序章 始まり

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 理由は単純明快だ。この世において、真名を用いりその命を摘むという魔術が存在しているからだ。故に貴族や商人など地位ある者でなくても、己の真名を隠す傾向にある。この世界に生きる者の殆どが偽名で生きていると考えると、この世はなんと奇妙な事か。 「ユウマ、ユウマ!」  その子供が、そう呼ばれ始めたのは何時からだったろうか。相変わらず殆ど動かない茶色の瞳が、ゆったりと持ち上げられた。 「アルティカ様、その名で呼ぶのはお止め下さい」 「あっ」  何度言っても聞いてくれない、と微苦笑を浮かべたのは注意したテオドールだ。そうだった、と少年アルティカが両手で口元を塞いだ。不思議な話だ、とフェナルドはその光景を見ていた。 「ええっと…ミフェリオ、今日はなにして遊ぶ?」 「………なんでも、いい………」 「えー?ミフェリオ、いっつもそう言うよな!」  ミフェリオ、と与えられた名にやっと反応を示し始めた少年は、アルティカの言葉に身を縮めた。何処か居心地が悪そうな、ばつが悪そうな顔をする少年に、フェナルドは頬杖をついた。じゃぁ、と何か遊びを思いついたらしいアルティカがミフェリオの手を引き、少し離れてく。決して目を離さぬようにとテオドールがそれを視線で追う。いざという時、彼の脚力であれば何が起きても動ける距離だ。それを絶対的に保つためにも、彼は二人の子供から文字通り目が離せないのだ。対してフェナルドは気楽なものだ。事前に用意させた茶をお供に、我が子には悪いと思いながらもいくつかの仕事を片付ける為に書類をテーブルの上に広げた。 「不思議な話だと思わないか、テオ?」 「仰る通りで」  第三者が居ないからか、テオドールはいつもより僅かばかり砕けた様子で主の問いに答えて見せた。だよなあ、とフェナルドが不可解だとぼやきながら一枚目の書類を捲った。どうやら子供たちは、ボール遊びをするらしい。室内には違いないが、十分な広さを確保してある遊び場だ。下手に外で走り回らせるより、安心だろう。 「あの名前で呼ばれ始めてからもう三ヵ月だというのに、未だアルティカ以外の呼びかけには殆ど答えないとはな」 「…真名で呼べば、私にも反応を示すのですが…」 「真名は特別なものだから、な」  他の子でも反応はないのかとのフェナルドの問いに、同い年の子でも全く反応がないとテオドールは答えた。素早く一枚目の書類を処理したところで、とん、と軽く指先でテーブルを叩いた。考え事をする時のフェナルドの癖だ。本人はみっともないから直したいと常々言っている癖だが、癖というのはなかなか治らないものだ。 「…特別なもの、とは言ってもな…―――……」  その先の言葉を飲み込んだ彼が考えたのは二人の子供についてであり、次の書類の内容についてではないだろう。とん…とん…と、ゆっくりと間隔を空けて三回ほどフェナルドの指先がテーブルを小さく鳴らしたところで、テオドールは癖が出ている事を指摘した。途端、彼は息を呑み慌ててそれを止めた。案の定、無自覚だったらしい。こちらから言わないと、後になってから何故言わなかったと理不尽に怒られる事をテオドールは知っている。 「どうするおつもりですか」 「………今はまだ動けんだろう。せめてミフェリオにもう少し自我が」  刹那、テオドールはフェナルドの言葉を置き去りにした。僅かばかりに彼が残した風が、フェナルドの銀髪を揺らした。瞬きを止めた赤い瞳がその場で静かに、我が子の許へ跳んだテオドールを追った。ふわ、と大きく動いたテオドールの衣服が収まる様子が見えた。 「どうした、テオ」 「…発作です、急ぎ聖堂へ」 「私が行く、お前はミフェリオを」  頻度が増えてきたと眉を顰めたフェナルドは書類をテーブルに擦り付けながら、ふくらはぎで椅子を押し立った。急ぎ足でその距離を縮めたフェナルドに、テオドールはそっと受け止めたアルティカを託す。その顔を覗き込めば、彼の言う通り軽い発作のようだ。は、と吐き出された息は、酷い時と比べればずっとマシだ。それでも痛みは生じている、フェナルドは踵を返し―――ぁ、と微かに漏れた声を聞き取れたのは、その場に残されたテオドールだけだった。声の主、ミフェリオへと視線を下ろす。保護した当時はまるで動かなかった表情が、酷く不安そうに歪んでいた。茶色の瞳は今にも泣き出しそうであり、けれどその感情をどう表現したらいいのか分からないのだろう、持ち上げられた指先は宙を彷徨った。  ―――哀れな程に、感情が薄い。その事は誰もが予想していた事だが、正直に言って予想以上だ。親の愛よりも早く、暗器を与えられたのだろう。言葉を教わるよりも早く、人の殺し方を教わったのだろう。誰かを殺す時において、特に暗殺ともなれば感情は何よりも不必要なものだ。だが。 「………大丈夫だ。少し聖堂でお休みになれば、直ぐに良くなられる」  酷い不安と心配から今にも割れそうな程に揺れる茶色の瞳に、感情が二度と宿らないとは思えなかった。故にテオドールは幼い少年に告げれば、茶色の瞳がゆっくりと瞬き、紫の瞳を見上げた。最初こそ何を言ってもテオドールを見ようとしなかった少年が、だ。今少年は、必死に自分の中に芽生えるそれを、知ろうとしている。故に少年はゆっくりと瞬きをしては、その感情を言葉にしようと口に開くも、まだ適した言葉がどれか分からない。自力で見つけられないだろうかと暫し待つも、まだ難しいか。故にテオドールはそっと、無知な子供に言う。 「…ミフェリオ、その感情は"心配"、"不安"と言った言葉で表現されるものだ」  もう一度、ゆっくりと茶色の瞳がテオドールを見上げた。彼の言葉を何処かに刻むように、飲み込み覚えるかのように。宙を彷徨っていた指先が、服の裾を軽く握りしめた。そのまま二呼吸程の沈黙が流れる間に、少年は二回ほど瞬きをしてから一つ、頷いて見せた。 「………くる、しい………」 「………そうだな、その言葉でも表現出来るものだろう」  ―――やはり、その瞳に二度と感情が宿らないとは、思えなかった。その事を改めて感じながら、テオドールはミフェリオに頷いて見せた。 「処分すべきだと、私は考えます」  それでも尚、テオドールの当時の考えは変わらなかった…否、変えられなかった。ついに言葉に成したな、と赤い瞳が前髪越しにテオドールを見た。僅かばかりの威圧を感じた。対してテオドールは主人のその瞳を甘んじて全身で受け止めては、静かに目を伏せて頭を下げた。 「………申し訳ございません。私が連れ帰った者です、その責任は私が取るべきであるかと」 「生かせ」 「…フェナルド様、しかし」 「二度は言わん」  面を上げろと言わんばかりに、書類が捲られる音が聞こえた。それにテオドールは一度そっと瞬きをしてから顔を上げた。赤い瞳はもう、テオドールを見ていなかった。いつものように、フェナルドは愛用しているペンを手に取った。僅かばかりの沈黙が、二人の間に落ちる。昔、テオドールはその沈黙が苦手だった。しかし何時だったか、その沈黙を改めて冷静に物事を考えると言う事に使えばいい事に気付いた。 「アレン」  故にテオドールはその時、その場に片膝をついてから強く主の名を呼んだ。少し驚いたように開かれた赤い瞳を、真っ直ぐに射抜いた。赤い瞳が、瞬く間に歪んでいった。これだから自分を良く知っている者は、時と場合によっては厄介だとフェナルドは常々思って居る。二呼吸ほど溜め込んだ息を、諦めたように吐き出した。手にしたばかりのペンが、書類の上を転がった。 「………あの子はまだ子供だぞ、それでもお前は殺せと言うか、クリス」 「子供だからこそ、だ。成熟してからでは、手遅れになるかもしれない」 「淡々と言いやがって、殴るぞこの野郎」 「それが、罰だと言うのであれば」  いら、と浮かんだ苛立ちを赤い瞳は隠そうとしなかった。今この場だけは、彼はフェナルドではなくアレンだからだ。そして目の前にいる従者がテオドールではなく、クリスだからだ。この野郎、と内心で繰り返した。主人としての威厳を保つ為か、決してアレンから真名を呼ぶことはない。その事を知っているからこそ、クリスは自分から彼の真名を呼んだのだ。 「だがお前もあの時、聞いただろう。アルティカ様が…ナオヤの問いにユウマが答えた名を、確かに」 「あれはユウマの真名じゃない、埋め込まれたものだ。ユウマの真名は他にあるはずだ」 「だからこそ、だ。ユウマは、アイツが今もそれを己の真名だと答えたという事は、まだその名は生きているという事だ」 「あるいは本当に彼女の子か―――最悪、本人かもな」  縁起でもない事を、と今度はクリスが紫の瞳を歪ませた。………とん、とアレンが指先で机を静かに叩いた。彼が、考え事をする時の癖、だ。酷く長い間隔を挟みながら、彼の細い指先は時の流れを刻んでいく。だったら、と言おうとしたクリスの言葉を、何処か遠くを見つめるアレンの赤い瞳が吸い込んだ。とん、と指先が止まった。 「………彼女は、とても孤独な人だった、と。今になって、そう思う」 「…だが、あの子には…ナオヤには、何の罪はないだろう」 「ああ、そうだ。………そうだ、クリス。ナオヤにも、そしてユウマにも。何の罪はない、いいや、ある訳がないんだ」  例えば罪があるとすれば、それは今自分達の目の前にいる、自分達、だ。赤い瞳に、また言葉を吸い込まれていった。故にクリスは顔を俯かせ―――そうだとしても、と言った意思を込めて目を伏せた。酷く、堪らない気持ちになった。それをぐっと飲み込むように、アレンは椅子の背もたれに身を委ねては目元を手の甲で覆った。指の隙間から、照明を見つめた。 「不思議な話だと思わないか、クリス」  その言葉はその日、二度繰り返された。二度目のその問いに、クリスはそっと瞳を開くだけで答えなかった。問いの意図を、読み切れなかったのだ。幼い子供たちの事を指し示しているのか―――否。 「俺は、どうしても彼女を憎めない。…どうしてだろうな、憎くて仕方ないというのに」  違うのだと、アレンは語って聞かせた。その言葉にクリスが顔を上げれば、その顔はとっくに手で隠されていた。これだけ長い付き合いだというのに、いいや長い付き合いだからこそ、アレンは自分で情けないと思う顔を晒す事を絶対に良しとしない。ぐ、とクリスはそんな彼とは対照的にその左拳を握りしめた。目を伏せれば、今でも鮮明に思い出せる。 「………俺は、彼女を恨んでいるし、憎んでもいる。彼女は、俺の大切な人を二人も傷つけた」  確かに、不思議な話だと思った。握りしめた拳を解きほぐし、己の掌を見下ろした。自分はこの手で、これまでどれだけの命を摘んできたのだろう。若い頃は、そんな下らない事を考えていた覚えがある。 「…確かに、感謝はしている。だが、それでも………俺は彼女を葬った事を、間違った事だとは思って居ない」  むしろそれは正しい事だったのだと、クリスはそう信じて止まない。誰がなんと言おうとも、それこそ例えアレンが間違いだったと言っても。だからこそ、とクリスは言葉を繰り返しながら見下ろしていた掌を再び握りしめた。そう、だからこそ、だ。 「だからこそ俺は、もしあの子供が"そうだった時"は。俺はお前を…"お前達"を取るぞ」  それが、自分の存在意義であり行動原理である故に、と紫の瞳は強くアレンを見上げた。その視線に気付いた赤い瞳が、僅かばかりに戸惑い迷う様に揺れながらクリスを見下ろした。一度、その全てを飲み込むようにアレンは瞳を伏せた。そしてゆっくり、三呼吸。すぅ、とアレンは深く息を吸い込んだ。 「………―――………クリス、命令だ」  赤い瞳から、反射した照明の光が零れ落ちそうになるのを堪えながら、彼は言い放った。 「もし…もし、本当にあの子が…彼女の血縁者か、あるいは本人だと分かったら―――その時は、迷わず処分しろ」 「………我が主の、仰せのままに」  その日の月は、雲に隠れて良く見えなかった。
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