わざとだろう」  不意に呟かれた言葉は、何時紡がれるのかと待っていた言葉だった。故にフェナルドはテオドールの言葉に顔を上げるも、あえてわざとらしく小首を傾げて見せた。 「ん?なんだ、何の話だ?」 「…とぼけるな。そもそも、お前が"揺り籠"の情報を見逃す訳がない」  それが酷く気に入らないのだろう、テオドールは酷く紫の瞳を歪ませた。それが面白くて、つい腹の底で笑ってしまう。最初から可笑しいと思って居たのだ、と語る彼は昔から変わらない、生意気なくらいに優秀だと常々思って居る。 「本当の事だったのなら、お前は"揺り籠"の情報を掴んだ時点で俺に転移魔法を強請ってるところだ」 「人聞きが悪いな。距離が距離だったしな、転移魔法など負荷の高い魔術を強請るのはどうかと思っての事だぞ?」 「このタイミングで、"主人の優しい気遣いを"、か?」  続けようと思って居た言葉を持っていかれたフェナルドが、一度目を伏せて肩をすくめてみせた。突き刺さる視線が痛くて、フェナルドは素直に降参するように両の手を挙げた。 「…ああ、そうだよ。少し前からセドリートが何か企んでそうだと言う事は分かっていたからな」 「…それを利用して、更に別の魚を釣ったのか」 「そう言う事だ。ジルベルとラディオ…特にラディオの僕は我が子に対してやたら競争心を燃やしていたからな」  芋づる形式と言う奴だ、と言いながらフェナルドは両の手を軽く振るってから下ろした。その競争心を是非とも息子が立つ裏表のない商売という舞台で発揮してほしかったのだが、とわざとらしく残念そうに肩を落として見せる。 「セドリードは我が子というよりかは私に、だろうな。殺す気はなかっただろう、そこまで阿呆な男ではない」 「だからと言って、わざわざあの子たちを危険な目に遭わせる必要性はあったのか?」 「あったさ。私が必要のない事をする人間ではない事は、お前が一番良く知っているだろう?」  今更何を、と今度はフェナルドがテオドールを赤い瞳で見上げた。僅かばかりに、眉が顰められた。赤いその瞳は昔から変わる事を知らない。日差しを受けて輝くその赤は、まるで闘志のように宿っている。 「テオ、私はあの子を箱庭の中でよしよしと撫でて育てる気は毛頭ないぞ」  もし仮にあそこで自分がヘブリッジに赴けば、セドリードの屋敷であの三人の足止めをする事は出来なかっただろう。故にフェナルドは我が子を動かしたのだ。それも飽くまで静観的に、だ。一切の情報を与えず、自らの手足で調べさせ、歩かせた。そうしなければ彼は、何時まで経っても何も覚えない。情報入手の仕方、"揺り籠"の競り…あらゆる現実、問題、障害、関係者、全体図。 「あの子も、私に似て箱庭から出て行きたがる子だしな。しかし、無知で飛び出せば無傷では居られない」 「それを防ぐ為に俺達トルスカ家が在る。…俺は今回の件、必要であったとは思えん」 「そう、そこだよ、テオ。あの子はまだ、お前達トルスカ家の扱い方が下手だ。我が子ながら、驚くほどにな」  そして何よりも、従者の使い方をまだまだ覚えていない…扱いきれていない部分がある。どうしても人を使うと言う事が慣れないらしい、それはそれで決して悪い事ではないのだろう。しかしどう足掻いても我が子もまた、彼らトルスカ家を仕えるキルスカ家の人間だ。それはあまりにも致命的だ。 「あの子は未だ、主人と従者という立場を分かっていない。いい加減に正さんと、そろそろ本当に実害が及んでもおかしくはない」  フェナルドの言葉を、不覚にもテオドールは否定出来なかった。あの少年は未だに、それを自覚していない。それによって一番被害を被るのは本人ではなく、むしろ少年の周りにいるトルスカ家の人間―――即ち、ミフェリオだ。そのミフェリオもまた、テオドールからしてみれば甘い部分が多々ある。同い年の少年同士だ、無理もないが。 「………ウィルオンにも情報を伝えなかったのは、俺達トルスカ家を鈍らせない為、か」 「そう言う事だ。ただ持っているだけでお前達を使わないと言うのは、ただの宝の持ち腐れだからな」  特にウィルオンはたまには強めに使ってやらないと機嫌を損ねるからな、とフェナルドは笑って見せた。とはいえ、トルスカ家において最も情報収集に長けている彼だ、今回の事がこちらの意図である事には恐らく気付いているだろう。今もなお、こうしてわざと時間をかけて帰路を辿っている意図も、だ。故に逆に彼は酷くやる気に満ちていただろうことは目に浮かぶ。 「…俺の事は使って鍛えてくれないのか」 「阿呆、これ以上お前を鍛えてどうする。ハンフリーにお前を強請られても面倒だしな」  つまらんな、と納得する一方で自分だけ疎外されているような気持ちに陥ったテオドールの言葉に、フェナルドは酷く呆れたように目を眇めた。
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