第一章 揺り籠

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 商業都市アルフネス、第一区画。そこはこの都市において上流階級者が住まう区画であり、その生活水準は外郭と比べると雲泥の差がある。富豪、貴族、商人―――あらゆる手法で強い金の力を手に入れた者のみが住まう事を許される、麗しの都はこの都市の頂点である。その中でも特に強い力と発言力を持つキルスカ家の名を、この都市に住まう者であれば知らない者はいない。元よりルガラントの中でも商人として大きな富と栄誉を築いてきた家系の一つで、全盛期には国家に対して発言力をも有していた。時には政治に関わる事もあったほどであり、国内でも非常に有名な一家だった。しかし、今となってはそれは昔の話だ。今現在、キルスカ家の有する力は当時の半分以下にまで低下している。反国家主義として、国家に反旗を翻した為だ。当時、国家の許を飛び出して西へ向かったキルスカ家の血を引き継ぐ者―――現当主、アレン・フェナルド・キルスカは波乱な人生を送っていると言えよう。是非ともその時の話を聞きたいとは思うものの、彼はあまり自分の話をしない。彼は、自分の事を話す事を好まないのだ。 「おっ、おかえりなさい、アルティカ様!」 「ん、ただいま!」  故に彼の息子である少年、ナオヤ・アルティカ・キルスカもまた父の口から直接昔話を聞いた覚えは一度もない。門を潜って広い庭を歩いた先で一人、アルティカの帰りを待っていたのだろう青年が壁に預けていた背を持ち上げて敬礼した。アルティカよりも八歳ほど年上である彼は、アルティカが子供の時からこの屋敷に仕えている護衛の一人だ。カイル・ウィルオン・トルスカ。彼は決して類まれに見る天の才を持つ者ではないが、それを全て努力でカバーする強者だ。その気さくな性格も相まってか、アルティカとは従兄弟のような感覚にも近い。故に彼に手を振り返したアルティカは他者から見ても親しげだ。否、元々アルティカは誰に対しても分け隔てなく接する者だが―――それも相まってか二人は少々、問題がある。 「今回はどのくらいでした?」 「聞いてくれよウィル、今回は三十分くらいはいけたぞ!」 「おお!なかなかじゃないですか、良かったですね!」  通称、ウィルと呼ばれる青年の問いに、アルティカは何処か少し興奮気味に両拳を握りしめて語って聞かせてみせた。対するウィルオンはそれをまるで自分の事のように、焦茶の前髪の奥で黒い瞳を細めて喜んでみせた。その様子は実に微笑ましい光景に違いはないのだが、しかし。 「やっぱり狙うなら朝だな、ミトは朝弱いもんなー」 「あっはっは!ウチの次期エースの弱点が朝だなんて、誰も思っちゃいねーでしょうね!」 「アルティカ様、ウィル、そこに座れ下さい」  ウィルオンがアルティカを護るべき護衛の立場に有るまじき言動をしているのが、まさに玉に瑕だ。その点を除けば、誰よりも努力家で常に向上心を忘れぬ好青年に違いはないのだが、といつも頭を悩ませている誰かの気持ちが痛いほどに分かる。 「良かったですね、じゃないだろ!今日の早朝担当、ウィルじゃないか!またアルティカ様を甘やかして!」  故にアルティカの専属護衛を任されている少年、ユウマ・ミフェリオ・トルスカはウィルオンに対して声を荒げた。トルスカ家、それは古くからキルスカ家に仕えてきた護衛一家であり、ミフェリオとウィルオンの二人はトルスカ家の人間だ。トルスカ家は全員が彼らのように護衛につくという訳ではなく、キルスカ家の者の身辺を世話する者…即ち、執事やメイドも居る。勿論、庭師や料理人を含めて外部から雇っている者も多いが、それぞれの才に適した仕事を担う事でキルスカ家を支えているのがトルスカ家だ。その中でも、ミフェリオとウィルオンは上位の立場に在る。二人は護衛という域を超えて、執事としても動く事が出来るからだ。トルスカ家の現当主、クリス・テオドール・トルスカに次ぐ優秀な二人は、それぞれ才と努力を評価されその地位を託された。 「いやだって、狙うとすればテオさんが居ない日で、ミフェリオが弱い朝市のタイミングしかねーじゃん。ねえ、アルティカ様?」 「いや本当それな、ウィルお前分かってる~!」  厳密には加えて早朝担当がウィルオンの時、だ。トルスカ家としてキルスカ家を守護する三本柱のうち一本の実態がこれでは、落胆する者も多いだろう。かく言うミフェリオ自身もであり、自分よりも長くキルスカ家に仕えてきた先輩であるはずのウィルオンと主人であるアルティカに頭痛を感じた。 「だからっ、そうじゃないだろ!?お一人で街に行かせるなんて、万一があったらどうするんだよ!」 「? お前がいるから大丈夫だろ?」 「………アルティカ様まで声を揃えて言わないで下さい………」  挙句、止めがこれだ。途端にミフェリオは酷く疲労を感じ、声を荒げるのを止めた。疲れるからだ。そんな人の苦労も露知らず、二人の少年と青年はそれぞれの笑い方で笑うのだから、どうしようもない。 「たまには良いじゃねえか、街の中だったんだしさ。流石に俺だって一人で街の外にまで行こうだなんて思わねえよ」 「…第三区画と比べたら、いっそ街の外の方が安全ですよ。俺が剣を抜かなかっただけ褒めて下さい」 「あー…うん、斬らなかっただけ感心感心、えらいなーミト!よしよし!」 「は?」 「いや褒めろっつったのお前じゃねーか!!」  どっちだよ、とミフェリオの鋭い眼力にアルティカが言うも、この場合悪いはアルティカだろう。一方で阿呆が居たものだ、と名も知らない誰かを哀れんだのは顔を顰めたウィルオンだ。ミフェリオの言葉から誰かがアルティカに対して真剣を振るった、という意図を知ったからだ。だがアルティカのような権力者の子に真剣を振るったなどとなれば普通なら大事だ。特に貴族にもなれば過剰に反応する。それに対して護衛であるミフェリオが真剣を振るわなかった、と言う事は少なくともこの屋敷においては褒められる事だろう。基本的にアルティカは、自らの行動で無駄に護衛の者が他者を斬る、という事を良しとしない。ならば大人しくして居ろ、というのが正論だが。 「それで、今回は何か収穫はありましたか?」 「そりゃ勿論。将来有望な取引先ゲットしてきた」 「流石です、アルティカ様」  それでもアルティカは、自らの足で自らが望む地へ行くことを止めないだろう。何故ならば、彼は商人の息子だから、だ。ピースサインを出しながら笑ったアルティカに、ウィルオンは軽く両の手を叩いた。そう、それはミフェリオがアルティカの許に辿り着いた後の話だ。ミフェリオは瞬く間に三人の酔っ払いを締め上げたものの、その処分はアルティカに一任された結果、あの三人は適当な場所に放られた。 『俺はアルティカ、アルティカ・キルスカ!』  そんな事よりも、とアルティカが女店主であるレナに食いつくように商談を持ちかけたからだ。軽率に自分の名前を言うあたり、昔からまるで変っていない。強いて褒めるとすれば真名を言わなくなっただけマシか。しかしその名は彼が思って居る以上に非常に大きな力を持っている。それは、レナのような人間でさえその名を知っている、という事が何よりの証だった。 『とりあえずこんな場所じゃ売れるもんも売れねーから、まずは第二区画に場所移せ。隅の方でも安値で露店出せる場所はあるから、そこでどうにか資金を溜めてもっとクオリティの高い商品売ってみろ、絶対売れるから!』 『えっあっ…で、でも、私、第二区画への通行許可証、なんて…』  口から心臓が飛び出しそうだと言った様子で口元を押さえながら、震える声で言うレナは何度もアルティカとミフェリオを交互に見た。やれやれと言った様子のミフェリオは、どうやら止める気はないらしい。…というよりも、止めるだけ無駄だと言う事を知っているのだ。 『え?…ああそうか、んじゃぁ…。…そうだな、この三つをくれ。ミト!』 『はいはい…』 『えっ、えっ』  そしてミフェリオにとって彼女は、主人であるアルティカの対話している相手であり、今は害がないと判断しただけの話だ。そう考えている事を知りもしないだろう、アルティカの言葉にミフェリオは歩み寄ってはその場にしゃがみ込んだ。どれですか、と肩を並べて刺繍を見下ろしたミフェリオに対し、アルティカが三点の刺繍を指差した。 『(第二区画への通行許可証の発行手数料と、ある程度の資金…刺繍となると糸と布、は…さほど高くはない)』  が、しかし問題点は通行許可証の発行条件だ。この都市は生活水準、つまり財産の多さで生活区画が決まる。とても財産があるとは思えない成りの女を見て―――どちらにせよ、等価交換とは言えない刺繍を見下ろしてからミフェリオは結論を弾きだす。 『………二十五もあれば十分かと』 『んじゃ、三十だな』  当面の生活の保障も加えてミフェリオなりにかなり大きく見積もったつもりだったが、案の定アルティカは上乗せをした。髪とぼろ布で作られた刺繍に、一般家庭では十年に一度くらいの頻度で買い替えるだろう魔法道具一つ程度の対価を出すつもりらしい。はぁ、と小さく息を吐き出しながらミフェリオは懐を探って巾着袋を引っ張り出す。ジャラ、と鳴った硬貨の音にレナがびくりと肩を震わせた。 『お、流石ミト、用意周到だな』 『言ってないで、左腰に下げてるそれをお渡し下さい。普通は従者に持たせ、買いに行かせるものでしょう』 『馬鹿言うな、俺は商人だぞ。自分の目で直接見て自分の金を払って買う、それが基本だろうが』  万一盗まれてもさほど痛手にはならない金額しか持ち歩いていないのは褒められる事だろうが、そもそもそれが間違いだ。故にミフェリオは巾着袋の口を開いて金貨の枚数を数えながら言うも、それを手渡すつもりはないらしいアルティカに目を眇めた。とは言っても彼が腰から下げて持っている巾着袋の中からでも十分に払えるだろうそれを、ミフェリオに払わせている所を見ると一応気を使ってはいるらしい。三十ほどの価値のある金貨の枚数を手にしたところで、黙ってレナに差し出す。それに当然、彼女は酷く戸惑う。何か裏があるのではと疑っている様子だが、まぁ無理もない。三呼吸程の間を置いてから、恐る恐る、と言った様子でレナは両手を伸ばす。ジャラ、と数枚の金貨がボロボロと掌で転がり、危うく零れそうになったそれをレナは両手で握りしめた。 『ひっ…!?』 『…まさか、これ以上の値上げはないだろ?』  どうやら桁を勘違いしていたらしいレナが、恐怖の声を漏らした。生まれてこの方、これだけの金貨を手にした事が無いと言った様子だ。故に思わずその場に放り捨ててしまいそうになるが、それを押さえるようにミフェリオは指先で彼女の手を支えた。これで値上げなどあり得ないだろう、そもそも等価交換が成立していない取引だ。 『…っ、こ、こんな、に、頂けませ、んっ!こ、こんな物に、き、金貨だなんてっ』 『ほら、あんたまた自分の商品を悪く言った。それが駄目なんだっての』 『で、でも…っ、だ、だってそんな、こん、な…っ!』 『良いから、俺だってただの慈善であんたにこの金を払ってる訳じゃない』  金貨三十枚。今現在の通貨にして、三十万の価値があるそれを今度はアルティカがレナの両手ごと彼女のフードの下に押し込んだ。ミフェリオが三つの刺繍を手に取る代わりに、一枚の布をそこに置いた。受け取った金を包むのに使え、という意図だ。間違っても盗まれぬように、との意味を込めてミフェリオはあたりの気配を探りながら茶色の瞳でレナを見た。 『あんたの作ったこの刺繍が、良いと思ったから俺はこれを買った。それだけの話だ』  見慣れない刺繍にまつわる話も聞けた。娼婦というもっと稼げる道がありながらも、真っ当に生きようとした彼女に出逢えた。同じ商人として、純粋に心揺さぶられた彼女の存在に対価を払った。ただそれだけの話だ。 『で、俺はこの刺繍はちゃんとすれば売れると思った。だからあんたにはこの金を元に、この刺繍をこの都市でもっと売って欲しい』 『………この、刺繍、を………?』 『ああ。んで、売れるようになってきたら是非とも俺ん家と優先的に取引してくれ。良い値で買うし、良い値で他所に売ってやる』  そしてその本質は、商人としての正式な投資だ、と笑って見せたアルティカに不思議とレナは震えていた指先から力が抜けて行った。まずはそこまで這いあがってくることだな、と言いながらアルティカは立ち上がった。合わせてミフェリオも立ち上がり、アルティカの顔を隠すように彼のフードを後ろから優しく持ち上げ被せた。 『早いところ荷物をまとめて第二区画へ行くと良い。門さえ超えてしまえば、最低限の治安は保たれてるからな』 『そう言う事。此処まで這いつくばって生きてきたんだろ、その根性があれば十分商人として通じるからよ』  それに対してアルティカは過保護だなと言った様子でミフェリオを見るも、彼は当然の事だと言わんばかりに目を伏せた。そしてミフェリオは今しがた購入した三つの刺繍を手渡し―――それを口元にあてながら、アルティカは踵を返した。 『待ってるぜ、いつかあんたが俺の取引先になるのを楽しみにしてる』  良き取引先、得意先、そして願わくば良い商売ライバルにまで成ってくれればそれ以上に嬉しい事はない、と。―――その三つの刺繍の内、一つをアルティカはウィルオンに差し出した。ぱち、と驚いたように丸められた目が瞬いた。 「…これが、その刺繍ですか?」 「そ。三角は仕事運のお守りなんだってさ、やるよ」 「あれっ、アルティカ様もしかして俺に真面目に仕事しろって言ってます?」 「ちげーよ、今後も"良い仕事"をしてくれ、って意味だよ」  突然の土産に微苦笑を浮かべながら、ウィルオンはアルティカの意図を読めずに問えば、アルティカは悪戯っぽく笑って見せた。"良い仕事"、つまりはまたタイミングが合えば見逃せ、という意図だ。なるほど、と納得しながらウィルオンは受け取ったそれを見やる。いくらしたのか、と聞くのは野暮だろう。ウィルオンはそれを口元に寄せながら、任せてください、と笑って見せた。 「残りの二つは、どういうお守りで?」 「こっちの四角は家内安全。テオにあげようかと思って」 「ぶっは!アルティカ様、それはちょっとえぐいですよ!」 「間違ってはないだろ、お前らだってあいつの弟みたいなもんだし、あいつトルスカ家の主人と言えばそうだろ?」 「間違ってないですけど、ないですけど…!アルティカ様、流石にそれは…!」  ウィルオンが残る二つを指差しながら問えば、返って来た返答にウィルオンは思わず吹き出した。その話までは聞いていなかったとミフェリオもまた驚きからアルティカを見るも、彼の言う事は間違ってはない…だろう。しかしそれはいくら何でも些か不味いだろうと間違いなく確信犯のアルティカをミフェリオが説得しようとする。 「で、こっちの丸は人運」 「っ、」  言葉を紡ごうとしたミフェリオの唇を、円形の刺繍が軽く撫で塞いだ。瞬きと共に刺繍を見下ろせば、細い指先が見えた。視線だけで指先の持ち主を見上げれば、その顔が面白かったのか。ぷ、とアルティカは小さく笑って見せた。 「お前のこと、いつも俺が連れ回してるからなぁ。悪いとは思ってんだ、今回の事もこれで許せ、ミト」  けれどその後に彼が浮かべた微苦笑はあまりにも切なくて、ぎゅぅ、と心臓が縮まった気がした。人運。それは人間関係に幸運を願うお守りらしい。確かに、ミフェリオは自分でも人脈が広いとは思って居ない。未だに他人との接し方が分からないのだ。アルティカやウィルオンなど、親しい者に対してはそんな事はないのに。それをアルティカは主人として気にしているらしい。自分の護衛であるが故に、殆どの時間を自分の為に使っている。故にミフェリオの広いとは言えない人間関係を心配しているのか、それとも―――そろそろ一つや二つ、女との話でも期待している、のだろうか。 「………ありがとう、ございます」  釣られて微苦笑を浮かべながらそれを受け取った時、僅かに触れ合った指先はすぐに離れてしまった。
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