第二章 主従

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 ふ、と近づいてきたそれにウィルオンは漆黒の瞳を開く。目を伏せていたからか、眩い朝日に少し目が眩む。目を護る為に掌で光を遮り、目を細める。今日は実に良い天気になるだろう、街を見下ろす。朝市は既に賑わっており、少し遠くから響く声は多くの人々のものだ。近づいてきた足音が止まったところで、小さく息を吐き出した。 「ウィルオンー!交代だぞー!」 「ういー!」  下方…屋敷の玄関から響いた声に、ウィルオンは屋根の上から応えた。座り込んでいたそこから立ち上がり、とん、と軽く跳んだ。たどり着いたそこに、まだ少し眠いのだろう一人の男が居た。年は丁度ウィルオンと同い年くらいだろうか、彼は右手を挙げる。 「お前ソレ、相変わらず瞬間移動してるようにしか見えねーな」 「ははっ、俺がそんな高度な魔法使える訳ねーって」  まさか、と苦笑を浮かべながらその掌を叩けば、無事に玄関の見張りは交代された。ウィルオンの言葉にそれもそうかと男は笑いながら、手にしていた小さな包みを持ち上げた。少し遅めの朝食だ。 「おー、サンキュ」 「今日は郵便担当が悲鳴あげてると思うから、早めに行ってやってくれ」 「…あー…たまには俺抜きで処理してみたら面白いんじゃね?」 「馬鹿言うなよ。時間までにあの郵便物の山を捌けるのは、この屋敷じゃお前くらいだよ」  これで自分が昼間までの見張りに配置されたらどうするのだと問うも、その辺りはしっかり彼らの上司は理解している。故にウィルオンが見張りに入る時は必ず深夜から早朝の間だ。仕方ないか、とウィルオンは肩をすくめる。愚痴ならいくらでも聞くからと背を押されたところで、ウィルオンは彼と手を振り合い、歩き出す。流石に跳びながら朝食は食べれないだろう、そのままの歩調で包み口を解いた。今日はサンドイッチらしい。夜勤や早朝担当を除けば、この屋敷で誰よりも早く仕事を始めているだろう厨房の者達の顔が浮かんでは消える。こうして護衛の者達にも食事を作ってくれるのだ、有り難いこの上ない。稀にハズレを引くと腹を壊す事もあるが。一口頬張って、三秒。ハズレではなく、むしろアタリの部類だろうそれに口元が緩んだ。デザートは林檎らしい。正直に言って物足りないが、まぁ贅沢は言えない。昼食までの辛抱だ。最悪、料理長に駄々をこねれば良い。一つ目のサンドイッチを急ぎ足で胃に収めたところで、たどり着いた部屋の扉を叩き、開ける。 「おっ、ウィルオン~!」 「ウィルオーン!!」 「うえーい、ウィルオン様のおなりじゃーい!」  と、同時に部屋の中から響いた声に、ウィルオンは微苦笑を浮かべながら答える。救いが来た、とでも言いたげの声だ。一先ずと言った様子で運び込まれてきた荷物がその部屋を埋め尽くしており、バサ、と何処かで荷崩れを起こした音が聞こえた。 「…で、お前ら何処まで捌いた?」 「種類分別だけはしといた」 「ふざけんな八割終わってねーじゃんか」  非常にやり手の商人が二人も住まう屋敷だ、毎日幾台もの馬車に乗って運ばれてくる郵便物は雪崩を起こすほどに多い。同時に富豪でもある為に献上品なども多く、朝の時間帯は郵便物を受け取っては収納するこの部屋が一番慌ただしい。可能な限り分別はするものの、途中からそれさえ間に合わない事が殆どだ。今日の担当だろう二人の従者が荷物の中心で項垂れるのも無理はない。 「お前が来るまでに種類分別まで持っていければ、まぁ後はなんとかなるからな」 「ね。むしろ僕等としては褒められたいよね」  今は小休止中だと言わんばかりの二人にウィルオンは微苦笑を浮かべ、しかしまぁ、彼らの言う事にも一理ある。むしろそこまでは終わらせておいてくれないとウィルオンとて流石に無理がある。とりあえず朝食を食わせろ、と言えば一人が一方向を指差した。どっさり、という表現が正しいだろう一つの広い机の上に大量の手紙が積まれていた。食うなと言っているのかとわざとらしく言えば、違う、と彼らは苦笑を浮かべた。今日はまた一段と量が多い。ウィルオンが毎朝この時間に行う仕事内容を知っているから、早朝担当の時に用意される朝食は片手間に食べられる物にしてくれているのだ。 「………ま、ちゃっちゃとやりますか」  二個目のサンドイッチを口に銜えたところで、ウィルオンはなんだかんだ言いながらも楽しそうに漆黒の瞳を輝かせながら一通目の手紙を手に取った。―――それから、どれだけの時が流れただろう。ピ、と最後の一通を指先で弾いたところでウィルオンは少し大きめに息を吐き出した。やはりいつも以上に郵便物が多かったらしい、流石に少し疲れた。それでも確認した時計はさほど回っておらず、それだけ集中していた、のだろう。瞬きの回数が減っていたのか、渇きを感じる目を伏せては少し目頭を揉み解しながら、デザートにとっておいた林檎を手に取った。シャク、とかじったそれはもう少ししたら更に甘く美味しくなってくるだろう。ふ、とこんな片手間に林檎をかじっている自分に驚いた。数年前の自分からはとても考えられない。あの頃はたった一個の林檎の為に数日を泥沼のように這いずり回っていた記憶しかない。 「ウィルオン、終わったの?」 「んー」 「おー、さっすが!やっぱりウィルオンは仕事早いなぁ…」 「まー…こればっかりは俺がしねーと効率悪いからなぁ」  林檎をかじりながらもう片方の手で分別した手紙を一つにまとめていくが、途中でやめた。万一にでも果汁がついたら上司の雷が落ちる。この林檎を食べ終わるまでは小休止、だ。 「…けどさ、やっぱウィルオンはすごいよ」  不意に、僅かばかりに落ちた声質に肩越しに振り返る。二人のうち一人が、少し離れた所でウィルオンを見ていた。更にその奥に積み上げられていた空の木箱の隙間から、もう一人が顔を覗かせた。彼らの瞳に宿るのは、なんだろうか。 「能力とか、そう言うんじゃなくてさ。なあ?」 「…だな。いくら効率の為とは言え、毎朝お前がこんな雑用してるのが信じらんねーよ」 「雑用でも仕事は仕事だ。特に郵便の仕分けは他と比べてもリスクが高い、気ィ抜いていい仕事じゃねーだろ」  いつ何処から魔術の施された手紙が紛れ込むか分かったものではない、とそんな二人にウィルオンは眉を顰めた。それに違いはないのだけれど、と少し言葉を濁した二人に林檎の味が薄れるのを感じた。雑用だと言って日々の苦労を嘆く彼らの気持ちも、分からなくはない、のだけれど。 「俺は別にすごくねーよ。俺だってこの屋敷に来たばっかの時は、一番仕事出来なかったし…慣れだろ」 「いや、だからそれがすげーんだって。一から努力でそこまで上り詰めたんだから、それはすげー事だろ」 「だあああ、お前らなんだ!?なんだ急に!?おだててもこれ以上は手伝わねーぞ!?」 「そうじゃねーよ!?」  無性に痒みを感じ始めた身体を守るように自身の肩を摩れば、素直に誉め言葉として受け止められないのか、との返事が返って来た。どうにも他人から褒められる、と言う事に慣れていないのだ。自分は自分をすごいとは思っていないから、だろう。そんなウィルオンに、やれやれと一人が木箱の上で頬杖をついては苦笑を浮かべた。 「………ほんと、勿体ねーよ。ウィルオンが俺等と同じ雑用をこなしてるなんてさ」 「………うん。ウィルオン、あんなに頑張ってたのに…って後から来た僕達が思っちゃうくらいだもんね」 「あーもーその話は良いだろ?この屋敷で働ければ、それが俺の幸せなんだよ。いくらお前らでも口出しさせねーよ?」  決してその気持ちが悪いものであるとは思わない。だが、素直に受け取れるかと言われれば否だ。故にウィルオンは二人の気持ちを言葉と共に丁重に避ければ、流石に彼らもそれを理解している故にそれ以上は何も言わない。それを理解してくれるだけでも、ウィルオンは二人に対してずっと好感が持てる。他者に自分の事に口を出されるのが嫌いだからだ。彼らの会話がそこで一度切れるのを待っていたのだろうか、会話をしめるように部屋に響いたのは実に控えめのノック音だ。こんな所に誰が何の用だろうか、とウィルオンを含めた三人は一斉に扉へと視線を移す。間を置いてから、一人が返事をした。恐る恐ると言った様子で扉は酷く慎重に開かれ、そうっと、隙間から顔を覗かせたのは見慣れない顔だ。 「し、失礼しますっ…。お忙しい所すみません、あの…えっと…こちらにウィルオン様はいらっしゃいますか…?」 「………あ?…あれっ、お前…」  響いたのは実に控えめな小さな女の声で在り―――見慣れてはいないが、見覚えのある顔にウィルオンは思わず首を伸ばした。  近づいてきた足音に伏せていた目を開き、視線だけで左方を見る。一人…いや、二人か。ミフェリオと同じで足音のしないその歩き方は、流石に同じ屋敷内でも識別するのは酷く難しい。それが彼らにとっては当たり前の事で、特別驚く事でもない。しかし、恐らく世間一般的には驚かれる事、なのだろう。 「よっ、ミフェリオ」 「ん。………あれ」  そんな事を考えながらミフェリオは、軽い調子で片手を上げたウィルオンに対して生返事で答えた。朝の一件からすっかりやる気を失くしてしまったのだ。しかし彼の後ろについて来ていた人物に気付き、目を丸める。少し首を伸ばしてその顔を確認すれば、間違いない。何事かと目を丸めるものの、その姿を見てなんとなく理解した。 「アルティカ様は?」 「中に居る。…挨拶?」 「そう言う事。今朝メイド長が連れてきたらしいけど、取込み中だったとかで?」  からかう様に言い放ったウィルオンに、ミフェリオはワンテンポ遅れて口を少し尖らせた。今朝の派手な喧嘩の事だろう、内心でメイド長に深く頭を下げる一方でニヤニヤと口元を緩ませるウィルオンを軽く睨む。しかし、外まで響いてたぞ、と更に言葉を重ねられればミフェリオは何も言えなくなってしまい、ぐ、と軽く奥歯を噛みしめた。 「で、俺は何時もの郵便。そのついでに任された、って訳」 「なるほど。………俺が行くとまた面倒になりそうだから、自分でお願い」  ウィルオンが何時もより少し多量の手紙の束を持ち上げて見せれば、ミフェリオは直ぐに扉をノックしようと右手をあげる。しかしそれは直前で止まり、ミフェリオは腕を下ろしながら目を伏せた。今回は随分と派手に喧嘩した、らしい。いつも部屋の中に居るミフェリオが部屋の外で待機している、と言うことがまさにその証と言えよう。 「…何時にも増して派手にしたみたいだな?」 「うるさい」 「はいはい。けどミフェリオ、お前もちょっと面貸せ」  アルティカ様が絡むと直ぐこれだ、と年相応と言えばそうだろうミフェリオにウィルオンは苦笑を浮かべた。そんなウィルオンが共に来るように言えばミフェリオは不思議そうに目を丸め、二回ほど軽く扉を叩いた彼を横目で見る。 「アルティカ様、ウィルオンです」  ウィルオンの呼びかけに少しの間を挟んで中から響いたのは、ミフェリオによく似た生返事だ。…いや、この場合はミフェリオが彼に似た、のかもしれない。そんな事を考えながら、改めて声を掛けながら扉を開ける。見えたのはここ数日で溜まりに溜まっていた書類と格闘を続けるアルティカだ。くる、と細い指先がペンを一回転させるのが見えた。 「おはようございます、アルティカ様」 「ん。………ん?」  書類の処理は苦手とするアルティカを気遣う様に笑みを浮かべながら声を掛ければ、彼はウィルオンを一瞥する。いつもの郵便を届けに来たと言う事を理解しているのだろう彼は、案の定まだ少し不機嫌そうだ。しかし直ぐに視界に入ったその存在に気付くと、不機嫌そうな顔は直ぐに消えた。 「今日から一人、メイド見習いとしてこの屋敷で働くことが決定した者です。メイド長の代わりに、俺が」  郵便の前に、と言った様子でウィルオンがその場を譲るように身を引けば、見えたのは真新しい衣服だ。普通の布よりかは上質だろう服は質素でありながら上品な仕上がりであり―――メイド見習いに与えられる制服だ。 「クラリス!お前、クラリスじゃねーか!」 「…!」  その名を覚えているとは思っていなかったのだろう、アルティカに名を呼ばれた少女、クラリスは驚いたように目を丸めた。しかし酷く緊張しているのか、まともに喉から声が出ずにクラリスは喉元を押さえ、何かを言おうとしては口を閉ざしてしまう。二人が最後に会ったのはそう、クラリスの兄の葬礼を行って以来だ。丁度、あれからどうしたのか気になっていた頃だった。 「もう大丈夫なのか?っていうか、その恰好…メイド見習い、って…」 「は、はいっ、本日よりメイド見習いとしてお仕え致します、クラリスですっ」  アルティカの問いに少女は酷く緊張しながらも、自分の口で言わねばならぬと言った様子で必死に言葉を紡いだ。その立ち振る舞いは既にアルティカに仕えている多くの者と比べれば酷く雑で、拙い。見るからに"そう言った場"での動きを知らぬ、と言った様子だ。だが何故だろう、それがとても微笑ましかった。 「精一杯お仕え致しますので、よ…よろしくお願い致します!」 「…ははっ、これはまた、期待の新人が来たもんだなぁ」  いや、素直に喜ばしいのだ。深く頭を下げたクラリスにアルティカは頬杖をつくと、率直な感想を述べた。あれから洗い、切り揃えたのだろう一つに結われたクラリスの髪は随分と綺麗になっていた。聞けば、彼女が目を覚ましたのは葬礼の翌日だったと言う。数日は、いや今でも夢を見ているようだ、と彼女は語る。あれから彼女の兄は大聖堂の管理している墓地に埋められ、けれど不思議と悲しみに暮れる事はなかった。きっと最期はまともに土に埋まる事もなく、と暗に悟っていた兄妹だった。だからだろう、質素でも兄の墓を見た時は酷く安堵した。せめて兄だけでもと思っていたクラリスはその日、見上げた空があまりにも高く青かった事を忘れないだろう。 「…此度の事、改めてお礼を言わせて下さい。…助けて下さって、本当に…本当に、ありがとうございました」  "揺り籠"から救い出してくれた事、兄を連れて来てくれた事、葬礼してくれた事…それは感謝しても、しきれない。深く頭を下げたまま言えば、散々泣いたのにまた涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。 「何か御礼をと考えたのですが、その…私は、奴隷、で…この身一つしか、持っておりませんので」  とてもお礼に差し出せる物がないと考えたクラリスは、自らメイド長に此処で働かせて欲しい、と願い出た。屋敷における人手は十分だった為にメイド長も悩み、しかし彼女の真摯な姿勢に頷いてくれたと言う。とはいえ、見習いは見習いだ。恐らく見習いを脱するにはメイド長…否、トルスカ家における基準を満たさねばならないだろう。 「せめて…せめて、お仕えする事で少しでもお返し出来れば、と思っております」 「………そっか。ありがとな、嬉しいよ」  きっと知らないだけで、その基準は酷く厳しいだろう。彼女達の仕事も決して楽ではない。大変なのはきっとこれからで―――けれど、クラリスの言葉にアルティカは何よりも安堵した。ふ、とクラリスが不思議そうに顔を上げた。何故自分が礼を言われたのか、分からなかったのだ。 「…やっぱ時々居るんだよ。"揺り籠"から解放されても、今のクラリスみたいに上手く立ち直れない奴とか」  見えた青色の瞳が少しだけ、揺れた。それは安堵と悲しさが混じった、酷く儚い揺れ方だった。心身が壊れてしまった事による再起不能を、その瞳はいくつか見てきた事がある。何時まで経っても医療所あるいは大聖堂から出てこれない者がいれば、一度働き口を見つけてもまともに続かない者。時には突然発狂する者、自ら命を絶つ者…解放されてきた奴隷が皆、クラリスのように前を向ける訳ではない。いや、厳密に言えばクラリスもまだ立ち直れるかは分からない。これから先、もしかしたら心が折れてしまうかもしれない。だが、少なくとも今の彼女は後ろ向きではないだろう。そう、中には居るのだ、助けたところ絶望の中から出てこれない者が。 「生きることに急ぐ必要はねぇからさ。お前の速度で頑張れ、クラリス。何かあればいつでも相談に乗る」  三呼吸ほど迷ってから、アルティカはそう告げた。他者を応援する言葉は、時として酷く無責任な言葉であることを知っているからだ。それは時と場合によっては、誰かを酷く追い詰める程に無責任な言葉だ。その言葉をどう受け止めてくれるか、ではあるのだが。彼女は、クラリスはその言葉を良い方向に受け止めてくれる、そんな気がしたのだ。 「………はい。ありがとう、ございます」  その願いが届いたのだろうか、クラリスは柔らかく微笑み―――ふ、と窓の外で一羽の鳥が天へ舞って行ったのが見えた。
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