第一章 揺り籠

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 そんな彼らがキルスカ家へと帰還したのは、予定通り二日後の事だった。少し離れた所からそれを知らせる鐘の音に、アルティカは顔を上げた。その音を頼りに皆、この屋敷の主の帰還に備えて動き始める。遠くで狩りを行っていただろうウィルオンの相棒も、渋々飛び始めただろう。傍に居たミフェリオの名を呼びながら立ち上がれば、当然だと言わんばかりに彼は頷きアルティカに続けて部屋を出た。少し急ぎ足で廊下を歩き、階段を下り―――玄関へと辿りついた時、丁度その扉は開かれた所だった。外にまでずらりと並んだ従者達が一斉に腰から上体を倒し、すぅ、と呼吸を合わせたのが聞こえた。 「おかえりなさいませ、旦那様」 「ああ、ただいま」  それに対してこの屋敷の主、アルティカの父親であるフェナルドは息をするように手を軽く挙げながら答えた。アルティカは未だにこの従者たちの出迎えはむず痒くて逃げてしまうのだが、対する父は流石の慣れようだ。相変わらずすげえな、とアルティカは口から飛び出しそうになった感想をぐっと飲み込んで、父の許へと歩みを進めた。 「おかえりなさいませ、父上」 「ああ、アルティカ。ただいま」  声を掛ければ少し驚いたように目を丸めたフェナルドだが、何処かそれを楽しむように彼は口元を緩ませて答えた。一方でミフェリオがフェナルドに頭を下げ、同じように出迎える。少し間を置いてからテオドールがアルティカに対して頭を下げた。 「ただいま戻りました、アルティカ様」 「ああ、お疲れテオ」 「おかえりなさい、テオドール様」  一足先にこの場に来て挨拶を終えていたウィルオンがそっとテオドールから荷物を受け取り、彼らはフェナルドを先頭に歩き出す。最後にフェナルドが手を振るえば玄関の扉は閉められ、従者たちは各々の仕事へと戻っていく。ある者はフェナルドに手渡す物や伝えねばならない事があるだろう、途端に時計とのにらみ合いが始まる。 「今回は急に無茶をさせたな。すまなかった、アルティカ」 「いえ、とんでもない。とても良い勉強になりました、父上の期待に応えられたかは分かりませんが…」  言いながらフェナルドは着こんでいた外套の留め具を外し、それをテオドールに放る。流れるように外套を受け取ったテオドールはその会話に耳を傾ける一方で、ミフェリオから一つの書類を受け取る。手早く書類の中身を確認してから、それをミフェリオへと返す。ふ、と吐息で笑ったフェナルドが目を細めた。 「詫びの土産ならあとでお前の部屋に運ばせよう。それで許せ」 「…いえ、折角ですが遠慮しておきます。代わりと言ってはなんですが、父上」 「なんだ?」 「此度の件で、ミフェリオとウィルオンが非常に懸命に働いてくれました。至らない俺の事も補佐してくれて…なので、どうかその分の報酬を前向きに考えて頂ければ、と」  途端、名を呼ばれた二人の護衛が思わず顔を上げて何かを言おうとした口を閉ざした。当然それにはテオドールも顔を上げて眉を顰め、フェナルドはアルティカの申し出に軽く小首を傾げた。 「ほう?お前がそこまで言うとは、なかなか刺激的だったようだな?」 「ええ、それはもう大変刺激的でした。やはり外は良い、百聞は一見に如かずとはこの事ですね」  そこまで会話を交わしたのを最後に、彼らはフェナルドの自室に到達するまで一度会話を止めた。部屋の警備にあたっていた護衛とメイドが深く頭を下げて扉を開け、そんな彼らに対してフェナルドは軽く指先を振るった。暫しの間下がれ、の合図だ。それに彼らは改めて頭を下げ、一同が部屋に入ったのを確認してからそっと扉を閉めた。 「―――ぷっ」  そして指示通り暫しの間そこから離れていく彼らの足音が遠のいたのを確認した瞬間、一番最初に耐え切れずに小さく吹き出したのはフェナルドだ。咄嗟に口元に指先を当ててそれを堪えようとするも、敵わずに彼は肩を震わせて盛大に自室で笑い声を響かせた。 「あっはっはっはっはっ!」 「よっし!笑ったな親父、笑ったな!?俺の勝ちだ、ミトとウィルに危険手当とボーナスと、代休!絶対だぞ、絶対だからな!?」 「か、勘弁してくれアルティカ、おま、お前が急に敬語を使い始めたから、なん、何事かと驚いたぞ…っ…、あっはっはっ!」  対してアルティカは左手で握り拳を作っては右手でフェナルドを指差し、その条件を飲み込ませてやると言わんばかりに声を張る。それが余計に面白可笑しいのかフェナルドは顔面を隠すように掌で覆っては腹を抱えてその場で笑い続ける。 「い、いや本当、アルティカ様、今のは不意打ちすぎるでしょう…っ!」 「おい、ウィル…!」  釣られて耐え切れずに小さく吹き出したのはウィルオンであり、そんな彼をミフェリオが顔を俯かせながら肘で突っついた。そんな彼らにテオドールが何処か少し呆れたように口元を緩めるも、何を言う訳でもなく一足先に主人の為に椅子を引いた。必死に笑いを堪えながらフェナルドはその椅子に腰を下ろし、堪らず一通り満足いくまで笑い声を響かせる。 「はー…全く、予想以上に怒らせてしまったのかと思ってしまったよ。それとも、何か欲しいものでもあるのか?」 「だから!ミトとウィルの!危険手当とボーナスと!代休!」 「あぁ、分かった分かった、お前に言われずとも元からそうするつもりだよ」  からかう様に言えば流石に度が過ぎたか、アルティカは軽く机を叩きながらフェナルドに思い切り顔を近づけた。その勢いに少し押されながら身を引いたフェナルドは、そこまで酷い主人であるつもりはないよ、と慌てて両手を挙げる。 「いえ、その必要はないかと」 「おや」  が、それを柔らかく断ったのは二人の上司にあたるテオドールだ。意外な申し出にフェナルドが顔を上げ、む、とアルティカが口をへの字に曲げてテオドールを見た。 「二人はトルスカ家の人間として、当然のことをしたまでです。当たり前の事を成しただけで褒美を与える必要はありません」 「! テオ、お前なっ」 「まぁ待てアルティカ。…そうだな、お前の言う事が尤もだが…」  相変わらずだな、とフェナルドは赤い瞳でテオドールを一瞥してから当の本人であるミフェリオとウィルオンを見た。条件反射だろう二人の護衛は背筋を伸ばしてその瞳を見てから、その意図を知って顔を見合わせる。 「そうですね、必要ないですよ。テオさんの言う通り、当たり前の事をしたまでですから。なぁ、ミフェリオ?」 「は、はい。…アルティカ様がご無事であった事が、なによりの褒美ですから」 「(…コイツ本当、旦那様の前だと途端に緊張するのな…)」  どうにも直視が難しいらしいミフェリオは逃げるように少し顔を俯かせ、目を伏せた。まるで護衛の鑑のような返答にアルティカは更に口元を曲げ、フェナルドは頬杖をついた。 「ふむ、お前達二人がそう言うのではな…」 「親父っ」 「しかし、テオに似て可愛くない。と言う事で代わりに土産をあげよう、後でたんと食べなさい」 「どういう事でですか」  一同の意見を聞いた上での妥協案として、一つの結論を弾きだしたフェナルドにテオドールが呆れたように彼を見た。また甘やかしてと訴えるも、フェナルドはそれに気付かない振りをして机の上に少し溜まっていた書類をひっくり返した。それで許せとフェナルドがアルティカを見れば、それならば、と彼も認める事にしたらしい。 「ははっ、ご馳走様です、旦那様」 「あ、ありがとうございます」  楽しみだとウィルオンが素直に笑い喜び、ミフェリオが改めてフェナルドに対して頭を下げる。良いのだろうかと茶色の瞳がテオドールを一瞥するも、一度決めたら聞かないから構わん、と言った様子で彼は目を伏せた。一方であっという間に少しの書類を片付けたフェナルドが、アルティカに対して掌を差し出す。一瞬、何事かとアルティカが目を丸めて、二呼吸。赤い瞳が何を訴えているのかを理解して、青い瞳が一度逃げるように逸らされた。しかし父が浮かべたが笑みに逆らう事は赦されないし、逃げる事も出来ない。故にアルティカはミフェリオを見やる。おずおずと言った様子でミフェリオが先ほど一度テオドールに見せた書類を、アルティカに託す。 「………マジで本当、期待はするなよ」 「ふむ、では大いに期待するとしようか」  出来る事なら渡したくないそれ―――"揺り籠"の競りの領収証と共に書類を手渡すと、フェナルドは迷うことなく真っ先に最後のページを開いた。テオドールでさえ見る事を躊躇ったそのページをあまりの速度で開くものだから、ウィルオンとミフェリオが思わず目を逸らした。当然アルティカはそんな二人よりも最初から逃げるように目を伏せており、赤い瞳が二回ほど瞬きをする。 「………なるほど。アルティカ、お前は本当に口が回せない相手だと買い物が下手だな」 「だから期待するなって言ったじゃねーかよ、ごめんなさい!!」 「はっはっは!しかしお前はファーストも経験した事はなかっただろう?それを考えれば及第点だ、安心しなさい」  と、彼は笑いながら机の上に書類を置くと、迷うことなくペンを走らせてから、ダン、と大胆に判子を押した。続けて彼は流れるように領収証にも自らの名と判子を押し、それをテオに託す。せめてセカンドだったなら、とアルティカは嘆くも"揺り籠"の競りでそんな生ぬるい事はない、と予想通りの言葉が返って来た。 「よくやった、アルティカ」 「!」  そんなアルティカの頭を、フェナルドの指先が優しく撫でた。少し驚いたように青い瞳が見開かれ、赤い瞳を見た。まるでここ数日のアルティカを見ていたかのような、そんな瞳をしていた。が、人前だから、とアルティカは直ぐにその指先を押し退けた。素直じゃない、とフェナルドが言えば当然アルティカはうるさい、と口をまたへの字に曲げた。 「ウィルオンとミフェリオも、ご苦労だった。今日の所は他の者に任せて、二人は休みなさい」 「はい、旦那様」 「テオ、お前も今日は下がっていい」 「はい」  積もる話もあるだろう、と言えばテオドールは何を言う訳でもなく一度目を伏せた。時刻は昼過ぎ、次に集まるのは夕食の時だろう。それまではフェナルドも一息つくか、と考える。 「アルティカ、お前は少し私と一緒に来なさい。ミフェリオ、アルティカを少し借りるよ」 「えっ、だ、旦那様、そのような事…!」 「…親父、あんまりミトをいじめるなよ…」 「はっはっ、すまんすまん」  その前に、とフェナルドはアルティカの名を呼びながら椅子から立ち上がる。どちらにと問おうとして、テオドールはその言葉を飲み込んだ。聞かずとも理解したからだ。 「では、お言葉に甘えて失礼させて頂きます。何かあれば、いつでもお呼び下さい」 「ああ」  故に彼は二人に一礼してから、二人の護衛を連れて踵を返す。休めと言ったところで働くのだろう姿が目に浮かぶ。最低限、ここ数日の変化と情報を交換し確認して、あとは"揺り籠"の競りでやってきた者達の事もある。一方でフェナルドはいくつかの書類を選別して手にとってから、歩き出す。それに続けてアルティカが歩き出し、父の背に問う。 「親父、何処行くんだ?」 「聖堂だ。お前、発作を起こしたんだろう?」 「………あー………」  忘れてた、と後ろ髪を掻いたアルティカに、全くお前は、とフェナルドが苦笑を浮かべたのも無理はなかった。  よっ、と小さな掛け声と共に、アルティカは聖堂の最奥で祭壇の上に身を乗り上げた。 「お前、ある少年の葬礼を行ったそうだな」 「ぶッ」  そのままそこに腰を下ろす形で体の向きを変えようとして、手が滑って危うくそのまま滑り落ちそうになった。自分の父はまさに今先ほど帰宅したばかりだと言う事を思わず疑いながら、アルティカは肩越しに振り返りながら顔を歪ませた。 「………いつ聞いたんだよ、それ………」 「うちには優秀な情報伝達役が居るだろう?」 「(あっ…んの野郎、余計な事まで…!)」  途端に掌を返すようにアルティカは脳裏でウィルオンの名を呼ぶも、それが彼の仕事なのだから仕方ない。…いや、恐らく此方が帰宅までの時間を聞いたところで既に察していただろう。ふい、と逃げるようにアルティカは顔の向きを戻す。そしてわざと少し時間をかけて再び祭壇に身を乗り上げ、今度こそ父と向き合う様にそこに座った。赤い瞳が、柔らかく笑っていた。 「司祭殿に教わったのか?」 「…ん、まぁ…。…あとは、親父がしてたの何度か見た事あったから…」 「そうか」  その赤い瞳が閉ざされると共に、フェナルドは再度アルティカの月白色の髪を撫でた。先ほどは人前だからと押し退けられたそれは、振り払われなかった。しかし昔ほど素直に喜びはしなくなったか。何処か少し気恥ずかしそうに口を尖らせながら青い瞳はそっぽを向き、そんな我が子に父は小さく笑ってから手を離す。 「………重かっただろう」  それが父が意図的に経験させた事だと、子は気付いているだろうか。…もしかしたら、そう予想している可能性はなくはない。どちらにせよ、あえて真偽を確認するような子でない事は親であるフェナルドが一番良く知っているが。フェナルドの問いに、アルティカは身を縮めながら少し顔を俯かせた。この少年は、人に金で価値をつける重みを知った。まるでペン先が鉛のように重くなるのを、実際に体感してきた事だろう。人を買うと言う行いがどういう事か、分かったはずだ。正気じゃない、とアルティカは極小さな声でそう呟けば、違いない、とフェナルドはその言葉を優しく拾い上げ、同意した。 「…ナオヤ、良く聞きなさい。その重みを忘れてはいけないよ」  その頬を撫で、青い瞳を覗き込んだ。戸惑う様に父の瞳を見た子の瞳は、僅かばかりに揺れていた。ぐ、と奥歯を噛みしめたアルティカ…否、ナオヤが青い瞳を歪ませた。 「お前は何時も、私が教えた通り"人の命は金で買えない"と言っていたね。…その言葉の本当の意味を、理解出来たね?」  今後、ナオヤがその言葉を口にする時、本当の重みが加わっている事だろう。言葉にするだけならば簡単だと言う事を、知った。しかし意外にもナオヤは少し迷う様に沈黙を挟んでから、ふる、と緩やかに首を横に振るった。 「…いや…。……理解、してねえ…と、思う」 「………と、言うと?」 「…俺は…ただ親父に言われて、それで行っただけだ。親父の指示で、親父の金で…だから…」  確かに、それでも酷く辛かったのが本音だ。しかし父は、それ以上にその重さを知っている。自分の金で、自分の意志で"揺り籠"を買うと言う行為の重みを―――本当の重みであると言えるそれを、理解している。ふ、と不謹慎ながらにフェナルドは我が子に口元を緩ませた。自分によく似て、負けず嫌いだ、と思ったのだ。 「…そうだな。お前の言う事にも一理ある。はっきり言って、お前は一部の重みを知っただけだ」  だが、たった一部でも知っているのと知らないのでは雲泥の差がある、とフェナルドはナオヤに言い聞かせた。ふ、とその言葉に惹かれるように青い瞳が赤い瞳を見上げる。その頬を、もう一度撫でた。 「お前や私より、その重さを知っている者は身近にいる。…それが誰かは、分かるか?」 「…テオとか、ウィル…とか。………あと、多分………ミトも」 「ああ。彼らはいつも私やお前の為に、お前が感じた重いそれを背負ってくれている事を、忘れてはいけない」  彼らトルスカ家は、自分達キルスカ家よりも遥かにそう言った類の重みを知っている、と断言した。それを理解しているかどうかは個人の問題だろうが、少なくとも自分達の代わりにそれを背負っている事は確かだ。汚れていくのは、いつも彼らの手だ。その手を本当の意味で汚させているのはきっと、自分達であると。 「けれど、ナオヤ。今回の事でお前が感じたものは、決して偽善ではない事も忘れてはいけない。…自分を、理解してあげなさい」  そんな自分を責めるのではなく、どうか認めてやってほしいと願ったのは当然のことだった。青い瞳が、少しばかり驚いたように丸められた。それを恥じる事はないのだと、赤い瞳が語っていた。偽善の気持ちでは、決して法術は扱えない。あの時、少年が"聖域"を生み出し、そして此処で葬礼を行えた事。 「―――よく頑張ったな、ナオヤ」  それが何よりの証だと、父は改めて子の頭を撫でた。溢れて零れそうになったそれを、咄嗟に奥歯で噛みしめた。―――自分が葬礼を行っても良いのかと、酷く迷っただろう。自分の力ではないそれで救った誰かを、自分が弔う資格はあるのかと。だと言うのに感じた命の重みは、計り知れないものだった。親しい間柄でもない、声も口調も分からない誰かの命は、信じられない程に重かった。それはあまりにも重く、果たして自分がしている事は正しい事なのか、どんどん分からなくなっていった。ナオヤを気遣ってか、フェナルドは我が子を腕に抱いた。ぽん、とその背を優しく叩き撫でた。目を伏せれば、ふわ、と二人を包み込んだのは優しい法力だ。不思議とその力は、強い眠気を誘う。 「大丈夫。その重みを忘れなければ、お前はきっと自分の事を、そして彼らの事も正しい道に連れ歩いて行けるだろう」  その言葉を最後まで聞き取れただろうか、すぅ、とその瞳を閉ざしたアルティカを、フェナルドは少し両腕に力を込めて抱き支えた。いつの間にこんなに大きくなったのだろうか、などと考える。その背をもう一度撫でながら、フェナルドは眉を顰めた。 「(………とは言え、発作、か。…最後に起こしたのは十年近く前だ)」  腹を括って法力国家シュレリッツへ、まだ幼かったアルティカを連れて行って以来だ。それほどにまで辛い経験だったのか―――否、それもまた確かな事実だろう、しかし恐らく違う。 「(暗殺奴隷を目の前にして、それが幼い頃のミフェリオと重なって…―――……何処かしらで記憶が引っかかった、と考えるが妥当か)」  嘆かわしい事だ、と堪らず息を吐き出した。一体何時まで我が子は苦しまなければならないのだろうと。ふ、とその答えを天に求めるようにフェナルドは掲げられていた十字架を見上げた。天は、答えてはくれなかった。
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