第二章 主従

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 "だからってそれが、俺がお前を犠牲にして良い理由になる訳ねぇだろうが!!"  幾度目か、自分の中で彼の声が響く。強く凛とした声が、高らかに響いては深くに沈み込んでいく。広く、深く、強く。それでいて脳裏に焼き付いている青い瞳は、泣いていた。その瞳を隠すように、青い瞳が瞬く。逃げるように青い瞳が俯けば、月白色の髪がその顔を隠した。何故だろう、酷くそれが恐ろしく感じた。  "………理解してねぇのは、お前だって同じじゃねぇか"  彼はそこに居るのに、遠く遠く、離れて行ってしまう気がした。…いや、離れて行ってしまった。自分の未熟故に、彼の言葉の意味を今でさえ理解出来ないまま。喉の奥に何かが詰まるも、飲み込む事も吐き出す事も出来ない。ぐ、と苦しい呼吸に視界が歪み、軽く両の拳を握りしめる。嗚呼、嗚呼。なぜ自分はいつも、彼の心を理解する事が出来ないのだろう。  "お前はそれで良いだろうよ。そりゃそうだ、お前は、いつも"  彼はあの時、どんな言葉を飲み込んだのだろう。分からない、いくら考えても、分からないのだ。自分が知る限りの言葉を、心を、感情をひっくり返しては掻き分けて探すけれど、見つからない。いいや、分かるはずがないと言う事は理解している。彼は彼で、彼は自分ではない。自分は自分で、自分は彼ではない。 「(ウィルなら、分かるんだろうか)」  それでも例えば、ウィルオンならば分かるのだろうか。彼の言葉を、彼が飲み込んだ言葉を。自分では分からない彼の気持ちを、他の誰かは分かるのだろうか。 「(…旦那様や、テオさんなら。………分かる、んだろうか)」  自分は彼らとは"つくり"が違う、のだ。だから自分は分からないのだろうか、見つけられないのだろうか。彼の言葉の意味を、真意を。そして飲み込まれてしまった言葉の先を、意味を、真意を。その言葉を先を求めようとした声さえ、出なかった。―――怖かったのだ。怖くて、恐くて、こわくて。 「(アキの心に、触れるのが、こわい)」  何故だろう、触れると壊れてしまうような…いや、違う。壊してしまいそうで、穢してしまいそうで。彼にはいつも笑っていてほしいと、そう願って止まない。その為なら、自分は何にだってなろう。その心を壊そうと言うならば、自分は誰かを斬り捨てる事だって厭わない。だけれど。 「(護衛の俺が、アキを傷つけて、あんな顔させて、どうすんだよ)」  彼の言葉をまるで理解出来なかったのは、自分の事ばかりで彼の事を見ていなかった証だ。ぐしゃりと前髪を掴みながら掌で片目を覆う。釣られて視界が歪み、狭まり、世界が見えなくなる。天幕内に取り付けられているランプが、嫌に眩しくて鬱陶しい。そこまで強い光ではない、はずなのに。単なる気絶故に直ぐに目を覚ます、と語った一族の者が部屋から離れてどれだけの時が経っただろう。ミフェリオは、アルティカが眠る部屋から逃げるように仕切りの為に下ろされていた布をまくり上げた。アルティカの傍どころか、同じ空間に居るのが酷くおこがましく感じたのだ。その後は言うまでもない、一人で堂々巡りだ。天幕の隙間から吹き込んでくる風は、夜の訪れを知らせていた。これから徐々に気温が下がっていくのだろう。聞いた話では精霊の加護によって気温の影響は殆ど受けないらしいが―――刹那の事だった。逃げるようにそんな事を考えていたからか、ミフェリオはワンテンポ遅れて音もなく抜剣すると、自分の直ぐ後ろに向けてそれを振るった。 「―――ッ…!」 「! ウィルっ!?」  ガ、と少し派手な音を立てて同じトルスカ家の長剣がぶつかり合うと、その衝撃に合わせてウィルオンは黒い瞳を片方、伏せてみせた。その背姿をミフェリオが見間違えるわけもなく、長剣を握る指先から力が抜けた。その一瞬を、ウィルオンの瞳は見逃さなかった。僅かばかりに眉を潜めた彼は、肩をすくめて長剣を鞘におさめる。そこから更に二回ほど瞬きをしてから、ミフェリオは息を吐き出した。 「…っ…驚かせるなよ、ウィル…!何の真似…」 「…なーミフェリオ。お前、流石にちょっと余裕なさ過ぎじゃねーか?」  剣を鞘におさめようとしたところで、いつになく少し鋭い声と口調にそれを阻まれた。だけれど何事かと顔を上げても、見えたのは何時もの通りの黒い瞳だ。二呼吸程してから、彼は微苦笑を浮かべた。 「…別に、そんなこと」 「あるね。今、俺が真後ろに来るまで気付かなかっただろ」  ぐ、と彼の言葉に喉の奥が詰まった。真後ろ―――アルティカが眠る空間の、一歩手前。例えば今此処に来たのがウィルオンではなく、敵だったら侵入を許していた場合もあっただろう。―――例えば昼間、鉢合わせたリクが敵だったら。坑道で出会ったゼノが、敵だったら。 「まぁ、仕方ねーとは思うけどさ」  そう考える思考をウィルオンの黒い瞳に見透かされている気がして、逃げるように目を逸らした。彼の目から逃げるだなんて、それこそ至難の業だろうに。なんとなく手持ち無沙汰になって、改めて剣を鞘におさめた。 「………ほら。お前今、自分のこと見えてねーだろ」 「え?」  案の定、ウィルオンの黒い瞳はミフェリオの事を見透かしていた。どきり、と心臓が跳ねた。傍から見れば眉一つ動いていないミフェリオは、ウィルオンから言わせてみればかなり動揺している。…いや、動揺していると言うよりかは、思い詰めている、だ。故にウィルオンは微苦笑を何処か少し哀しそうな苦笑に変えた。 「…自分すら見えてねーんだから、そりゃアルティカ様のことも見えてねーわな」 「……なに、どういう」  問おうとしたところで、ミフェリオはようやっと気付く。は、と息を呑み顔を上げ、目を見開く。一歩踏み出せば、やっと気付いたか、とウィルオンの瞳は自分自身を案じていたと言う事に気付いた。答え合わせかのようにウィルオンが踵を返し、ノックをしようとして扉がない事に気付く。 「………失礼します、アルティカ様」  故に声を掛けてからウィルオンは扉代わりの布をまくり―――バサ、とその声に応えたのは美しい翼だ。見えたのは、月光に照らされた漆黒の翼と月白色の髪先だった。向かい側の布を捲ったまま固定する事で、部屋に光を取り込んでいるのだ。 「…夜のお散歩へ行きたいお気分で?」 「………止めたのはお前だろうが」 「当然ですよ?お屋敷ならともかく、流石に外出先でお一人で歩かせるのは俺達としても頂けません」  その場に座り込んでいたアルティカが、その先へ行くことを阻んだのだろうルクトの嘴を撫でてから顔を上げた。感情の読めない顔と声だった。それに対して、同じように感情の読めない顔で淡々と告げたのはウィルオンだ。それが少し気に食わなかったのだろう、アルティカは青い瞳を歪めてはルクトを見下ろし、軽く指先であやしてから主人の許へ戻るよう促した。ふわ、と夜の闇と月光の狭間に消え行きそうな翼を柔らかく羽ばたかせ、ルクトはウィルオンの許へと戻ってはその右腕にとまる。その背を見送ったアルティカはその場で立ち上がると、ふ、と開けられたままの天幕の外を青い瞳で見やる。それを阻むためか、ウィルオンは歩を進めては固定されていた布を滑り下ろす。 「…別に、行かねーよ」 「はい。ただですね、ゼノ様から聞いたお話ですと、この辺りはよく"出る"そうなので」  言いながらウィルオンは天幕の奥の方へとアルティカを促し、一方でランプに光魔法で灯りを点けていく。スゥ、と広がっていった灯りが少し目に染みたのだろう、アルティカは目を細める。 「アルティカ様は意外と感受性が高いですからね。変なのに連れていかれては困りますし」 「意外と、は余計だ」  その先でアルティカは自分が眠っていたベッドに腰を下ろしながら、ウィルオンの言葉に口元を尖らせた。法術の使い手であるからか、アルティカの青い瞳は昔からそう言った類を"視る"事が少なくない。彼の父、フェナルドも同じだ。当然、"透視"能力を持つウィルオンほどではないだろうが、どうにもアルティカはそう言った類に惹きこまれやすい。 「………アルティカ様、いつ、お目覚めに、」 「…ウィルが来るちょっと前。別に、勝手に抜け出そうとした訳じゃないからな。………説得力ねぇけど」  ミフェリオの問いに、アルティカはその青い瞳で一瞬だけそちらを見るも、直ぐに逸らす。流石にこの状況で一人勝手に動き回るほど非常識ではない、と言いながらアルティカは自身の右足を持ち上げ抱えた。一方ミフェリオはウィルオンの言う通り、あまりにも自分の事しか見えていなかった、と痛感していた。まさかこの至近距離でそれに気付けなかったなどと、自分でも信じられないほどだった。それほどにまで一人で考え込んでいたらしいが、本来ならばあるまじき事だ。ぎゅぅ、と体の芯が軋むのを感じた。 「ゼノ様とリク殿が、今日の所はゆっくりお休みになられるように、と」 「…ん………せめて、お礼と挨拶くらい言いたかったけど」  流石に時間が時間だ、今日は言われた通り大人しくした方が双方にとっても良いだろう。少し間を置いてから、ウィルオンが今回の件の詳細を聞くか、とアルティカに問う。それを元に今後の事も決めなくてはならないだろう、しかしアルティカは少し迷ってから首を横に振るった。 「…詳しい話は明日でいい。それより、お前ら二人とも怪我とかしてねぇか?」  朝になればまた新しい情報が来るだろうと判断したアルティカは、それよりも二人の身を案じるように彼らを視線だけで見上げた。驚きから少し間を置いてから、ウィルオンは相変わらずのアルティカに微笑を浮かべながら、ひょい、と肩をすくめて見せた。 「俺は問題ありません、まだまだ元気です」 「…俺も、問題ありません」 「………そっか。んじゃぁ今日はもう休むから、お前らも休め」  ミフェリオもまた静かに言えば、アルティカは少し安堵したように息を吐き出した。主人である自分が休まねば従者である二人が休めるはずもなく、故にアルティカは続けて言い放つ。それにウィルオンは一度瞬きをしてからミフェリオを一瞥すれば、彼は僅かに息を呑みながら顔を上げた。何かを言おうとしては口を噤み、結局上げた顔を俯かせてしまう。普通なら、素直に主人の命に従うところ、なのだが。仕方ないか、とウィルオンは内心で息を吐き出しながら肩をすくめ、一度その場で頭を下げた。 「…分かりました。では、今日の所は失礼させて頂きます」 「ん」 「って事でアルティカ様、ちょーっとだけお時間良いですか?」  ずる、とアルティカが抱えていた右足がベッドから滑り落ちた。我ながら酷い切り替えの早さだ、と常々思っている。あからさまなそれに驚いたのはアルティカだけではなく、ミフェリオも何事かと茶色の瞳でウィルオンを見やる。 「なん……なんだよ?」 「仕事は終わり、って事で。ミフェリオも、ちょっと」  滑り落ちた右足をもう一度持ち上げようとするも、ウィルオンのそれに力が抜けたらしく止めた。へらり、とウィルオンが笑って見せれば何となくそれを察したのだろう、ぐ、と少年二人の顔が曇る。自分が架け橋にならなければ、このまま話す事もないだろう二人に微苦笑を浮かべた。一呼吸ほど言葉を考えてから、口を開いた。 「一つ、提案なんですが。今から屋敷に戻るまでの間だけ、交代しましょーか、専属護衛?」  反応の速度は各々でありながら、反応そのものは殆ど同じだった。僅かに息を呑みながら顔を上げた二人の視線に、小首をかしげて見せた。少しの間を置いて、そこまで同じだった二人の反応は別々のものになる。青い瞳は眇められ、茶色の瞳は逸らされた。片や容赦なく切り込んできやがって、片やそう言われても無理はない、と言ったところか。 「…なんなら、そのまま本当に交代しても俺は構いませんよ」 「は?」  そうじゃないだろう、とウィルオンは更に強めに揺さぶりを掛ければ二人の少年はもう一度彼に視線を集めた。何を言っているのかと言いたいのだろう二人の視線に、ウィルオンはにこり、とアルティカに笑いかけて見せた。 「どーです?」 「………どうもこうもねぇよ、そう言う事はテオが決める事だ」 「いえ、テオさんが決める事じゃないですよ」  その笑みが酷く心地悪いのだろう、青い瞳が警戒した様子でウィルオンを少しばかり鋭く見やる。それを柔らかく躱しながら、アルティカの言葉にウィルオンはテンポよく言葉を続ける。 「アルティカ様。貴方の護衛だ、貴方が決める事ですよ」  時々、ウィルオンの黒い瞳はこちらの言葉を全て吸い込んでいく事がある。アルティカはそれが少し、苦手だ。何を言っても躱されては、黒い瞳に言葉を吸い込まれ飲み込まれ、消えて行く。いつの間にか、彼の言葉に踊らされているのだ。その様を例えるなら道化師と言う言葉が似合いそうだが、そう言う時彼は決まって笑ってなどいない。酷く、真剣な顔と瞳をしているのだ。 「せめて落ち着くまで、とかでも。悪い案では無いと思いますが?」 「………別に、必要ねぇだろ」 「そうですか?俺は必要だと思いますよ。ミフェリオにも非はあるとは思いますが…ミフェリオを使いきれていないアルティカ様にも、問題はあるかと」 「! ウィルっ」 「―――アルティカ様に非はないと言いたいなら、まずはとっとと切り替えてきっちり仕事してから言えよ、ミフェリオ?」  途端、彼は声のトーンを落とした。何時も明るく楽しそうに話す彼からは到底想像できない程に低く、冷えた声だった。ミフェリオもまた、彼のその声は苦手と言えよう。ズ、と腹の底が冷え、重くなる。その黒い瞳が、横目でミフェリオを見ていた。言葉の鋭さに比例して、黒い瞳は真剣でありながら冷たく鋭い。それが己の仕事だろう、と黒い瞳は強く訴えていた。それを成せていないのだから、ウィルオンは一時的な専属護衛の交代を提案したのだ。無理もない、背後に誰かが来てからようやっとその気配に気づくのではあまりにも遅い。致命的なのはアルティカが目を覚ましても尚、気付かなかった事だ。その間に彼が抜け出せば、どうなっていた事か。ぐ、アルティカとミフェリオが言葉を詰まらせたのは、ウィルオンの言っている事が何よりの正論だったからだ。どちらが悪い、と言う事ではない。むしろこの場合、どちらも悪い、と言う言葉が正しいだろう。三呼吸程の沈黙が、三人の中に落ちては流れていく。その間、ウィルオンは誰かの言葉を思い出す。  "ほんと、勿体ねーよ。ウィルオンが俺等と同じ雑用をこなしてるなんてさ"  "うん。ウィルオン、あんなに頑張ってたのに…って後から来た僕達が思っちゃうくらいだもんね  "ハ?冗談だろ、オメーあんだけ動けるのにか?"  "…自信持ちなよ。キミが居なければ、あの子はもっと大変な目に遭っていたよ"  それはこれまでウィルオンが躱し続けてきた、誰かの言葉達だ。何の意味も成さない、無駄な言葉だ。故にウィルオンはその言葉達に心揺れる事がない。数多の言葉の中で彼が心揺らす言葉は、彼自身が思っている以上に少ないのかもしれない。  "…いえ、フェナルド様。アルティカ様へは私ではなくウィルオンをお付け下さい"  "そう言う事。あの子を育てる為に、フォロー役としてウィルオンをつけたんでしょ"  ぐ、とウィルオンもまた彼らの言葉に喉の奥を詰まらせた。少しばかり苦しいそれを、無理矢理に飲み込んだ。詰まったそれは胃の中へと落ちては、嫌な鈍い重みを残して体の奥へ消えて行く。それを、ウィルオンは拒まない。それどころか自分の中に溶けて消えて行くようにと目を伏せてから、酷く哀しそうな微苦笑を浮かべてみせた。 「………あのですね、アルティカ様。俺、思うんですけど」  その顔を隠すためか、ウィルオンはその場にしゃがみ込んで俯いた。既に従者として、護衛としての仕事は終わった。今はウィルオンとしてそこに在るのだからと言い訳をしながら、彼は手持ち無沙汰になった両手の指先をくっつけた。………いいや、どの言葉も結局、関係ないのだ。それは周囲の言葉であって、結局のところ今目の前にいる二人には関係のない言葉だ。 「アルティカ様とミフェリオは、ですね。"友達"を護りたい、って気持ちは同じじゃないですか」  当たり前だ、彼等二人の事を決めるのは周囲じゃない。彼等二人自身なのだから。きっと自分には言葉に成せない故に、ウィルオンにその言葉を託したのだろう上司の顔が浮かんでは消える。これで良いのでしょうと頭の隅でへらりと笑ってみせるも、彼の顔はよく見えなかった。 「けどアルティカ様は主人で、ミフェリオは従者で…貴方の護衛だ。そこを履き間違えちゃ、駄目です」  決して"友達"である二人を、否定する訳ではない。むしろウィルオンからしてみれば、とても喜ばしい事だ。年も近い、性別も同じ、付き合いも長い。本来であれば主従ではなく、"友達"として在るような条件だ。普通、そのような条件で主従関係は結ばれない。あまりにも近しい存在になってしまうからだ。 「"友達"という関係性の上で"主従"としての契約を結ぶなら、そこはきっちりと区別しないと、いつか必ず今回以上の実害が及びます」  そう、今回のアルティカのように従者である相手を、"友達"として強く認識し扱う事で危険が及ぶ可能性があるからだ。その気持ちを、ミフェリオが嬉しく感じない訳がない。その気持ちは、ミフェリオも同じだからだ。第三者であるウィルオンが考えるだけで、酷く歯がゆい話だと感じる程だ。そのすれ違いは、見ている方が辛い。 「…アルティカ様が"友達"であるミフェリオを盾にしたくない、って気持ちはこいつも分かってるんですよ」  そしてミフェリオもまた"護衛"として、そしてそれ以上に"友達"としてアルティカを守りたいと言う気持ちをアルティカも理解している。だと言うのにすれ違う二人を見るのは、ウィルオンとて酷く辛い事だ。気持ちも同じで、理解し合っているはずの二人が、すれ違うのだ。"友達"と"従者"と言う二つの領域の区別が出来ていないのはアルティカであり、それは結果としてミフェリオを困惑させてしまう。 「けど、その気持ちは強すぎるとミフェリオを鈍らせます。ミフェリオは常に置いて、自分を"従者"として認識してるからです」 「………それに対して、俺が"友達"としてミフェリオを認識すれば、ズレが生じる」 「その通りです。それってすごく勿体ない事じゃないですか、折角気持ちは同じなのに、すれ違っちゃうんです」  それはいつか、ミフェリオが一番望まないはずのアルティカへの危険に直結する。今回の出来事が、まさにその結果だ。悪いはずのないアルティカの純粋な気持ちが、皮肉にもミフェリオを惑わせ鈍らせ、その剣を狂わせてしまうのだ。それを客観的な立場に在る者達は、口を揃えてこういうはずだ。優秀な護衛を扱いきれていない、無能な主人だ、と。 「だったら最初から主従関係なんて止めて、"友達"として互いを護るようにするって言うのも、悪くない案だと思いません?」  そんな事を言われるくらいならば、最初から止めてしまえば良い、とウィルオンは軽く手を叩いては広げて見せた。顔を上げて、問う様に小首をかしげてアルティカを、ミフェリオを見上げる。決して、悪い案ではないだろう、と。アルティカが、いやアルティカとミフェリオがそれを望むなら、その事によって出来た穴をウィルオンは埋める事が出来る。専属護衛の交代、だ。そうしたところで、これまでと殆ど変わらないだろう。むしろずっと気楽になるはずだ。"友達"として傍に居て、互いを大切に思い合い、護り合う。特にアルティカは、それを望んでいるのだから。―――ふ、と青い瞳がその一歩手前でとどまった。黒い瞳に対して、アルティカはそれを見逃さなかった。 「じゃぁ何か、ミフェリオを"友達"として扱っても大丈夫なように………その為に、今度はお前を犠牲にしろと?」 「………そーですね。それで二人が幸せになれるなら、俺は喜んで?」  流石に気付くか、とアルティカの優しさを知っている故にウィルオンは内心で苦笑を浮かべた。それでいて顔は何時もの笑みを浮かべられるのだから、我ながら顔の動かし方には慣れているものだ、とウィルオンは自分を誉めた。青い瞳が歪み、僅かばかりに鋭くなる。ぴり、と感じたそれはアルティカが自覚していないだけで持ち得ている威厳の欠片だ。 「ウィル、」 「あのですね、アルティカ様」  その優しさは、決して間違っていない。だがそれでも、その時ウィルオンはその優しさを拒むように強く言葉を遮った。そう、決して間違ってなどいない。今回の件だって、誰一人として間違っていないのだ。人の世とは不思議なものだ。何一つ間違っていないのに、ズレが生じ、歪み、亀裂が入ってしまうのだ。誰も、何も、間違っていないと言うのに。 「俺達トルスカ家は、それに命懸けてるんです」  強いて間違っている事を指摘するのであれば、とウィルオンは表情を改めて強く、強くそう言い放った。―――酷く重い、言葉だった。トルスカ家、それは古くからキルスカ家に仕えてきた護衛一家だ。キルスカ家が古くから商業界において名を残してきたのと同じように、トルスカ家もまた護衛一家としての名を残してきた。 「アルティカ様、貴方はキルスカ家の人間です。そして俺とミフェリオは、トルスカ家の人間です」  それぞれの名には、それぞれの歴史と名誉、そして誇りが刻まれている。キルスカ家に、アルティカに誇りがあるのと同じように。トルスカ家に、ミフェリオとウィルオンにも同じように、誇りがある。例えキルスカ家に対してでも、譲れない思想がある。それは、トルスカ家としてキルスカ家に絶対的に仕え、護り支えていくことだ。それは如何なる存在でも、害する事は赦されない。 「その時点で、アルティカ様とミフェリオは決して対等ではないんです。…対等に、成ってはいけないんです」  家族のように過ごしている日々を送っていると、ついそれを忘れそうになってしまう事は多い。しかし客観的に見れば従者であるトルスカ家を家族のように扱っているキルスカ家が特殊なのだ。それはきっとトルスカ家の者にとって、とても幸せな事だろう。だが、その幸せに浸りすぎてはいけない。 「今仮にこの場で俺達がアルティカ様を護れなかったら、その瞬間、俺達には何の価値も無くなるんです」  トン、と細い指先が自身の心臓をおさえるように胸元を軽く叩いた。彼らは本来、トルスカ家の生まれではない。だがトルスカの名を授かった以上、その命は全て己の為ではなくキルスカ家の為に使う事だけを許される。トルスカ家としてキルスカ家を護る為だけに、その命を使う事を許されるのだ。 「貴方がキルスカ家の人間である以上、絶対にトルスカ家の人間である俺達を護ろうとしてはいけない。それは俺達から命を奪うと言う事です」  それが古き時代からキルスカ家に仕え、その命を守り続けてきたトルスカ家の誇りだ。それはキルスカ家であるアルティカでさえ、侵してはならない彼等トルスカ家の領域だ。 「それは、俺達を。………ミフェリオを殺す、と言う事と同義なんです」  皮肉な話だ。アルティカの持つ優しさが、"友達"を大切にしたいという彼の気持ちが、"友達"であるミフェリオを殺すことになるのだ。その事をアルティカは、理解していない。それでも嫌だと言うのであれば、アルティカはキルスカの名を捨てるしかない。アルティカが捨てられると言うのであれば、それを止めはしないとウィルオンの黒い瞳は語る。強く、残酷な程にまで強く。 「…分かりますよね。俺達を傍に置きたい、壊したくない。その気持ちは間違ってないです。けどそれを無理に貫こうとするのは、」  違う、とその時ミフェリオは言おうとした言葉が出てこなかった。違う、違うのだ、と。自分が死ぬ事など、何一つ躊躇いなどない。それでアルティカを護れるならば、喜んで命を捧げよう。ただただ、それだけだ。それ以上を、望みはしないのだから。 「ただの我儘な"お坊ちゃん"ですよ、アルティカ様。お友達同士の主従ごっこは、そろそろ卒業して下さい?」  ―――否。それこそがきっと、間違っているのだ、と。たかが十七、されど十七だ。それはきっと、必要な事だ。鋭く厳しい言葉に一瞬、青い瞳が割れそうな程に歪んだのが見えた。一瞬だったのは、彼が顔を俯かせたからだ。完全に言葉を失った口は噤まれ、ぐ、と奥歯を噛み締め、両の手を握りしめる。我ながら酷な事を言ったと言う自覚はあった。どれだけの沈黙が、流れただろう。痛い程に重い沈黙はじりじりとミフェリオの心を不安で食い荒らしていく。その時ミフェリオが恐れたのは、アルティカの傍に居られなくなることだった。専属護衛を外されようとも、例えトルスカ家の名を剥奪されようとも、それ以上に怖い事はない。 「(違う、俺が悪いんだ、俺が余計な事ばかり考えて、ちゃんと出来なかったから)」  沈黙するアルティカの名を呼ぼうとする声が、出てこない。彼に近づきたいのに、足が震えて動けない。―――ウィルオンの言う通り、それらを決めるのはミフェリオではなく、アルティカだからだ。嗚呼、嗚呼。彼と離れるのが何より怖くて恐れているのだから、こんな事態を招いたのだ、と。 「少し」  ぽつりと呟かれた声に、びくり、と肩が震えた。呟いたアルティカがゆっくりと顔を上げるも、その表情は見えなかった。アルティカはミフェリオを見る事も、ウィルオンを見る事もなかったからだ。何処からか吹き抜けてきた風が、仕切りの布を揺らした。その先に広がる闇夜を、欲したのだろう。夜の闇は、良くも悪くも人の心を静める力を持っている。 「………少し、歩いて来ても良いか?」 「…お一人では行かせられませんよ」 「分かってる。………分かってる」  選択を、とウィルオンがアルティカに問えば、彼は二度その言葉を繰り返した。その言葉は、信じられない程に弱々しくて。 「―――ミト。ちょっとだけ、付き合ってくれ」  今まで一度でも、こんなにも細い声で名を呼ばれた事は、あっただろうか?答えは、否である。故にミフェリオはアルティカに名を呼ばれたにもかかわらず、それを理解するのに幾秒か時間がかかった。
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