第一章 揺り籠

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「(我ながら、馬鹿みたいな話だな、とは思ってる)」  誰に言い聞かせる訳でもないのに、ミフェリオはそう心の中で呟いた。ぼんやりと見つめる視線の先には、機嫌の良い主人が居た。幾枚目か、一枚の書類に目を通しては悩むような素振りを見せ、ペンを走らせていく。時折、細い指先がペンを回す。彼が考え事をする時の癖だ。くるくると幾週か回してから、どうするかを決めたらしい彼は今にも鼻歌を歌い始めそうだ。 「…ミト、お前今日は非番だろ?」 「はい」 「いや、だったら部屋で休んでろよ。流石に一日に二度も屋敷抜け出したりしねーって」  ふ、とミフェリオの視線に気付いたのか顔を上げたアルティカから、思わずそっと目を伏せる事で視線を逸らしてしまった。自分が考えている事を知られたくなかった、のだろう。声だけで分かる、今彼は何処か少し困ったような、申し訳なさそうな顔をしている。その気遣いが、素直に嬉しいと思う。そう、決して嬉しくないはずがないのだ。彼の気遣いは、いつも優しくて温かい。 「二度ある事は三度あると言いますから」 「いや、今日は一度しかねーよ」 「今日"は"ってなんですか、おい」  思わず顔を上げて言えば、アルティカの青色の瞳と目が合う。ふは、と鋭い突っ込みに彼が笑う。その笑みが、何よりの幸せだ。たったそれだけで、こんなにも幸せな気持ちになる。堪らず釣られて、口元が緩んだ。 「へーきだって、何かあった時はちゃんとお前の事呼ぶからさ」 「………非番なんで、俺が勝手に此処に居るだけです」 「………なるほど?」  もう少し有意義な休日の使い方は出来ないのか、との問いにこれ以上ない有意義な使い方だろう、と言ってやる。確かに護衛としては鑑のような使い方だが、とミフェリオの言葉にアルティカは乾いた苦笑を浮かべた。そもそも非番の朝に仕事を増やしたのは誰だと言えば、違いないと彼はまた笑っては、くる、とペンを二回転させた。 「よし、じゃぁミト、こっち来て座れ」 「? 何か?」 「非番なのに立ちっぱなしじゃ何時もと変わらねーじゃん。非番なら非番らしくしろって」  なるほど、と彼の意図を知ってミフェリオはつい一度扉の向こう側を気にして、そちらを一瞥する。それに対して名を呼ばれれば、分かったから、と微苦笑を浮かべた。少し戸惑った足は、一歩踏み出してしまえばあっという間だった。アルティカの許に歩み寄れば、彼は書類置きにしていた椅子をあけてそこに彼を促す。腰を下ろせば、ふわ、と彼の香りがした。 「…あれ…この取引先、見た事ない」 「ん。………ああ、申請来たばっかのトコだな」  ふ、と彼が退けた書類の一枚に気付く。また新しい契約の申請書らしい正式な書類には、見覚えのないサインと調印がされている。見ても良いかと問えば、ご自由に、と言った様子でアルティカは肩をすくめて見せた。見覚えのない街名だが、記されていた地名から大まかな位置を特定する。 「………!アルティカ様、これ」 「うおーい、非番ー?」  問おうとしたところで、違う方面からのストップがかかった。何処か不満そうな顔がミフェリオを見やり、理解するのに一呼吸程かかった。またそんな細かいところで、という本音を飲み込んだ。…いいや、彼にとっても自分にとっても、それは決して細かいところ、ではない。 「………アキ、此処また随分と東寄りじゃんか。まさか此処までお前が行く、なんてこと無いよな?」 「いやあるだろ、現地に行かねーと品質も何も見れねーし」  真名を呼ぶのを禁じられ、二人で考えた彼の愛称さえ、二人の時以外はすっかり呼ぶことが無くなってしまった。東、即ち国家主義を掲げている地域の間近だ。反国家主義を掲げている者が行くにはあまりにも危険だろう。故に問うものの、即答したアルティカの言葉にミフェリオは一度言葉を失くす。いや、分かっていた事だけれど。 「…俺が代わりに見てくるから、アキは大人しく」 「してる訳ねーだろ、何言ってんだ、お前?」 「………うん、知ってた………」  次の書類を手にしながら当然のように言ったアルティカに、ミフェリオは盛大なため息を吐いて肩を落とした。アルティカにとってはあまりにも当然の事を言うものだから、逆にミフェリオが心配になったらしい。熱でもあるのかと真顔で問いながら額に触れてくる程であり、しかしむしろ彼の指先の方が温かかった。 「現地を見なきゃ話にならねえんだもんよ。まずは何より、そこで働いてる人を見ねえと」  熱なんかない、とその指先を軽く押し退ければ、なら良いのだと彼は笑って指先を離した。しかし姿勢を戻した彼は、酷く真剣な顔でそう言った。そう、彼は決して商品の品質が良ければ良い、とは言わない。例えば何かを作っている所ならば、その商品を直接作っている者―――即ち、従業員を見る。勿論、原材料などの品質も見るがアルティカが最重要視しているのは何よりも人の質だ。そこで働き、商品を生産する人の質が良くなければ、どれだけ頑張っても良い商品は生まれないと考えているからだ。無理をさせて良い商品を生産させても、アルティカはそれに対して一切の対価を払わないだろう。アルティカは商品のその先に、必ずその商品に携わった人の質を見る。そしてアルティカもまた、自分の人としての質を見せる。故に彼は屋敷に籠って従者に視察を任せる、という事を絶対にしないのだ。彼が商人として評価される理由の一つだ。そんな彼を多くの者は父親似だという。違いない、彼は父親にとてもよく似ている。それは自分も常々思って居る事だ。 「そのうち正式な日程も決まるから、その時は頼むな、ミト」 「ん…分かった」  そんな彼の護衛として従者で在れる事に、ミフェリオは幸せを感じている。その感情がなんと総称されるのか、知っている。だからこそミフェリオはその感情を隠すように、そっと書類を元に戻しながら頷いた。  ―――それから、どれだけの時間が経っただろうか。いつもの事ながら、他愛のない話は絶えなかった。と言ってもアルティカが話し手、ミフェリオが聞き手、が基本的な形だ。商人として彼方此方に行くアルティカは、話題のネタが尽きない。対してミフェリオもアルティカが行くところには殆ど全てと言っても過言ではないくらいに同行しているが、あまり口数が多いとは言えない。いや、アルティカと比べれば誰もが口数が少ないの部類になると言ってもいいのかもしれない。それ程にアルティカは人と話すのが好きだ。それが他の商人から羨まれる素晴らしい話術による交渉技術に直結しているのだろう。アルティカと話すと、彼がどれだけ話術に優れているかがよく分かる。いつの間にか彼の話に耳を傾け、夢中になってしまうのだ。特にミフェリオは共に行動している事が多いからか、アルティカも非常に話しやすいはずだ。どんな話題を振っても、大体通じるのだ。あの時は、と話を振れば、その時は、とリズムよく返事が返ってくる。非常にリズムよく会話が成立し、いつしかミフェリオもアルティカに釣られて口数が増えて行く。  あまり彼の事を知らない使用人がその時のミフェリオを見れば、驚くだろうに。しかし話題の数だけ、彼らが共に刻んできた記憶があるという事だ。年にして互いに十七、世間の大人はまだまだ子供だというだろう。違いない、と本人たちもそう思う。されど、十七だ。二人の少年が出会ってから十年近くの月日が流れている。その十年の間に起きた出来事を一つ一つ、話題にして確認し合えば決して軽くはなく、浅くもない。二人の少年にとっては重く深く、そして何よりも大切な記憶で在り、思い出だ。特に、幼い頃の記憶が殆どない二人にとっては重要な事だ。時刻にして、そろそろ昼食の時間か。折角のミフェリオの非番だ、たまには一緒にご飯でもと考えたアルティカの思考を、部屋に響いたノック音が遮った。 『アルティカ様、ウィルオンです』 「ウィル?いいぞ」 「失礼します。急ぎの手紙をお持ち致しました」  無意識だろう反射的に剣の柄を掴み目を細めたミフェリオに対し、アルティカは何とも気楽なものだった。いくら屋敷の中と言えど危機感が無さ過ぎだろうと言おうとするも、無駄かと諦めることにした。部屋の外に誰かが来た事には気付いていたが、ウィルオンが扉を叩いたという事は託されたそれをアルティカに届ける事を許したという事だろう。 「手紙?誰からだ?」 「旦那様からです」 「えっ、親父から?」  意外な差出人の名に、アルティカが思わず座っていた椅子から立ち上がる。しかしウィルオンは本人に手渡す前に、同じように素早く立ち上がっては距離を縮めてきたミフェリオにそれを託す。茶色の瞳が受け取った手紙を鋭く審判するように見下ろし、裏側までしっかりと調べる。二呼吸ほどして、偽物でないと判断する。 「…確かに、旦那様の調印です。どうぞ、アルティカ様」 「んでミフェリオ、こっちは俺等にテオさんから」 「え?」  一体この手紙は何回の審判を受けてきたのだろう、手紙からしてみればようやっとアルティカの手元に届いた、と言ったところか。手紙に魔術を込める事も決して不可能ではないし、むしろ少し魔法を発展させ魔術に転換する事が出来る者であれば安易な方だ。故にミフェリオは手紙と言った類の最終審判も任されており―――続いたウィルオンの言葉に、思わず目を丸めた。カサ、と軽い音を立ててウィルオンはもう一通の手紙を取り出しては、また審判を頼むと言った様子でミフェリオに手渡す。託されたそれもまたミフェリオが間違いなく本人からのものである事を確認するも、珍しい差出人にアルティカとミフェリオは顔を見合わせた。何事かと視線で会話しても、見てみないと分からない。先に封を切ったのはアルティカであり、続けてミフェリオもまた封を切った。  それぞれ三枚ほどの手紙が入っており、アルティカは再び椅子に腰を下ろしながら、ミフェリオとウィルオンは肩を並べながら目を通す。三人の中で最も早く手紙を読み終えたのはミフェリオであり、これは、と僅かに息を呑みこんではアルティカを見た。先に読み終えたミフェリオの手から、ウィルオンが訝しげに目を眇めながら手紙を抜き取る。手紙の内容が、些か信じられないからだ。次いでウィルオンが読み終え、二人の従者の視線が主人であるアルティカに集う。青色の瞳はその手紙を、三回は確認したらしい。ゆっくりと時間をかけて確認したそれを、小さく息を吐き出しながら自分の中で整える。無意識か、彼の指先はペンを取った。返事を書くわけではないだろう、くる、と彼の指先はペンを回す。彼が考え事をする時の癖、だ。 「………"揺り籠"、ねえ………」  三回ほどペンが回った時、アルティカがぽつりと呟いた。商業用語の隠語の一つだ。その隠語ほど、アルティカが嫌う隠語はない。故に"それ"が関わる商売は、例えどんな得な話があってもアルティカは絶対に動かない。しかし今一度、見下ろした手紙を持ち上げては、また机に下ろす。実の父親が、急ぎで自分に手紙を送るほどだ。彼はまだ戻ってこれない様子で―――否、急ぎ戻るとの事だが、間違いなく間に合わない。くる、と回したペンを置いてからアルティカは後ろ髪を掻いた。彼の中で結論が出たらしい。 「…ウィル、とりあえず何処から流れて来てるのか調べてくれ」 「分かりました。いつもの"夢路"で?」  問えばもちろん、と言った様子でアルティカが肩をすくめて見せた瞬間、ウィルオンは音もなくその場から姿を消した。これが魔法でもなければ法術でもない、純粋な彼の脚力によるものなのだから恐ろしいものだ。パタン、と少し遅れて扉が閉まったのが何よりの証だ。相変わらず目で追えない、とミフェリオが目を細めた。 「ミト、お前はウィルが情報を持ち帰り次第、俺と一緒に動くぞ。少しでも怪しいと思ったら斬れ、俺が許す」 「はい」 「ただし、商品には極力傷をつけるな。止むを得ない場合は無理しなくていい、お前自身の身があってこそだ」 「…はい」  アルティカの命令を肝に銘じながら、ミフェリオは内心でため息を吐いた。折角の非番が、台無しだ。しかしそう思って居るのはきっと、アルティカの方だろう。見やれば、青色の瞳は酷く歪んでいた。怒り、悔しさ、悲しみ。その三つの感情が入り交じる事で、今にも割れそうな程の瞳はミフェリオの胸にさえ痛みを残す。 「ミト。お前は、どう考える?」  問いの意図が、一瞬分からずに間を挟む。彼の指先は、今度はペンではなく手紙の入っていた封筒を回した。釣られるようにミフェリオはテオドールからの手紙を見下ろそうとして、ウィルに託したままだという事に気付く。故に一度迷子になった視線をアルティカの持つ手紙へと戻しながら、一度読んで記憶した文面を思い出し、更に問いの意味を改めて確認する。 「…―――…舐められてるな。旦那様とテオさんが不在故に、今のキルスカ家とトルスカ家による牽制は甘い、と」 「だよなぁ……―――…上等じゃねえか、あの腰抜け野郎。俺が売られた喧嘩を買わないような、大人しいお坊ちゃんな訳ねえだろ?」  ご尤も、と主人の言葉に護衛はそっと目を伏せた。
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