第二章 主従

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 ディカーラの象徴、オアシスは領地内に存在し、時間にして屋敷から五分ほど歩いた先に在った。しかしその規模は屋敷の倍以上の広さを誇り、深く透き通っていた。照り付けるような太陽を反射して輝くそのオアシスは、美しかった。見ているだけで暑さを忘れてしまうような、酷く澄んだそれは生命の水の名に相応しい。 「すげぇ…。これが、この町を守って来たオアシス…」  あまりの美しさに、アルティカは感嘆の吐息と共に呟いた。これだけ美しい水ならば、なるほど金にも成るだろう。アルティカの率直な感想は、持ち主であるアルフにとっては最高の褒め言葉であり、喜ばしい言葉だ。 「アルティカ殿は、このオアシスに纏わる伝承をご存じですか?」 「伝承?」 「はい。…その昔、この地域にはとある民族が暮らしていたと言います」  それは、このディカーラが町として発展するよりも前の話だ。古き時代から、この地には乾いた大地が広がっていた。一説によると、かつてはこの地域も他と同じように緑豊かな地だったという。その地には、とある民族が住んでいた。 「民族でありながら、その規模は大きかったと言われています。それこそ、国家レベルだったとか」 「国家…って…じゃぁ、もしかして国を構えて…いや、それなら歴史書に載るか」 「ええ。彼らは民族でしたから、一つの場所には留まらずいくつかの集団に分かれて過ごしていたとか」  アルティカの問いにアルフは頷き、その結末は現代の歴史書が全て語り証明しているとオアシスを見つめた。最初は数多のも集団に分かれて生活していた彼らは、決して争うことはなかったと言う。同胞であること以上に、彼らは争いを厭い避けていたからだ。しかし、直ぐに争いは避けられなくなった。国家レベルに達する程の人数が国を構えずに各々で自由に生きれば、大地はあっという間に痩せ、枯れていった。やがて残る大地の恵み奪い合う戦いが始まり、数多の者が大地を去り、数多の者が大地で死に、数多の者が大地を穢した。激しく厳しい戦いの中、最後に残ったのは二つの集団だった。避けられない最後の戦いを止めたのは、それぞれに属していた子供達だったという。しかし、その制止は間に合わず戦いは相打ちに終わり、奇跡的に生き残ったのは数人の少年少女だけだった。それ以外に残されたのは傷つき枯れ果てた大地と、いつしか雨が降らなくなった厳しい天の威光だけだ。残された少年少女は、こんな言葉を遺したという。"これは、大地を穢し殺した天罰だ"、と。赦しを得る為に少年少女は懸命に生きたという。けれど枯れた大地では生きる事もままならず、一人死に、二人死に、三人死に…。やがて最後に残された一人の少年と一人の少女は、滅びの運命を受け入れることにした。自分達の滅びこそが、贖罪だと。 「その時だったそうですよ、この世に"黄金の王"が訪れたのは」 「………"黄金の王"?」 「ええ。異界に住むと言われている存在で、その者は神か悪魔か…そのどちらかではないかと言われています」  そこに"黄金の王"が現れたのは、単なる気まぐれだった。"黄金の王"はとても気まぐれで、古くより稀にこの世にやってきていたと言う。少年と少女が救われたのもまた、"黄金の王"の気まぐれだった。"黄金の王"は、二人にたった一つのオアシス―――"生命の水"を与えたのだ。 「…それが、このオアシス?」 「ええ。…と言っても、おとぎ話ですからね。何処まで本当の話なのかは、さっぱり」 「ふぅ…ん…」  現実味の無い話だが、時代にして遥か昔の話だ。それこそ数百、いや数千年は昔の話だろう。誰も覚えていないような時代の話であれば、有り得た話なのかもしれない。しかし小さな民族の話だ、世間一般的に売られている歴史書には綴らていない話かもしれない。 「なぁ、その伝承が書かれた本とかってあるのか?」 「ええ、ありますよ。この町では代表的な話ですから…フェナルド殿にもお話して差し上げては?」 「あー…うん、おや…父上は、どう…でしょうね。かなり現実主義なところが―――っ!?」  刹那、アルティカは少しの衝撃に言葉を遮られ、口を閉ざした。何事かと振り返れば、頬に感じたのは僅かな風だ。ミフェリオがアルティカをその背に押し込めながら、右方…オアシスの東を瞬きを忘れた茶目で睨み上げていた。驚くべきはいつでも抜剣出来るように腰に下げたままの長剣の柄を握りしめていた事であり、ミフェリオの視線の、その先。オアシスを守るように建てられていた壁の上に、足音もなくウィルオンが着地するも、彼の瞳でさえ目標を見失ったか。黒い瞳が日差しが突き刺さる辺りを見渡しながら、その左腕を持ち上げると遥か上空から一羽の幻影鳥が舞い降りる。バサ、と僅かな羽音と共にルクトは姿を現し、その場にしゃがみ込んだウィルオンに促されて壁の一部に嘴…否、鼻を寄せた。一呼吸にも満たず、ルクトはまた天へと舞い戻りながらその姿を消した。黒い瞳がその後を追いながら、辺りを見渡した。ふ、とその瞳は誰かを見つけたのだろうか一点を睨み見てから、ウィルオンは表情を改めてアルティカに向けて手を振るった。 「すみません、アルティカ様!べん………んッん、…ちょーっとお花摘んできます!」 「え、ちょ、」  咄嗟に名を呼ぼうとするも、ウィルオンはアルティカの声を置き去りにした。そこに、誰かが居たのだろうか。まるで気付けなかったアルティカとアルフは顔を見合わせるも、二人はそれぞれの速度で真剣な顔で悩むように口元に指先を当てた。 「…アルティカ殿、彼は…ええと、女性ですか?」 「…なぁミト、花摘み…って確か女が言うんだよな?」 「はい。男なら雉撃ちが一般的ですね」  釣られて真面目に答えたミフェリオが会話の可笑しさに気付いたのは、一呼吸程して剣の柄から指先を離した後だった。 「随分と長い花摘みだったな、ウィル」 「いやぁ、なかなか出なくって…っていや、そうなんですよ、それ違いますよね?雉撃ちですよね、間違えました!」 「そうじゃないだろ、アルティカ様までなにボケてんですか」  結局その後ウィルオンが戻ったのは、予定していた工場の視察とアルフとの夕食を終えた深夜近くだった。町の宿では気温差が激しいから、とアルフの熱心な申し出にアルティカは折れ、屋敷にある一つの客室を借りていた。そこへいつもの調子で戻ってきたウィルオンだったが、今此処で彼の帰還の仕方をするとむしろ彼がこの屋敷に仕える護衛に捕まりそうだ。 「………で?今度はなんだ?」 「ん…と、それがですね…」  しかし彼が全くの無傷で帰ってきてくれただけ良しだろう、とアルティカは小さく安堵の吐息を漏らしてから問う。それに対して当の本人は酷く浮かない顔をしたかと思いきや、ウィルオンはその場で片膝をつくと顔を俯かせた。 「申し訳ございません、取り逃がしました」 「………冗談だろ、お前がか?」 「…はい」  まだヘブリッチでの件からさほど長い日数が流れた訳ではない。故にウィルオンはアルティカに心労を重ねる結果を持ち帰った事を詫びた。しかしアルティカ以上に驚いたのはミフェリオの方であり、思わずと言った様子で茶色の瞳を見開く。真偽を問うアルティカの言葉にウィルオンはそっと目を伏せる事で、それは嘘ではなく、そして自分の失態を弁解するつもりないとその身で語った。 「…っつーことは、その手の事に慣れてる…ってことか?」 「…そうですね。少なくとも俺達と同等、あるいは上手と言う可能性を考えると…下賤ではないかと」  それをまるで気にした様子もなく、むしろアルティカはウィルオンの姿勢を崩すかのように少し強めにその腕を引っ張った。少し戸惑ってからウィルオンは立ち上がれば、ぱ、とその表情を元に戻すも、浮かんだのは微苦笑だ。 「驚いた事に、一切の痕跡が無くてですね」 「と、言うと?」 「普通、痕跡を誤魔化すために複数の痕跡を残す、とかが常套手段なんですけど」 「………"一切の痕跡が無い"?」  そう言われても分からないと首を傾げたアルティカに対し、ミフェリオはウィルオンの言葉を途中で切った。茶色の瞳が真偽を問うかのようにウィルオンを見やれば、彼はひょい、と肩をすくめて見せた。足跡は勿論、魔法の痕跡、匂い、他の移動の痕跡―――思い浮かぶ手段をミフェリオが一つずつ確認すれば、その全てにウィルオンは首を横に振るった。 「ウィル、お前の能力でもか?」 「…参った事に、今の今までフル活用して探ってたんです、けど」  最後に一応周囲と声量に気を掛けながら問いかけたアルティカに、ウィルオンは流石にその瞳をそっと右方へと泳がせた。三人の間に、沈黙が落ちた。アルティカが腕を組みながら椅子に腰を下ろし、ミフェリオが目を細めながら口元に手を当て、ウィルオンが今一度その黒い瞳で窓の外を見た。 「………正式な訓練を受けた者」  三呼吸もの沈黙の後、ぽつりと呟いたのはミフェリオだった。は、とアルティカが息を呑み顔を上げる一方で、ウィルオンがやはりそう考えるか、と奥歯を噛みしめた。 「…ウィルもルクトも、トルスカ家の正式な訓練を受けています。一般的に伝わる技法なら、まずウィルの探知から逃れるのはほぼ不可、と考えると」 「………"正式な訓練を受けた者"に対してどう対応するか、"正式な訓練を受けた者"。それも、かなり高度な」  そう言う事か、と二人の言葉を聞きながらアルティカもまた理解する。静かに息を吐き出しながら頬杖をつけば、また重たい程の沈黙が降り注いできた。それはまるで夜が深まっていくことで町に降り注ぐ闇の帳のように音もなく、けれどずっしりと酷く重く、深く。 「(この辺りで、そんな高度な訓練を取り入れていると言えば、そんなん)」  まさに灯台下暗しとでもいうべきなのだろうか、とアルティカは金銀宝石をさりげなく取り入れている客室を見渡した。今頃屋敷中を警備しているだろう見張りは、大半がその対象に当てはまる。しかし、ウィルオンがその瞳で"視た"訳でもない。 「…そもそも、そいつ?…って俺の事を狙ってた感じなのか?」 「殺気には満たない視線でしたが、アルティカ様を見てましたね」 「って、別に殺気じゃねぇのかよ?」  淡々と答えたミフェリオの言葉に、ずる、とアルティカは頬杖をついていた右肘が滑った。慌てて姿勢を取り戻しながら二人に問えば、彼らは確認のように顔を見合わせてから頷いた。 「なんだ…殺気とかじゃないなら、放っておいても良いんじゃねぇ?」 「まさか。あんな人気のない場所で、あんな不自然なところから見るって時点で怪しいでしょう」 「ですね。仮にこの屋敷に仕えてる者なら逃げずに素直に言うでしょう、あの場にはエンハルト様もいらっしゃいましたし」  それでも逃げて身を隠したと言う事は、何かしらの理由があったからだろう。あるいは、"彼"自身がその人物と繋がっているなら話は別だが…否、もしそうであるなら、むしろ適当に口裏を合わせればいい話だ。ミフェリオとウィルオンも疑うべき相手を定められずにいるのは、その点だ。証拠がないというのもあるが、しかし。 「―――まっ、とりあえず!アルティカ様、そろそろお休みになって下さい?」 「………明日は鉱山、ちゃんと見に行くからな」 「それは、もちろん」  ぱ、と驚く速度で切り替えたウィルオンが手を叩きながら言えば、アルティカは脱力しながらも宣言する。何処へでもお供しますと言わんばかりの笑みを浮かべたウィルオンを、ミフェリオが一瞥する。 「…ミト、ウィル、お前らもちゃんと休めよ」 「あっ、じゃぁアルティカ様、添い寝してくれます?」 「馬鹿」  "前回"と同じく、ウィルオンが外、ミフェリオが中―――それを言葉無く語った黒い瞳に、茶色の瞳は僅かに目を伏せたことで応えた。  その日は珍しく、膝を抱えて大人しく目を伏せていた。実に寝心地の悪い場所だが、まぁ眠れない事はない。ふ、と外を見れば日は夜の闇にとっぷり沈んでいた。何も眩しい事はないのに、目が眩んだ気がした。外を見た事に何か理由があったわけではない。故に特に理由があるわけでもなく、そっと視線を外した。ジャラ、と太い鎖が動きに合わせて微かに鳴った。何か理由がある訳でもなく、足元の衣服をたくし上げた。素足のままの足首に、細さに見合わない程の頑丈な足枷がくっついていた。ゆっくりと瞬きをしてから、指で足枷に触れた。  "ええ、ありますよ。この町では代表的な話ですから…フェナルド殿にもお話して差し上げては?"  "あー…うん、おや…父上は、どう…でしょうね。かなり現実主義なところが―――っ!?"  目を伏せれば、思い浮かぶのは並外れた鋭い瞳だ。黒と、茶。しかしそれ以上に耳に焼き付く、名と。 「(…―――…フェナルド。………フェナルド、キルスカ…?…もしもそうなら、アイツは)」  誰かによく似た色の髪と、青い青い瞳。まるで雨を知らないこの地を見下ろす、青い青い空のような、青。 「("眼"が鬱陶しくて、動けやしねえ)」  ち、と一人口の中で舌打ちをしながら、遥か天高くから視ている名も知らぬ誰かに眉間にしわを寄せた。その日は珍しく、膝を抱えて大人しく目を伏せ―――眠ってやることにした。
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