序章 始まり

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 商業都市、アルフネス。この国において三本の指に入る大きな商業都市は、ルガラントの西部に存在する。多くの商人が住まい訪れるこの街は、一日を通してとても賑やかでうるさいくらいだ。近年になって、東部から逃げてやってきたという者も大勢いる。何故ならば、反国家を掲げている都市の一つだからだ。この街に住まう商人は勿論、西部に存在する数多くの町村は原則的に人身売買と奴隷制度を厳罰に禁じている。例え食べる物がなくても、奴隷として売買されるよりかはずっとマシなのだ。無論、課題は多々ある。流れ着いた者があまりにも多すぎてその全てを救えているとは言い難く、一方でわざと難民を装って保護を受けようとする者などもいる。売買と奴隷扱いを禁じているだけで、中には難民たちを良しとしない貴族や商人もいる。難民達に暴力が振るわれたり、逆に難民が殺傷や盗難事件を起こしたりする事も多々ある。―――決して平和とは言えない都市の、大きな門を潜り抜けた。ガラガラと幾台もの牢を、馬車が力強く引いてく。 「ちょっと見て、あれ…!」 「…ああ、またあんなに沢山…」  一斉に、街中の人々が視線を集めた。幾人もの奴隷を乗せたそれを見る目は、人それぞれだ。可哀想にと同情する者、何とも言えないと言った顔をする者、また余計な連中を連れてきたと顔を顰める者…当たり前だが、歓迎する者は居ない。文句があるなら代案の一つや二つ言ってからにしろ、という本音を言う気にもなれなかった。故に男はその視線と囁き声に眉一つ動かす事なく、馬車を急がせた。国内で三本の指に入るだけあって、この都市は非常に大きな領地を持つ。別名、城塞都市とも呼ばれるこの都市は幾層にも連なる巨壁に守られている。例えば何処からか攻められた時、敵からしてみれば非常に攻め難い造りだ。この都市は、中心へ向かうにつれて生活水準が上がる。要するに、暗黙の階級のようなものだ。外側から下流、中流、そして上流。  通常、それぞれの階級を区切る門をくぐる時は通行許可証が要求されるが、馬車はそれを素通りしていく。この都市でこれだけの奴隷を助けられる存在は、限られている。言うまでもない、上流階級に所属する者だけだ。無論、偽造する事も不可能ではないが―――それでも尚、その馬車は疑われる事は絶対にない。馬の質を見れば一目瞭然だ。力強く馬車を引いていく馬たちは、いざという時は騎馬兵の足となる。だが、他の都市には此処まで立派な馬はそう居ない。馬をそこまで育てられないのだ。馬を此処まで育てられるという事は、自分達の食が絶対的に確保出来ている者だけだ。そして、馬に装備させている馬具に施されている家紋が何よりの証だ。その家紋を見て、逆に門番達は馬車に向けて敬礼をする。  馬車を走らせること、十分。相応の速度で走らせているにもかかわらず、それだけの時間が掛かると言う事がこの都市の広さを物語っている。馬を操っていた騎士の一人が力強く手綱を手繰り寄せれば、馬は高らかに鳴き声を響かせ大きな前足を掲げてからその場に停止した。抱えていた子供は、まだ目を覚まさない。故に男は子供を改めて抱えて、一足先に馬車から飛び降りた。 「ウィルオン、後はいつもの通り頼む」 「はい、分かりました。お疲れ様です、テオさん」  馬を操っていた従者が、名を呼ばれて応えた。有能な者が多くて助かっている、なんてことを考えた。広大な庭の中央に在る一つの屋敷に向けて歩き出す途中、ふと薄暗い灰色の空を見上げた。天気が悪い。どんよりと沈んでいる雲は今にも泣き出しそうだ。夜には一雨くるだろう。速足に庭を抜けていけば、庭師たちが男を見ては敬礼したり、頭を下げたりする。 「ああ、テオ。戻ったか」  その様子はこの屋敷における男の地位の高さを証明しており―――たどり着いた屋敷の扉を開けば、少し意外な声が聞こえた。そちらへ視線を移せば、少しの書類を片手に数人の使いの者に囲まれている男が居た。上質な布で作られた服装に身を包んでいる男は、見れば相当な権力者である事は子供でも分かるだろう。 「…これは、旦那様。帰還の知らせを指示した覚えはないのですが…」 「いや、単純な私の勘だ。そろそろお前が土産を持って帰ってきそうな気がしてな」 「………占い師にでも転職なさっては?」 「まさか。私は自分の勘は信じるが、占いは信じない性質でね」  言いながら男は軽く肩をすくめて見せた。その動きに合わせて緩く左肩で一つに結われた銀髪が揺れ、綺麗な赤い瞳がからかう様に揺れた。手にしていた案件を一人の使いの者に返しながら、このまま話を進めるようにと指示を与える。それと入れ替わるように、別の者から書類を受け取った。書類に目を通しながら、隙を見ては男が抱えてきた子供を見やる。一つ気になる点でもあったか、胸ポケットからペンを取り出した。 「それで?…お前にもやっと結婚願望でも出てきたか?」 「茶化さないで下さい。…お分かりでしょう」 「………ラジア達に三割増しの礼金と共に、今後もよろしく頼むと伝えておいてくれ」 「かしこまりました」  言いながら彼は暫し紙に走らせてからペンを仕舞い、二言ほど使いの者に指示を与える。それが終わった事を確認してからその距離を縮め、片膝をついて子供を軽く持ち上げた。赤い瞳が、僅かばかりに揺れた。すると彼はその場にしゃがみ込み―――それは、男ではなく幼い子供と視線を合わせる為だ。 「………可哀想に。この厳重な扱い、闘技…いや、暗殺か」 「はい、恐らくは」 「我が子と同い年くらいではないか、世も末だな」  ご尤も、と彼の言葉に男は目を伏せて見せた。すると彼は細い指先で子供の髪先を拭った。長い事、髪を洗っていないのだろう。酷く汚れたその髪は、汚れで見えないだけで彼の瞳と同じ赤い色をしているらしい。 「…赤髪か。さぞ辛かったろうに」 「…如何なさいますか」  それが彼の胸に親近感を沸かせたのだろう。言いながら彼は子供を気遣って頭部から指先を離すも、立ち上がろうとしなかった。しかし完全な安全が確認出来るまでは、この子供は目が覚める前に彼から引き離さねばならない。故に問えば、彼は一度男を見た。 「…そうだな………お前に任せる。万一があっては困るからな」 「仰せのままに。それでは、失礼いたします」  己に任せる―――即ち、身元と安全が確認出来るまでは自分が監視しろ、という事だ。その命を胸に男は早々に身を引けば、せっかちな奴だ、と赤い瞳に小突かれた気がした。対して男は紫の瞳で、真面目と言え、と訴えればそれは伝わったらしく、彼は肩をすくめて見せた。  一週間後の話だ。誰かの予想通り、翌日から五日にも渡る雨に都市は見舞われ、いつも都市を埋め尽くしていた露店は暫く自粛された。六日目には晴れやかな晴天が戻り、都市は五日分の鬱憤を晴らすかのように再び賑わいを取り戻した。一目で全ての情報が伝わるように丁寧にかつ短くまとめられた書類を下ろしてから、彼―――この屋敷の主、フェナルドはまだ包帯の取れない子供を見下ろした。 「なるほど、名は出てこなかったか」  大方聞き覚えのある富豪と商人の間を転々と流れて来たようだ。次の届け先に辿り着かなくて良かった、と心の底から思った。フェナルドの赤い瞳に、子供は一切表情を動かさなかった。まるで感情が無い機械のようだ。その茶色の瞳はフェナルドを見ようともしない。 「申し訳ございません。完全に辿る事は出来ませんでした」 「いや、名の無い者を調べるのは難しいからな。良くやってくれた、テオ」  だが、こういった類の奴隷の動かし方をフェナルドは知っている。それは主に対して頭を下げた男、テオドールも同じことだ。現にテオドールはこうして機械のような子供を此処まで連れてきた。即ち、彼もまた動かし方を知っている、という事だ。 「…それで、一先ずは目を離したくないとの事だったな?」 「はい。確認した所、非常に高度な暗殺術を習得している事が分かりました」  テオドールの言葉に、フェナルドは眉を顰めた。彼の実力は、主である自分が一番良く知っているつもりだ。故に、彼にそこまで言わせたという事実があまりにも衝撃的だったのだ。こんなにも幼い子供が、彼に此処まで評価されるなど。例えばこの子供が自ら武人を志した者であれば、全く違う話だった。素晴らしい才を持つ者なのだと、フェナルドも喜んだはずだ。 「下手に他の者達のように自由を与えると、極めて危険です。せめて幾分か成長するまでは…いえ、可能であれば成熟し己を制御出来るようになるまでは管轄下に置いた方が良いと私は考えます」  嘆かわしい事だ、とテオドールの言葉にフェナルドは緩く息を吐き出しながら頭を振るった。そのような素晴らしい才を持つ者であれば、いっそフェナルドの方がテオドールにこの子供を雇う事を提案するくらいだ。 「しかし、この地に置いておくと言うのは旦那様の御身にも危険が及ぶ可能性も否めな」 「―――ああっ、いけません!お待ちください、アルティカ様っ!」  刹那、テオドールの言葉を遮ったのは荒々しく部屋の扉が開かれる音だった。少し遅れて、ばたばたと誰かが走る音が響く。少し驚いたように瞬いた赤い瞳と紫の瞳が視線を動かした直後、信じられない速度で駆けてきたのは一人の子供だ。その小さな背を追いかけるメイドの足などでは、子供の体力が尽きない限り捕まえられない程の速度だ。 「父上っ!」 「ああ、アルティカ。屋敷の中で走るんじゃない、それと扉を開ける時はノックをしなさい」  とても子供とは思えない足の速さで飛んできた子供を、フェナルドは難なく受け止めてみせた。いくら早くてもまだ未発達と言えよう子供の体重を受け止められない程、彼は非力ではない。やれやれと言った様子でフェナルドは子供…我が子を見下ろした。とてもよく懐いているのだろう、子は父の胸元に顔を埋めた。メイドに整えて貰ったばかりのはずの短めの月白色の髪は、既に少し乱れていた。その髪色は、フェナルドから譲り受けたのだろう。けれど開かれた丸い瞳はフェナルドの赤い瞳とは真逆の青色をしていた。無邪気に笑った子が、少し遅れてテオドールの存在に気付いた。 「あ、てお!」 「…おはようございます、アルティカ様。本日もお変わりないご様子、嬉しい限りでございます」 「………?ておはいつもむずかしいこと言うから、よく分かんない!」  ぷ、と素直な子の言葉にフェナルドは小さく吹き出した。くつくつと喉を鳴らして笑う主に気付かぬふりをしながら、申し訳ありません、とテオドールは苦笑した。まだ幼い子供には、彼ら従者が扱う敬語は難しいようだ。ようやっと、子供の背を追っていたメイドがその場に辿り着いた。 「もっ、申し訳ございません、旦那様!ご朝食を召し上がられたと思ったら、直ぐに走り出してしまって…!」 「…ふう。食べた後はあまりはしゃいではいけないと何時も言っているだろう、アルティカ」  朝からご苦労、とフェナルドはメイドを叱る事はなく、そのまま手を振るう事で下がるよう促す。それにメイドは酷く申し訳なさそうに顔を歪め、深く頭を下げてからそっと身を縮めて部屋から出て行った。子供のする事だ、彼女を責める者はこの屋敷には一人もいないだろう。 「だって、今日は父上とあそぶってやくそくしたもん!」 「ああ、ちゃんと覚えているよ。けど今はテオと大切なお話をしているんだ、あと五分だけ部屋で待っていてはくれないか?」  そう言う事ばかりきっちり覚えている、とフェナルドもまた我が子に苦笑を浮かべた。丸い青い瞳は一度瞬きをすると、父の腕の中からテオドールを見上げた。わざとらしく少し、いやかなり不満そうに口がへの字に曲げられた。しかし直後には無邪気な笑みを浮かべた子は、少し身を振るって父の腕の中から滑り落ちると難なくそこに着地してみせた。 「うんっ、ておならいーよ!」 「ありがとうございます、アルティカ様」  我が子ながら子供とは思えない身のこなしだな、とフェナルドが肩をすくめる一方でテオドールが深く頭を下げた。そんな二人に対して子はまた無邪気な笑みを浮かべて踵を返そうとして、止まった。そこでようやっと、そこに居るもう一人の存在に気付いたのだ。 「………?だれ?」 「…いけません、アルティカ様」  子がこの部屋の扉を開けたその瞬間には、既に突き立てられていたテオドールの長剣越しに、だ。鞘に納められたままとは言え、普通の子供なら目の前に長剣が突き立てられれば怯えるものだろうに。それを目の前にしながら、茶色の瞳は一切動いた様子はなかった。子に近づこうとした青い瞳の前に、そっとテオドールが指先を翳した。素直にその言葉を聞いた子は、進めようとした足を止めた。それを確認してからテオドールはそっと指先だけを下ろす。動きに合わせて、鞘に納められたままの長剣が軽く身を揺らし音を鳴らした。丁度、同い年くらいだからか、その場で首を伸ばして青い瞳を近づける。テオドールの定めた位置を超えようとはしないものの、本来であれば即刻離すべきだろう。伺う様に、テオドールがフェナルドを一瞥した。 「………迷子だよ。テオが困っていたこの子を、助けてあげたんだ」 「…ふーん…?」  まだ、その言葉を覚えるべき年齢ではない。そう判断したフェナルドは、子にそう語った。子とは純粋だ、親の言葉を素直に聞き入れてはそれを信じてしまう。良くも悪くも、だ。長年フェナルドに付き添ってきたテオドールだからこそ、その語りだけで主の意図を読み取った。故にテオドールはその場にしゃがみ込み、その顔が見えるように長剣を傾けた。万一の時は切れ、という事だ。その万一は起きないとフェナルドは確信していたのか、それとも祈り願っていたのだろうか。そこまでは分からない。合わせてフェナルドも二人の子供に視線を合わせるようにしゃがみ込みながら、うっかり近づきそうになる我が子の肩を優しく撫で止めた。 「―――ぼくナオヤ!ナオヤ・アルティカ・キルスカ!きみのお名前は、なんて言うの?」  その直後、フェナルドは酷い頭痛に見舞われて深く息を吐き出しながら手のひらで額を押さえ、テオドールは傾けたばかりの長剣を再び突き立てて二人の視界を遮った。直前にメイドをこの部屋から遠ざけたのは、また言いつけを守らずに口を滑らすだろう我が子を予知した親の勘、だったのだろう。
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