序章 始まり

5/5
134人が本棚に入れています
本棚に追加
/161ページ
 最終的に主人であるフェナルドが弾きだした結論は、法力国家シュレリッツへ赴く、という結論だった。祈りの力で神の加護を得て人々を癒す、それが法力だ。シュレリッツは三ヵ国の中でも法力による術、即ち法術が発展している。法術はアルティカだけではなく、多くの者が幾度も救われた経験があるはずだ。魔法にも治癒魔法はあるが、法術はそれを遥かに上回る。ルガラントにも法術を扱える者は多く存在し、それを得意とする神官もいる。しかし本場であるシュレリッツに居る彼らはまるで格が違う。法術をルガラントに伝え教えたのがシュレリッツなのだ、彼らの扱う法術は"奇跡の業"と称される事も少なくない。ただでさえ多忙なフェナルドがアルティカを連れシュレリッツに向かうには、厳しいスケジュール調節との戦いを強いられた。  それでもフェナルドの判断は正しかった。半月に渡る旅を経て、屋敷に戻ってきたアルティカは見違えるような健康体になっていた。相応の出費は避けられなかっただろうが、フェナルド曰く"命は金で買えない"との事だ。違いない、と誰もが頷いた。最初こそ戸惑っていたミフェリオだが、それから二人で共に遊んでもアルティカは発作を起こす事は無くなった。それで万事解決、と上手く事が収まってくれれば良かったのだが、そうもいかなかった。―――スパン、と酷く澄んだ音が響いた。茶色の瞳が酷く驚いたように見開かれ、一瞬の間にその瞳に振りかざされたのは鞘に納められたままの長剣だった。本人の意図せずして動いた身体が、それを避けようと床を蹴る。子供にしては並み外れた動きだが、しかし。 「阿呆が。教えたはずだ、お前の身体でその技術を扱うのはまだ早すぎる、と」  相手が悪すぎる、としか言いようがなかった。その言葉を狭間で聞きながら、小さな少年は激しく壁に叩きつけられた。まだ小さな肺の中から、全ての空気が吐き出された。例えばそこで彼が鞘から剣を抜いていたら、その首と胴は離れていただろう。だがそれを成さなかったのは、この場にたった一滴でも血を流してはいけない場だったからか…否。 「止めなさい、ユウマ」  ポウ、と指先に光を宿し灯した主人の命令だったからだ。暗闇に浮かび上がった彼の顔は、酷く悲しそうだった。暗闇に慣らしてきた目に、その光はあまりにも眩しかった。痛みの衝撃で一瞬飛んだ意識を手繰り寄せて、顔を上げた。ひゅん、と鞘に納められたままの長剣が少年を威嚇するように空気を斬った。 「その武器をよく見てみなさい。…刃が無いだろう。当然だ、まだ子供のお前が扱うものじゃないからな」  どんなに賢くても、どんなに優れていても、子供は子供だ。その事に気付かなかったのだろう、少年は傍に転がっていた武器…暗器を見下ろした。 「なにより、例えそれが刃のある真剣だったとしても………お前ではテオには勝てないよ、絶対にな」  そう簡単に真剣を与える訳がないだろう、と数日前にその暗器を少年に与えたテオドールは紫の瞳でそれを見つめていた。彼ならば例え眠っていてもその気配に気付き、背後を狙われていたとしても、剣を抜いたその瞬間に子供である少年を逆に殺せる。それほどの技量を持っている事を、子供は知らない。だが主人であるフェナルドは知っている。それだけの違いと言えば、そうなのだが。 「…お前が刃のある真剣を手に振るえば、俺は例えお前が子供だとしても剣を抜く。…それが武人だ、覚えておけ」  主人の命令であった事も確かだが、少年が振るった暗器が刃のない真剣でなかったからこそ、テオドールもまた剣を抜かなかったのだ。そうでなければ、テオドールは武人として相手が真剣を振るったのであれば容赦なく鞘から剣を抜いた。長い、長い沈黙が流れた。堪らず、と言った様子でフェナルドがぐしゃりと前髪を掻き、腰を下ろしていたベッドの上で足を組んでは身を縮めた。 「………お前の読み通りだ、テオ。流石だ」 「………勿体ないお言葉です」  言葉を交わした二人の背後で、すぅ、と規則正しい呼気が僅かばかりに響いた。繰り返されるそれは、子供の浅めの呼吸だ。良く眠っている。愛しい我が子の寝顔を横目で見ながら、フェナルドは苦しげな微苦笑を浮かべた。少しして、フェナルドは立ち上がった。それを合図と判断したか、少年が茶色の瞳を伏せる。嘆かわしい事だ、これが大人だったら逃げ惑うか、あるいは無様に命乞いでもする場面だ。 「いいかい、ユウマ。もう一度、言うよ」  故に、その両腕で抱き上げられた少年は驚いたように目を開いては見開いた。僅かばかりに息を呑み、びくりと震えた身体はまだ小さい。赤い瞳が茶色の瞳を見下ろしては、酷く辛そうに歪められた。くしゃ、と細い指先が柔らかい赤髪を撫でた。 「―――"その名"は、忘れなさい。思い出してはいけないよ、"その名"は、お前は知らなくて良い名だ」  忘れなさい、とその言葉を二度繰り返しながらフェナルドは少年を抱き寄せては、その目元を自身の肩に寄せた。釣られて茶色の瞳は伏せられ、ぽん、と小さな背を反対側の手で優しく叩き撫でた。酷く早鐘を打っている鼓動は、少年が生きている証だ。その鼓動に耳を澄ませるように目を伏せながら、フェナルドは決して怯える事はないのだと伝えたくて更に少し小さな身を抱き寄せた。 「お前の名は、ユウマ・ミフェリオ・トルスカ。これを忘れてはいけないよ。そして、二度とこんな事をしてはいけない」  それは、お前の意志ではないのだから。そうフェナルドは優しく語り聞かせるように、少年に言う。酷く震えていた小さな指先が応えるように、フェナルドの衣服を僅かばかりに掴んだ。安堵から、吐息を吐き出した。 「…良い子だ。少し疲れただろう、今日はもうおやすみ。………良い夢を、ユウマ」  幼い少年がアルティカを暗殺しようとしたのは、少年がこの屋敷に来て半年を過ぎて少し経った頃の話だった。しかし当時のその話を知るのはフェナルドとテオドールと―――少年、ユウマ自身だけである。  不思議と、そこからの記憶は比較的鮮明に思い出せる事が多い。それ以前の記憶が酷くぼやけているのとはまるで対照的だ。次に思い出せる古い記憶は、優しい日差しが差し込む屋敷の一室に連れられてきた時の事だ。それは、例の日から更に半年後の話だ。少年がこの屋敷にやってきて、一年。二人の子供の年齢で表せば、齢八歳のある日の事だ。 「あ、ミト!」  テオドールと共に自身の部屋を訪ねてきた少年の名を呼びながら、アルティカが座っていた父の膝の上から飛び降りた。ご苦労、とフェナルドが目でテオドールを一瞥すれば、彼はそっと頭を下げてから優しくミフェリオの背を撫で押した。一度不安げにテオドールを見上げたミフェリオだったが、おずおずと言った様子で部屋へと入る。だからだろう、茶色の瞳はアルティカを見る事が出来ず、酷く戸惑い逃げるように彼方此方を泳ぐ。何事か、とその視線を青色の瞳が追いかける。暫くそのまま視線の鬼ごっこを続ける少年らに、フェナルドが微苦笑を浮かべた。 「? どーしたんだ、ミト?…元気、ない?」  何かを言おうとして口を開くも、声は出ない。結局ミフェリオは、ふる、と軽く頭を横に振るうのが限界だった。それ以上は他者が助けないとずっと平行線、あるいはアルティカが痺れを切らして喧嘩してしまう可能性もあった。故にフェナルドがテオドールを促せば、彼はアルティカに対して跪いてからそっとミフェリオの肩を撫でた。はっ、とミフェリオがそれに息を呑んでは肩越しに振り返ってテオドールを見上げる。まだ幼い茶色の瞳に、テオドールが紫の瞳で暗に語り掛ければミフェリオは慌てて一歩だけ身を引いた。それを追いかけようとしたアルティカを止めたのは、見様見真似と言った様子でその場に跪いたミフェリオ自身だった。 「………ミト?」 「フェナルド様、アルティカ様、一つご報告に参りました」  実に不思議そうに目を丸めて首を傾げたアルティカが、テオドールの言葉に更に首を傾げた。対してフェナルドが椅子から立ち上がり、アルティカの背を撫でる事でその場でちゃんと立っているよう促した。更に不思議そうに目を丸めてアルティカがフェナルドを見てから、またテオドールを見て、ミフェリオを見る。 「聞こうか。アルティカ、テオの言う事を良く聞きなさい」 「うん…?なーに、テオ?」 「この度、此方の者…ユウマ・ミフェリオ・トルスカが、トルスカ家における護衛認可基準を満たしました」 「…ごえー、にん………?」  聞き覚えのない単語を復唱しようとして、失敗する。そんなアルティカにテオドールは一度伏せた瞳を開いて、ミフェリオを一瞥する。どこを見れば良いのか分からない、と言った様子のミフェリオと目が合ったところでついテオドールもまた口元が緩んでしまう。それを隠す為に再び目を伏せ、軽く顔を俯かせる。フェナルドの目線では跪いているテオドールの顔は見えなかったが、安易に想像出来た。 「厳正なる選考の結果、今後この者をアルティカ様の専属護衛に推奨いたします。ご検討いただけますでしょうか?」 「………ぼく?」 「…そうだな。アルティカ、テオはミフェリオをお前の護衛にするのはどうか、と聞いているんだ」  何の話かまるで分かっていないアルティカが自身を指差し、また首を傾げた。もう少し分かりやすい言葉を使えれば良いのだが、この場合は致し方ない。分かっていなくても正式な報告の場だ、しゃがみ込みながら言うフェナルドを青い瞳が見上げた。 「ごえー?…ごえーって、テオ?」 「そうだな、テオのような者の事を護衛と言う。私や、お前の事を護る者の事だ。ミフェリオも、その護衛になったんだ」 「ミトがっ?」 「ああ、ミフェリオはとてもよく頑張ったんだ。…それで、ミフェリオをお前の護衛にするかどうか、テオは聞いている」  ぱぁ、と一度は浮かんだ笑みだったが、また直ぐに歪んだ。人に対してその者をどうしたいか、という問いが根本的に今一分からないのだろう。自分とテオドールの関係性を例えとして表すか、否それは余計に混乱させてしまうだろうか。ならば、とフェナルドは一度口元に指先をあてた。 「うーん…そうだな。…アルティカ、お前はミフェリオを、自分の護衛にしたいか?したくないか?」 「………うー…ん………」 「ミフェリオをお前の護衛にすると、これからはミフェリオがお前の護衛として、お前を護ってくれるんだ」 「………ん~~~………」  悩んでる悩んでる、と唸る我が子に必死に笑いを堪えながら答えを待つ。多分、八割は分かっていないままだろう。たっぷり三呼吸ほど唸りに唸ってから、アルティカは諦めたように一度思考を止めた。 「ミトは友だちだから、えーっと………いっしょに遊べるなら、なんでもいーよ」 「ふむ。………ミフェリオ、お前はどうだ?」  そう来たか、とフェナルドはそれを返答として認める事にした。故に今度はミフェリオに問えば、少年はびくりと肩を震わせた。酷く驚いたように持ち上げられた茶色の瞳に、フェナルドが柔らかく微笑んだ。 「お前は、アルティカの護衛になりたいか?なりたくないか?」  一度、助けを求めるようにミフェリオがテオドールを見る。その視線にテオドールは伏せていた目を片方だけ開けば、思った事を話せ、と実に短い助言をした。もう少し助けてやればいいものを、とフェナルドが内心で苦笑した。おろ、と茶色の瞳が戸惑い揺れた、その時だ。―――ふ、とようやっとミフェリオの茶色の瞳がアルティカの青色の瞳を見た。ぱち、と幼い二つの瞳が瞬いた。 「………ぼく、は…」  ぐ、と息を呑みこんでから、恐る恐ると言った様子でミフェリオは声を絞り出すように呟いた。必死に言葉を探すように、茶色の瞳が一度床を見るも一呼吸ほどでまた直ぐに顔を上げた。 「ぼく、は…―――ぼくは、アキといっしょに、いたい」  この一年で沢山覚えた言葉の中から探し出し、選んで当てはめたその言葉が、その時のミフェリオの精一杯だった。恐る恐る、と言った様子でミフェリオがアルティカの瞳を見上げながら、少しの不安から僅かばかりに顔を歪めて、小首を傾げた。 「………アキ、ぼくは………アキと、いっしょにいても、いーい?」  その問いの方が、子供達にはぴったりだった。難しい言葉で問うよりも、相手をどうしたいかと問うよりも。もっと簡単で分かりやすく、それでいて幼い子供達が互いと何をしたいかを問う方が、ずっとずっと分かりやすかったのだ。 「―――うんっ、いーよ!」  だからこそ、その時アルティカは満面の笑みでミフェリオの問いに頷いてみせて―――その日は、実によく晴れた日だった。
/161ページ

最初のコメントを投稿しよう!