第二章 主従

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 一羽の鳥が、月から溶け出し現世に還る。月から帰還した鳥は音もなく羽ばたき、伸ばされた細い左腕に舞い降りた。ふわり、と大きな翼が折りたたまれると伏せられていた黒い瞳がそっと開かれる。その黒い瞳は、月光が無ければ闇夜に溶けてしまうだろう。 「お疲れ、ルクト」  自分の代わりに契りを見届けただろう彼の名を呼べば、月光と闇夜に溶け込んだままの翼を少し持ち上げた。彼なりの返事にウィルオンは微笑を浮かべ、その嘴を指先で撫でる。気分によっては鬱陶しいと払われる指先を、払われない。珍しい、とそんな彼を横目で見てから、ウィルオンは月を見上げる。一瞬、強い光に目が眩んだ。目を細め、何を考える訳でもなくぼんやりと二呼吸ほど時間を流し捨てる。ぐい、と不意に指先を押された。それに視線を下ろせばルクトがその嘴をウィルオンの指先に少し強めに押し付けた。鬱陶しくなったらしい。指先を離しながら微苦笑を浮かべた時だ、ふわ、と闇夜に溶け込んだままの翼が柔らかく広げられた。 「!」  羽先が目に入りそうになったのを咄嗟に目を閉じる事で防ぎながら、左肩に相応の重みを感じ取った。ルクトがウィルオンの左肩に居場所を変えたのだ。何事かと黒い瞳が動けば、すり、と固い嘴が頬に触れた。一呼吸程の間に、二回ほどの瞬きをした。随分と珍しい事が起きたらしい、とウィルオンは他人事のように考えた。 「………なんだ、慰めてくれてんのか?」  からかう様に言えばいつも頭部にとんでくる翼が…とんでこない。それどころか触れたままの嘴は離れない。挙句、彼はそっと瞳を伏せたのだ。浮かべたままの微笑が、そのまま固まったのを感じた。 「大丈夫だって。最初から分かってた事だろ?」  釣られるようにそっと目を伏せては、その嘴に頬を寄せた。動きに合わせて焦茶の前髪が滑り落ちる。月光の所為か、それとも深い闇夜の所為か。その髪は本来の色とは違う、別の色彩を生み出している。まるでそれはルクトの闇夜に溶け込んだままの翼のように。本来の色を、忘れてしまっているのだ。 「………そう、分かってた事、だ。あいつが…ミフェリオが、アルティカ様の専属護衛になった、あの日から」  ―――元より、アルティカの専属護衛に就く予定だったのがウィルオンだったと言う事を明確に知る者は、そう多くはない。しかし恐らく、明確に知らないだけでその噂を耳にし、そうなるのだと思っていた者は大勢いる。故に皆、口を揃えて言う。"勿体ない"、"あんなに頑張っていたのに"、"ウィルオンだって"、"何故あんな子供に"…嗚呼、実に聞き飽きた。そうっと黒い瞳が開かれると、微笑が微苦笑に変わった。孤独な瞳が、月の奥にぼんやりと浮かぶ誰かを見つめる。ウィルオンはこれまでの事をその黒い瞳で見てきた。口々に言う誰かは見ようともしない、数多の事を。昔の事も、今の事も、そしてきっとこれから先の事も。ウィルオンはその瞳で、多くを見つめていくのだろう。その瞳は、孤独だ。他の人と比べてあまりにも高い位置から人を、世界を、自分を見つめているからだ。孤独で在りながら、ウィルオンはその瞳で見つめるのだ。見守るのだ。昔を、今を、そしてこれからを。 「俺は、これからも幸せそうな皆の顔を傍で見られれば、それで十分」  それこそが、ウィルオンにとっては最高の幸せである為に。 「リク、キミはどう考える?」 「んァ?」  就寝前の一杯である紅茶を啜りながら、ゼノは不意に傍に居たリクに問いかけた。何事か、と深紅の瞳が眇められる。あまりにも唐突すぎるために問いの意味が分からないのだ。いや、それ以前にリクは頭の出来は良くないと自他共に認めている。故にその問いを理解して答える事は出来ない、と言わんばかりにリクは後ろ髪を掻いた。 「…なにが?」 「今回の件だよ。まぁ、明日の朝には情報も入ってくるだろうけど」  それでも問いに答えようという気持ちはあるらしく、リクは問いに問いで返す。ゼノがそれに微苦笑を浮かべながら、甘味が足らないらしく角砂糖の詰まっている瓶に指先を伸ばす。一つに留まらず三個ほどの角砂糖を取り出したゼノに、リクはほどほどにするよう伝えると彼は渋々個数を一つ減らした。 「さァな、オレは小難しい話は分かんねェ。…が、感想を言えって事なら…まァ、きな臭ェな」 「だよねぇ…どうにもここ最近のお国は過激っていうか…」  ぽちゃん、と細い指先から滑り落ちた角砂糖が二つ、水面に波紋を立てて紅茶の中へと沈む。瞬く間に紅茶の熱は砂糖を溶かしていき、飲み込んでいく。その様子を見ながら、ゼノは頬杖をつく。何を考えているのやら、昔から国の考えは理解出来ない。出来ないからこそ、自分達は国の思想から離れたのだ。 「ゼノ」 「うん?」 「どうにも落ち着かねェ、一つだけ良いか?」  意外な申し出にゼノは少し驚いたように目を丸めたものの、ずっと落ち着きのない様子の彼に納得した。言うか言うまいか迷っていたらしいが、それこそ彼らしくもない。やっとかと言わんばかりに、ゼノは薄く笑った。 「構わないよ。慣れない気遣いするのは疲れるでしょ?直感?」 「うるせェな、そうだよ直感だよ」  からかう様にゼノが言えば当然、リクは恨めしそうに深紅の瞳で黄色の瞳を睨んだ。それにわざとらしく肩をすくめてやれば、彼は一瞬申し出た事を後悔するも、生憎自分の直感は信じるタイプだ。くすくすと笑うゼノが落ち着くのを待ってから、更に一呼吸。リクは慎重に言葉を選んでから、そっと口を開いた。 「………あの赤髪の事なんだが」 「? アルティカ坊ちゃんの?」  名は確か、ミフェリオ、だったか。思い返しながら問えば、リクは頷く。リクはともかくゼノは彼とゆっくりと話をするほどの余裕がなかった。いや、それはリクも同じ事だ。状況が状況だ、改めて話すとすれば明日になってからだ。友人の息子とも是非ともゆっくり話したいものだ、と考えるゼノに対してリクは一度口を閉ざした。何事も白黒はっきりさせておきたい性分の彼だ、言葉を詰まらせ口を閉ざすなど珍しい。故にゼノは目を丸めて、その名を呼ぶ。深紅の瞳がゼノを一瞥しては、少しだけ顔を俯かせた。 「オレの気の所為、であって欲しいと思うんだが」 「…ハッキリ言ってくれる?」  それでも尚、逃げるように言うリクの言葉をゼノが切り落とせば、違いない、と深紅の瞳が諦めたように目を伏せた。再び開かれた深紅の瞳が、虚空を見つめる。…いいや、その瞳はかつての激戦を見つめる。それは、歴史だ。目を伏せなくても、鮮明に描ける。あの戦いの、熱、空気、声、激しさ。その全ては今もリクを時々魅了する。 「…―――………"あの女"と、同じ匂いがした」  歴史に惹きこまれてしまうのを寸で堪えながら、リクは静かな声でそう呟いた。一瞬、何のことか理解出来ずにゼノは黄色の瞳を眇めるが、僅かな間を置くと直ぐにその言葉を理解した。頬杖をついていた頭を上げて、腕を下ろす。冗談だろう、と言わんばかりの黄色の瞳を、深紅の瞳が見た。 「今回の件と何か関係があるかは分かんねェってか、ない、と思うんだが」  いくらリクの言う言葉でも到底信じられないのだろう黄色の瞳に、嘘ではないと語る。むしろ気の所為であってほしいとリクだって祈り願っている。だがただの気の所為だとしても、不吉だ。故にリクはゼノにそれを言う事を迷いに迷い、口にしたのだ。この口で"彼女"の事を語るのは、一体何年ぶりだろうか。 「………ここ最近、まるで"あの女"があの時みてェに何か企んで嗤ってる感じがして、すげェ気持ち悪ィ」  まるでそれは蛇が地中を這いずりまわっているかのような感覚だ、と苦虫を噛み殺したかのような顔でリクは語る。頭の片隅では、あの戦いから二十年近くが経とうとしている事を思い出していた。彼の言葉に、ゼノは一度沈黙する。リクの直感は、良くも悪くも当たる。直接この目で見てみないと分からないが、しかし。 「………それは、不吉、だねぇ」  不吉としか言いようのない彼の直感にゼノが紅茶を見下ろせば、溶けきらない砂糖が泥のようにカップの底に溜まっていた。  魔法国家フォルテラ。やけに不吉な知らせを伝えてくる星々を見上げていた一人の魔導師が、それに気付く。そこにやってこれる者はそう多くない。あまりにも星に近い位置に在る高い塔の頂点だからだ。普通の人間は星々の放つ強い魔力にやられて、頂点にまでたどり着かずに膝を落としてしまうのだ。その点を除いても、そもそもこの塔は魔導師の所有物であり今現在の住まいだ。鍵なんてものは掛けていない。事前に魔導師が認めた者以外は、この塔がある領地内にだって入れはしない。魔導師が張った強力な結界が存在するからだ。世間では魔導師を世捨て人と呼ぶ者もいるが、決してそうではない。一人静かに此処で過ごすのが好きなだけだ。 「なんだい、こんな夜更けに。アンタ、何時の間にこんな夜更けに女の住まいを訪ねるような男になったんだい?」 「茶化すなよ、呼び鈴は鳴らしたぞ」 「こんな時間に訪ねてくる客人はお断りだよ」  故にこうしてなんだかんだ言いながらも魔導師は客人を受け入れては言葉を交わす事もある。文句を言うなら呼び鈴に応答しろと、一人の男が魔導師に呆れたように目を眇める。しかし魔導師の返答が正論だろう。時刻は既に星々が見える時間…深夜近くだ、常識を考えれば男の方が無礼だ。違いない、と男が諦めたように両肩をすくめてみせた。しかし相応の理由があるのだと、男は魔導師に許しを請う。それ自体は魔導師も許すことにし―――と言うよりかは、正直あまり気にしていないのだろう―――それでも、眉を顰めて男を見た。 「…今度は何だい?止めておくれよ、アンタ達はいつもアタシに厄介事を持ってくる」 「話が早くて助かる。お前に見て欲しい物があってな」 「少しはアタシの話をお聞きよ…」  この男は、と魔導師が盛大なため息を吐く。男が手にしているそれに、魔導師が酷く嫌そうに顔を歪める。強い匂いでも感じているのか、それとも男の狙い通り魔導師なら感じ取れる何かを感じているのか。近づけるなと言わんばかりに魔導師は被っていたとんがり帽子を引っ掴んでは目元を覆い隠した。 「許せ、頼れるのがお前くらいしか居ないんだよ」 「またそうやって適当な事を言って。だからアンタは面倒ごとに巻き込まれるんだよ」 「心外だな、俺はお前に対して適当な事を言った覚えは一度もないぞ?」 「あー分かった分かった、分かったからそれ以上ソレを近づけないでおくれ、気持ち悪くて仕方が無いよ」  そこで止まれと言わんばかりに魔導師が男を制止すれば、流石に本気で嫌がっているのを察した男が足を止めた。帽子の奥に仕舞い込まれた瞳を開いては、魔導師が覚悟を決めたように顎でそれを促した。それを合図に男が手にしていたそれを魔導師に放れば、ふわ、と音もなく発動された浮遊魔法が受け止めたのは小さな小石だ。 「…なんだい、こりゃ。ただの石ころにしては、随分と気味が悪いね」 「ゾネベック鉱山で発見された石だ。そこで発掘されたのか、違うのかは定かではないが」 「ゾネベック?…アンタ達の国は落ち着きがないねぇ…」  まるでそれを汚物かのように魔導師は顔を近づけては離しを繰り返し、その石を観察していく。今宵の星がやけに不吉な知らせを魔導師に伝えてきたのは、もしかしたらこの事なのだろうか。落ち着きがないと言えばこの国もそうだが、と考えながら男に視線で続きを促す。 「キュナエバナの心臓だ」 「馬鹿言うんじゃないよ、植物に心臓なんてあるわけ」  何を言っているのか、と促した男の言葉に魔導師は途中で言葉を失くした。途端、魔導師はぐっと呼吸を止めてから浮遊魔法で石を傍に寄せると、帽子の下から鋭い眼差しで石を睨み下ろした。細い指先が石に触れようとして、止める。とてもじゃないが、魔導師はその石を素手で掴む気にはなれない。 「………愚かな事だね。馬鹿ってのは、本当に馬鹿なんだね」 「俺はお前ほど魔法や魔術に詳しい訳じゃないが…禁術か?」 「禁術中の禁術だよ。この国でこんな術使ってごらん、女王陛下に魂を喰われるよ」  優秀な魔導師や魔法使いは絶対に使わないだろうその魔術は、優秀である故に彼らは絶対に使わないだろう。魔術そのものの恐ろしさ、愚かさ、そしてこの国を治める女王陛下の禁術への徹底的な対処を見て知っているからだ。本当に厄介な物を持って来てくれた、と魔導師が男を一瞥すれば、流石に悪いと感じたのだろう男が肩をすくめた。 「………馬鹿だね、本当に馬鹿だ。黙って洞窟の奥に咲いてりゃいい植物が、化け物にでもなっちまったかい?」 「流石、正解だ。俺がこんな夜更けにこんな所まで来た理由は、分かってくれたか?」 「お陰様で気分が悪くなっちまったよ。一杯やろうかねぇ」 「っておい、詳しく調べてくれよ。嫌なのは重々」 「お断りだよ」  不意に、小さな石が浮遊魔法によって男へと返却される。飛んできたそれを反射的に受け止めるも、それでは此処まで来た意味がない。故に男が口を開こうとした時だ、魔導師は関わりたくないと言わんばかりにまた帽子を掴んでは目元まで深く被った。 「テオドールの所に持っていきな。アイツでも、その位のレベルなら分かるよ」 「おいおい、ディカーラから此処まで来た俺に、此処からまたアイツの所にまで行けと?」  冗談じゃない、と男が少し疲れた顔で言うが魔導師からしてみればそんな事は知った事ではない。だが男としては此処まで来たのだ、このまま魔導師に託してまた後日にでも詳細を聞きに来るようにしたいのだろう。が、魔導師からしてみればその返答こそが男に与えた"答え"だ。 「アンタは行けないよ。代わりにゼノとリクが行くからね」 「………ん?おい待て、なんで俺が行けずにあいつらが行くんだ?」 「アンタが、アンタのお付きの子に捕まるからだよ」 「なるほど、お前の予言は当たるからなぁ」  その事に男は気付かぬまま、魔導師の言葉に不信感を抱いては話題が転じる。それは参ったなと後ろ髪を掻いた男に、魔導師は帽子の下で含み笑いをする。いいや、と首を振るった。 「馬鹿な男だねぇ。星の言う事は"予言"じゃない、アンタに定められた"運命"だよ」  ならばそれに抗ってみようかと男が考える間もなく、魔導師はその男を転移魔法で玄関にまで突き返す。一刻も早く、あの石から感じる嫌な脈動を遠ざけたかったからだ。静けさを取り戻した夜空の下、魔導師は天を仰ぐ。変わらず不吉な輝き方をする星々に目を細めては、息を吐き出す。何かを振り払うように、ゆるく頭を横に振るった。 「…愚かだよ。なんて愚かなことだ。馬鹿ってのは本当に、愚かだよ…」  呟いた魔導師は三呼吸程そのまま沈黙してから、一人立ち上がった。今頃玄関先で待っていた女に、あの男は捕まっているだろう。そしてあの男は帰り道で、魔導師が告げた言葉の意味を知る。魔導師が弾き出した答えこそが、この時の"最善"であった、と。
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