第二章 主従

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 吹き抜けていく風は、精霊"シルフィード"の寝息だろうか。緩やかで穏やかな風は、冷たくはなかった。夜は酷く冷える地域だと言うのに、さほど寒くはなくむしろ温かいくらいだ。精霊"ノーム"の加護だろう。キャンプ地は、静かだった。ファエール一族では、夜に出歩くと悪い精霊に連れ浚われてしまうと言う話を子に聞かせると言う。その話に従って、一族は基本的に夜に外を出歩くことをしないのだと言う。あながち嘘ではない、のかもしれない。静かな闇夜の世界を見渡せば、確かに何処からか悪い何かがやってきそうな、そんな気がした。しかし決して暗くはなかった。驚くほどに月が眩しいからだ。他の地域に比べ、この辺りは雲がないからだ。月までの間に何もないのではないかと思うほどに、空気が澄んでいる。そんな月夜の下を、歩き続ける。ゆったりとした歩調はもしかしたら、子供が歩く速度の方が早いかもしれない。それだけ頭を使っているのだろう。歩調を落とさないと足元が狂って転ぶ可能性を考えればその方が安全だが、逆にミフェリオはその歩調にペースが狂う。ゆっくり過ぎて、どのくらいの歩調で歩けば良いのか分からないのだ。ちらり、と右方を歩くアルティカを見る。その視線は下を向いたままで、ぼんやりと虚空を見つめている。少し歩きたいと言っただけで、何かを話す訳ではないのかもしれない。なんとなく手持ち無沙汰になっている両手を握りしめては解してを繰り返して、三回目くらいだろうか。 「なぁ、ミト」 「………なに?」  ふ、とアルティカがその名を呼ぶ。ミフェリオが視線を移すも、青い瞳は変わらず虚空を見つめたままだ。その瞳が何を見ているのか分からなくて、不安に駆られる。二回ほどアルティカは口を開いては、閉ざす。暫しの沈黙を挟んで言葉を考えてから、もう一度。そっと口を開きながら、少しばかり青い瞳が視線を持ち上げた。 「…ガキの頃にさ、俺が猫を助けた時のこと、覚えてるか?」 「………猫?」  唐突な話の振り方に、当然ミフェリオは眉を顰めた。ガキ…子供の頃の話と言われても、その幅があまりにも広すぎる。広義に言えば今現在とて子供に分類される年齢だ、ミフェリオがその言葉からアルティカの言う話が脳裏に浮かばないのも無理はない。故にアルティカは小さく頷いてから、青い瞳で闇夜を見上げた。遠い遠い、子供の頃の記憶を丁寧に掬い上げるように。 「ああ、猫…だったはず…。屋敷の庭に猫が入り込んでさ、丁度そこで遊んでた俺とお前が見つけた時の話」 「…庭に…猫…」 「確かまだ…お前が俺の専属護衛になったばっかりの頃」  屋敷の中で遊んでいたと言う事は、まだ二人だけで屋敷の外への外出は認められていなかった時、だろうか。そうすると本当にミフェリオがアルティカの専属護衛になって間もない頃の話だろう。と言う事は年齢にして八歳か。猫、庭、遊んでいた、専属護衛になって間もない、八歳。それらのワードを脳裏に散りばめて、記憶の箱の中を探る。ふっ、と箱の底から湧き上がるようにそれが浮かび上がってきた。僅かに息を呑むと、それをアルティカは聞き取ったらしい。それを思い出したと解釈したらしく、顔を上げるとアルティカは一度だけミフェリオを見るも、直前で視線は合わなかった。 「…そう。んで………確かその猫を見つけたのは、俺の方が先だった」  それは、少年らが八歳の時。ミフェリオがアルティカの専属護衛になって間もない時。そもそも専属護衛になったと言う認識すら薄く、その意味も重さも分からないまま、ただ無邪気に頷いた子供の話だ。当時は、とてもよく晴れた日だった、気がする。アルティカは昔から、基本的に領地内から出る事を許されなかった。ミフェリオが専属護衛につく前に法力国家シュレリッツにて法術を施してもらったとは言え、発作が完治した訳ではないからだ。故にアルティカは屋敷の中に居る事を基本とし、調子の良い時は領地内に限り外へ出る事を許された。後々、それが酷く窮屈に感じはじめるのだが…まだ八歳だった少年にとっては、それだけでも遊ぶには十分な広さだった。故に特に窮屈さも感じる事はなく、むしろ屋敷の中ではなく外に出る事を許されるだけでアルティカは大はしゃぎだった。ミフェリオの手を引っ張っては庭を駆けまわって、時々庭師たちに転ばぬようにと声を掛けられて…ふ、と青い瞳がその姿を見つけたのは、偶然だった。アルティカは今も昔も、とても視力が良い。目の良さだけで言えば、もしかしたら今もミフェリオよりアルティカの方が優れているかもしれない。 『………あき?』 『…あそこ…なんか、』 『え?…あっ、あきっ!?』  突然足を止めたかと思えば、次の瞬間には駆け出していたアルティカの背を慌ててミフェリオが追いかけた。位置にして庭の隅、屋敷の領地内においても隅の方だ。毎日丁寧に庭師たちが世話しては整えている花々を少し掻き分けた、その先。 『アキ、どうし… ………!』  幼い二人の丸い瞳に飛び込んだのは、息を潜めながら身を休めていた一匹の猫だった。ぐったりとまではいかないものの、随分と体力を消耗しているのが子供でも分かる程だった。人間の気配に気づいた猫が、辛うじてと言った様子で目を開く。その猫がどうして此処まで消耗しているのか、それは一目瞭然だ。 『怪我してる!』  領地内に入る為に上った高い塀から落ちたのか、それとも草木に足元を取られたのかは分からない。だがその猫は子供が見ても分かる程に決して浅くはない傷を負っていた。子供とは、身体だけでなく思考も未熟だ。故にアルティカは当時、何を考えるよりも早くその猫に手を伸ばしていた。 『! アキ、まっ』  一般的に飼われる事の多い猫と言えど、彼らも野生の動物だ。怪我を負った動物は、自衛本能の為に酷く凶暴になる。自分の生命を護る為の本能だ、飼い猫と違ってその意識が強い野良猫にもなれば当然だ。だが、幼さ故にそれを知らない。知っていたとしても、目の前にした時にそれを思い出せる子供は多くはない。それこそ当時のミフェリオのように、非常に賢い子供くらいしか思い出せないだろう。 『いッ…!?』  同時に猫もまた、伸ばされたアルティカの指先がただ己を助けたいが為に伸ばされたものだと理解する程の知能を持たない。自衛本能故に振るわれた爪先は、人間が思って居る以上に鋭い。それは時に大人の指先にさえ大怪我を負わせるほどだ。弱っている猫でも子供の指先など引っ掻くことは容易く、突然の痛みにアルティカが咄嗟に奥歯を噛み締めた。反射的にひっこめた指先から極僅かばかりに散ったそれが―――ミフェリオが初めて見た、アルティカの血だった。これまで大量に見てきたはずの赤いそれが、嫌に鮮明に脳裏に焼き付いた事を今でもミフェリオは覚えている。少し驚いたようにアルティカが自分の指先を見ては、二回ほど瞬きをする。ツゥ、と伝い始めた血を見て、警戒しているのだとやっと気付く。 『あ…ご、ごめん…!…え、えっと…ミト、』  痛み故か、慣れない場面故か。どうすれば良いのか分からずに、その名を呼びながら振り返った時だ。ヒュ、とその頬を僅かばかりの風が撫でる。たった一瞬の瞬きの狭間に見えたのは、ミフェリオの背丈に合わせて造られた真新しい剣だ。その切っ先はアルティカを決して傷つける事無く、その奥に向けて振るわれ―――音もなくその身を斬り落とされたのは、一凛の花だった。ハラ、と青い瞳の真横で花が散り、草木が崩れていく。パサパサと酷く軽い音を立てて、それが地に落ちていく。瞬きを忘れた茶色の瞳に宿るそれが―――アルティカが初めて見た、ミフェリオの殺気だった。今になって思い出せば、分かる事だ。あの時ミフェリオは、そこにアルティカが居た故に本当の狙いを斬れなかった、のだ。 『アキ、ぼくの、うしろに』  言葉を、理解出来なかった。理解出来ないながらに、アルティカはそれを感じた。今此処で自分が動けば、猫が、どうなるかを。故に動けずに居たアルティカよりも早く、猫が動いた、のだと思う。微かな音と共に駆け出した猫を、茶色の瞳が恐ろしい程に的確に追い。 『ッ、だめだ、ユウマ!!』 『―――!』  音もなく振るわれそうになった剣を止めたのはアルティカの声と、その場に跳んできたウィルオンが手にした剣だった。一瞬の沈黙の後、収められたままだったウィルオンの長剣の鞘に一筋の切り筋が入る。それに眉を顰めるも、制止の声のお陰か。それだけで済んだ事を長剣越しに感じ取りながら、完全に勢いを殺せたことを確認してからウィルオンは息を吐き出した。 『…ミフェリオ、とりあえず剣を仕舞え』 『ッ…でもっ』 『違う、ミフェリオ。この場合、この猫は排除対象じゃない』  有無を言わせぬ強く黒い瞳がミフェリオを見下ろせば、その言葉をミフェリオは理解する。少し戸惑う様におずおずと剣を下ろし、鞘に仕舞う。それで良いとウィルオンが口元を緩める一方で、左手で捕まえていた猫を掴み直した。 『! ウィル、そのねこっ』 『大丈夫ですよ、アルティカ様。…ミフェリオ、アルティカ様の治療を』 『…!あ、あき、ゆび…!』 『え?』  大人しくしていろとウィルオンの細い指先が暴れる猫を押さえ込みながら言えば、ミフェリオはワンテンポ遅れてそれを思い出す。小さな手がアルティカの指先を掴んでは、まだ少量の血が出てくる指先を持ち上げる。目を伏せて、指先に手を翳す。―――コポ、とアルティカの指先を濡らしたのは癒しの水であり、綺麗な水はあっという間に小さな傷を癒した。水魔法において基本中の基本である回復魔法だ。それはミフェリオが初めて覚えた魔法の一つだ。万一に備えての回復手段は、トルスカ家が定める護衛認可基準において必須とされる項目の一つだ。その一方でウィルオンは猫に対してそのまま光魔法で治療を施し、その精神を落ち着かせていく。 『…アルティカ様、怪我をしている動物に急に手を出しちゃ駄目ですよ。吃驚させちゃいますからね』 『…あ……』 『そういう時は…俺を呼んで下さい。いいですね?』 『………うん』  良い返事です、とウィルオンが笑いながらしゃがみ込み、慣れぬ魔法に驚きながらも痛みが引いた故に落ち着いた猫を二人の少年に見せた。多くの人間に愛される可愛らしい猫の目がアルティカを見上げる。傷の癒えたその姿にアルティカが笑みを浮かべては、指先を伸ばす。今度は驚かせないように、と指先をしっかり見せてから恐る恐る近づけて―――ふわ、と少し汚れた猫の頬に小さな指先が触れた。しかし相手は野良猫だ、何処で何を拾っているか分からない為、ウィルオンに後でしっかり手洗いをするようにと言われた事も覚えている。そうして、そう…何故この時の事を話題に出したかと問われれば、その後の事をアルティカは今になって憶測でありながらも知ったからだ。 「今更になって考えてみれば、もう…あの頃からお前はずっと、ちゃんと自分の事を"従者"で、"護衛"だって。………理解、してたんだな」  猫は、翌日には居なくなっていた。直ぐにウィルオンが触れても大丈夫なように綺麗にした猫は、居なくなった。フェナルドが新しい友達が出来たのかと撫でた猫は、居なくなった。テオドールが少し呆れながらも認めた猫は、居なくなった。その名を考える間もなく、その鳴き声を聞かせる間もなく―――その姿を残すことなく、いなくなった。元々、野良猫だったのだ。猫は気まぐれとも言うし、屋敷に留まる理由も義務もない。自由奔放に生きる猫を、屋敷に縛り付ける権利は誰にもなかった。最初こそ残念だったけれど、直ぐにアルティカはその猫を忘れた。そんな忘れたはずの猫を、今になって思い出す事になるだなんて思いもしなかった。当時の事は、あまり思い出せない、けれど。  "…すみません、アルティカ様。ちょっと目を離した隙に、逃げられちゃいまして"  "元々、猫も野生で生きる者だからね。自由にさせるのが良いんだよ、アルティカ"  "………縁があれば、またこの屋敷に来てくれるでしょう"  今なら、分かる。そう言う彼らの顔、瞳、声、言葉。それらを総じて照らし合わせれば、猫は居なくなったのではない。いや、結果として"居なくなった"と表現するのは間違ってはいないだろう猫は―――もう、二度と姿を見せる事はない。音の鳴らない足が、止まった。対してアルティカは更に数歩進んだ先で足を止めて、振り返る。見えたのは、酷く怯えるように揺れる茶色の瞳だった。こちらを見ようとしない茶色の瞳が、全ての真相を語っていた。まるでその瞳は、あの時アルティカを警戒していた猫のようで。…いや、あの猫よりもずっと怯えているだろう。それを隠すためか、いや違う、認めるためだ。そっと茶色の瞳は閉ざされ、何を言い渡されても甘んじて受け止めると、そう言った意思が読み取れた。 「お前はきっと、俺が知らないだけで…俺が知ってるよりずっと沢山の場所で、俺を護ってきてくれたんだろうな」  そんなミフェリオを、アルティカは決して責めるつもりはない。むしろ、それに気付けなかった自分が、酷く恥ずかしく感じた。自分が、知らなかっただけなのだ。ミフェリオがトルスカ家として背負うものがどれだけ重いか、今になって知った。いや、知ったと言うにはまだまだ不足しているだろう。そう、きっと自分はこれまでずっと傍に居たミフェリオの事を、あまりにも知らない。 「お前はあんな子供の頃から、ずっと理解してたんだ。…ごめん、それを俺が"友達"だからって、変に意固地になって」 「…ッ違う!俺だってアキの事は、"友達"だって思ってる!ちゃんと"友達"だって」 「分かってる。………それだけは、分かってる、つもり」  アルティカは咄嗟に顔を上げて言うミフェリオの言葉を受け止めては、嫌に鈍い痛みを感じ始めたのか右肩を左手で軽く握りしめた。浮かべた微苦笑は、きっと酷く情けないものだったろう。主人でありながらそんな顔を晒せるのは、やはり"友達"という認識が強い為だろう。けれどきっと、本当はそれではいけないのだろう。―――父は、どうだったのだろう?父は自分の専属護衛と、こんな事を会話した事が、あるのだろうか。 「………なんか俺、お前の事…自分で思ってる以上に知らねぇんだな、って」 「…そんな、こと…別に良いだろ、俺のことなんか。…お前は、アキは、何も悪くない」 「良くないだろ。お前のこと知らなくて、分かってねぇから…今回みたいなことが起きたんだろ」 「違う、俺が未熟で、甘かったから。…だから、」 「なぁ、ミト」  不意に感じた違和感を拭う為に、アルティカはその時ミフェリオの名を少し強めに呼んだ。僅かばかりに強張った身体に眉を顰めて、持ち上げられた茶色の瞳を正面から真っ直ぐに見る。掴んでいた右肩から左手を離しては、一呼吸程の間を挟んで。 「"従者"として喋るの止めて、今は"友達"として喋ってくれねぇか」  昼間、坑道で派手な喧嘩をした時みたいに。彼が"従者"で在る以上、天地がひっくり返ってもこの話は平行線だ。"従者"が"主人"の事を下げる事など、絶対に在ってはならないからだ。故にそれを指摘すれば、どうやらミフェリオは無自覚だったか。恐らく"従者"として喋る事で平静さを保とうとしていたのだろう、茶色の瞳がまた大きく揺れた。 「…っ…ちが…アキ、俺は」 「…あー、うん、分かった。悪い、いつもお前が合わせてくれてた、んだもんな」  不安から揺れる瞳が、続いたアルティカの言葉に更に不安に煽られては揺れた。言いながら目を伏せて後ろ髪を掻いたアルティカの名を呼ぼうとして―――ス、と開かれた青い瞳に、声を奪われた。 「―――ミフェリオ」 「!」  かと思えば次の瞬間、心臓を掴まれたかのような感覚がした。その青い瞳を、ミフェリオは知らない。これまで十年近く傍に居たと言うのに、まるで見た事のない初めて見る瞳だったのだ。ズ、と腹の底に重みがかかる。だけれどそれは、嫌…と表現するのは少し違う。…否、違う。そう、嫌だと言わせるだけの余裕を与えないような、それは。 「今回の件について、確かにお前にも非があったのは確かだ。が、同時に俺自身にも非があったのも確かだ。まずはその事を、つべこべ言わずに認めろ」  ミフェリオに対して初めて放たれた威厳であり、威圧、だ。それは彼の父から引き継いだものだろうか。…いや、その威厳は、威圧は、彼の父は関係ない。彼が元から持ち合わせて居るものであり、決して同じものではない。そう、アルティカはいつもミフェリオが合わせてくれていた立場を、初めて自分で合わせたのだ。 「俺の事を下げるとか、そう言う事じゃない。今はそれを一度捨て置いて、認めろ」  ミフェリオがアルティカの為に"友達"として合わせて来てくれていたのと同じように、アルティカは"従者"として話すミフェリオに"主人"として話す。青い瞳は、月光を受けて強く煌々と輝いている。月だったから良かったものの、太陽の日差しを受けたらきっとあまりにも眩しいだろう。いや、彼の青い瞳は月だからこそ此処まで強く輝くのかもしれない。そんな余計な事を考える余地さえ、呼吸と共に奪われていく。 「………出来ないのか?」 「! い、いえっ、そのような事は、決して…っ」 「なら、返事は?」 「……っ…」  一度ミフェリオはその青い瞳から、愚かにも逃げようと視線を逸らした。だが絶対的なその瞳にまた吸い込まれていく。逃げたいのに、逸らしたいのに、逃げられない、逸らせないのだ。逆らう事を許されていないのに、なんと滑稽な事か。いつの間にか酷く乾いている口内をぐっと閉ざしてから、抗う様にミフェリオは茶色の瞳と共に顔を伏せた。 「……―――…はい、アルティカ、様」  少し擦れた声で響いた返答に、アルティカが少しばかり青い瞳を歪めたのを、ミフェリオは見ずとも感じていた。そこでミフェリオは自分の鼓動が耳元にまで響いている事に気付いた。何時もより早鐘を打つそれは、うるさいくらいだ。体中の血液が熱されいているような感覚がする。それは例えるならば緊張や興奮と言った類に近いだろうか。 「…俺としては、お前以外に専属護衛を任せるつもりはないが…お前は、どう思う?」 「………アルティカ様が、そう仰るのであれば」 「そうか、じゃぁ引き続き頼む。ただし、」  それでも酷く澄んだ彼の声は心音を突き抜け、ミフェリオの奥深くまで響き渡るとその意識を捕らえて離さない。動くことを、逃げる事を、抗う事を許さない。まるで一種の魔法ではないかと思える程のそれは、一体何なのだろう。体の芯を、それこそまるで心臓を掴んでいるような彼の声は何故だろう―――尊い、とさえ。 「………無茶は、するな」  ふ、と。まるで懐かしい誰かを見つけたかのような感覚に駆られて、顔を上げた。見えたのは、僅かばかりに和らいだ青い瞳だった。言葉を探すように、瞬きを一度。それ以上の言葉は続かなかった。言いたい事は沢山あったが、それは"主人"としてではなく、"友達"として言いたい言葉ばかりで。代わりにアルティカは、その言葉を全て指先に乗せる事にした。持ち上げられた茶色の瞳に手を伸ばしては、その頬に触れた。温かい指先は、ミフェリオも良く知る指先だ。幼い頃はいつも広い世界へ連れ出してくれた、大切な、大切な。溢れてくるこの感情は、なんと称されるものなのだろう。それを探そうとするけれど、あまりにも早くその指先は離れてしまう。それが、嫌だったのだろう。離れていってしまう指先を、堪らずに掴み捕らえた。青い瞳が、少し驚いたように丸められた。ミフェリオが許しを請う様にその場に片膝をついた。それは彼を驚かせた事か、それとも指先に触れた事に対してだろうか。…その指先に、触れたいと思ったのだ。何故だろう、溢れてくる名の分からない感情がミフェリオを突き動かしたのだ。 「………はい、アルティカ様」  ぎゅぅ、と控えめにその指先を握りしめながら声を絞り出す。その声は、微かに震えていた気がした。触れる指先は、幼い頃と比べて随分と大きくなった。あの時、猫に傷つけられた手はあまりにも幼く、儚く、脆く。惹かれるように、茶色の瞳が青い瞳を見上げた。彼の月白色の髪が、その奥に浮かぶ月に飲み込まれそうだ。眩しいくらいの月光は、彼の青い瞳まで溶かして連れ浚ってしまいそうで―――それを、阻みたいのか、それとも。掴んだ指先に意識を委ねるように目を伏せ、少しばかり頬を摺り寄せては指先を絡める。かつて護れずに傷ついた指先を口元に寄せ、この形容し難い気持ちを乗せて…触れるか、触れないか。 「この命は全て、アルティカ様の為に」  そんな酷く曖昧で儚いキスが、アルティカの指先に落とされ―――其れは淡い月夜の下で交わされた、とある"主人"と"従者"の契りだった。
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