第一章 揺り籠

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 ガタガタと揺れる檻が何処へ向かっているかなんて事は、なんとなく分かっていた。この先に幸せな未来がある、なんて嘘だ。もし本当にこの先に幸せがあるならば、同じ檻に居る人たちはもっと幸せそうな顔をする。この先に在る幸せに、心を躍らせる。皆、この先の幸せを、夢を、希望を語り合っているはずだ。しかし顔を上げても、そんな人は一人もいない。居る訳がない。首輪、腕輪、足枷。自由を奪うそれは、どう考えたって幸せの象徴な訳がない。考えながら、自分の両手両足を見る。酷く重たいそれは、自力で千切るのはとても無理だ。皆、その瞳に絶望を浮かべていた。―――売られたのだ。自分を含め、この檻に居る人は全員。いや、売られたと言うのはまだ少し違うか。厳密に言えば売られに行く、だ。分かりながらも、何も出来やしない。逃げる事も、抗う事も。それだけの体力も気力もないのだ。最後にまともな食物を口にしたのは何時だったろうか、覚えてない。お腹が空いた、とまた膝を抱えて目元を埋めた。全てを拒絶するように、全てを諦めるように。 「("ゆりかご"、っておじさんたちが言ってた)」  揺り籠。本来であれば幼児をあやしたり、安眠を誘う為に使われる物だ。そこに収まって眠っても良いという事ならば、もしかしたらそれは幸せな未来、なのかもしれない。訪れもしない幸せを夢見ながら、一人の幼い少年は全てを放棄するように意識を手放した。  ふ、とウィルオンの黒い瞳が街の北東を一瞥した。それにミフェリオが気付き、少し遅れてアルティカもまた気付く。 「もう二台来ましたね、"夢"で見た通りです」 「流石、あの"夢路"は良い仕事してくれるな」  その分、報酬は弾まないと動いてくれない現金な連中だが、とアルティカは小さく肩をすくめた。"夢路"、即ち"情報屋"で得た"夢"…情報通り、という意味だ。隠語とは言え、この隠語は少しその道をかじっている者であれば誰でも知っている。故に声を潜めながら言葉を交わせば、あの"夢路"は昔から旦那様の良き取引相手ですから、とウィルオンが笑う。いつかは自分も父を見習って、情報屋や盗賊ギルドの一つや二つと良い取引相手として関係を築きたいとは思う。が、暗部で動くギルドを取引相手として契約を結ぶことほど難しい商談はない。彼らはたった一枚の硬貨の差で裏切りもするからだ。実際、常連だとか得意先だとかは彼らには関係ない。信頼や信用さえ、彼らは金次第で売買するのだ。この国で買えないものはなく、売れないものもない。金の力が全てであるルガラントにおいてその存在は、この国の象徴とも呼べるかもしれない。故に、相応の金さえ払えばキッチリと応えてくれるという義理高い面は天下一品と言える。リスクはあるものの、得るものも大きい。父曰く、彼らは適度で適切な使い方が重要だと言う。まさにその言葉通りだろう、彼らを頼り切っていたらいつか必ず痛い目を見る。だが、今の時代を彼らを頼らずして切り抜けられる情報社会でもない。故に適度に、そして適切な使い方をすべきだ。父の許で商業を学べば学ぶほど、幼い頃は理解出来なかった言葉が一つずつ分かってくる。そうだろう、と脳裏で笑う父に気付かぬふりをしながら、アルティカは左隣を歩くウィルオンを見た。 「なんだウィル、一昨日から随分とご機嫌じゃないか」 「あ、分かります?いやぁ、なんだかうずうずしてきちゃいまして」  一昨日、手紙を受け取ってから彼はずっとこの調子だ。後ろ髪を掻いて笑う彼に、普通ならアルティカも釣られて笑う所だ。しかし流石に今回ばかりは乾いた微苦笑が浮かんだ。彼の悪い癖が出てきた、とアルティカが横目でウィルオンを見た。 「相変わらずだな、お前…」 「人間、そう簡単に根本は変わりませんよ。俺も下賤として生まれ育ってきたものですから、こういう血生臭い泥みたいな街は血が騒ぐんです」  今でこそ更生されましたが、と語るウィルオンは元々トルスカ家とは全く関係のない人間だった。その事をアルティカとミフェリオが理解出来たのは、自分達で思っている以上に最近の事なのかもしれない。悪い事なら任せてください、との言葉は頼もしいような、そうじゃないような―――複雑な気持ちになりながら、改めて街を見渡す。ルガラント北西部、ヘブリッジ。アルフネスより北西へ馬車を一日走らせた位置に、その街は存在する。アルフネスには劣るものの、この街もまた毎日が商業で賑わう街だ。しかし、売買される商品には大きな差がある。ふ、と横目で立ち並ぶ露店を盗み見る。アルフネスならば旬の果実や野菜が並ぶだろうそこに、何かの一部を抉り抜いたかのような何かが見えた。 「本当、この街はいい趣味してますね~」 「全くだな。俺にはさっぱり理解出来ねーよ…」  収集家、いわゆるコレクターと言った部類が好む商品が立ち並ぶこの街は、少なくともアルティカは必要が無ければ来たくない街だ。見なければ良かった、とアルティカは被っていたフードを深く被りなおした。普通の精神を持つ者であれば、見ていて気持ちの良い光景ではないはずだ。一応、表面上では反国家主義を掲げているヘブリッジだが、見ての通り随分と際どい立ち位置に在る街であると有名だ。まだこの国の全土が国家主義だった時は、人体収集家などが常連だった街だ。当時に比べれば随分とそう言った類の商品は減っただろう。しかし、それでも反国家主義が敷いた法を潜り抜けた違法品が流れて来ている街の一つである事は言うまでもない。星の数ほどの人間が居るのだ、その数だけそれぞれの趣味や嗜好があっても良いとは思う。故にアルティカはそれを否定する気はない。 「………何が"揺り籠"だ。この世の全てのものが、金で買えて堪るかよ」  "揺り籠"、それは即ち"奴隷"を意味する隠語だ。そう、アルティカは人身売買だけは到底受け入れられない。反吐が出る、とフードの下で酷く顔を歪めたアルティカは、少なくとも通常の精神を持つ者であると言えよう。こんな街が法力国家であるシュレリッツに存在してみろ、間違いなく一日と経たず神の雷とやらに裁かれる。一方で魔法国家フォルテラとは多くの取引が成されているだろう事は、誰が言わずとも目に浮かぶ。そう、この街は実に"際どい位置"に在る街だ。反国家主義で禁じている商品があれば、国家主義で禁じている商品もある。いわゆる他国の"グレーゾーン"さえをも抱えている街だ。なんでも手に入るこの街が成立しているのは、それだけ多くの者達に支えられていると言う事だ。下手にそれらを取り除こうと入り口を叩けば、一体何が出てくるか分かったものじゃない。まさにそれは、この国に根付いた闇と言えるだろう。その闇はどれだけ力のある者だとしても手を出せない程に深く、濃い。この街をどうにか出来るとすれば、それこそ以前まで一つだけの思想を掲げていた国の力だけだ。そうなれば確実に戦乱が起きただろうが。また、当たり前な話だがアルティカ等のような反国家主義を掲げる者達はこの街に出入りするような者達には嫌われている。彼らはこの街が良しとする嗜好品を良しとしないのだから、一歩間違えればこちらの命を安値で売るはめになっても可笑しくない。混沌としたこの街は、情報屋や盗賊ギルドと似ている部分がある。金の力が全てなのだ。硬貨一枚の差で、天地に分かれる。 「………ミト、大丈夫か?」 「はい、今の所は危険はなにも」 「…いや、そうじゃなくてだな」  故に護衛である二人の内、特にミフェリオがいつも以上に気を張り詰めているのは当然の事だった。ずっと沈黙を守ったままの彼の名を呼ぶも、ミフェリオは周囲を鋭く警戒したまま答えるのだからアルティカは指先で頬を掻いた。そこでやっとミフェリオはアルティカを見やり、何事かと目を丸めてから一呼吸。ああ、とやっとその意味を理解したらしい。 「俺は大丈夫です。アルティカ様の精神衛生上、酷くよろしくない街なので一刻も早くお帰りになって欲しいところですが」 「あー…うん、そうだな、お前意外とメンタルつえーもんな…?」 「(強いっつーか、なぁ…)」  ずっと黙っているから心配したが、要らぬ杞憂だったらしい。故にアルティカが微苦笑を浮かべる一方、ウィルオンは目を眇めた。ミフェリオはどちらかと言えば、並ぶ商品に対して"何も感じていない"と言うのが正しいのだろう。護衛としては主人であるアルティカを護る事だけに集中していると言えばそうだが、その根本が少し違う事をウィルオンは知っている。 「(人間、根本はそう簡単には変わらない、ってな。…悪い奴じゃないんだけど、こればっかりはなー…)」  こういった類の場に来ていちいち精神を揺さぶられては護衛としての務めを果たせるか不安になるし、かと言って―――考えて、止めた。それが良い事なのか悪い事なのか、自分には分からないし分かりたいとも思わない。そう自分の中で結論を出したからだ。どちらにせよ、今のミフェリオは護衛として正しい在り方をしている。それだけで十分だ、とその時のウィルオンは思ったのだ。  "揺り籠"市場は、総じて会場が分かり辛い所に在る。一応は反国家主義の管轄にある街である事を自覚はしているらしい。酷く面倒な経由を経て、アルティカはついにその門を潜った。入場許可証は勿論、ウィルオンが"夢路"から入手した偽造品だ。あの短時間でよく手に入れたな、と流石にミフェリオもウィルオンを見やれば彼は後の請求書は任せました、との事だ。後の請求書は正直に言って見たくないが、それでも手に入ったのは彼の腕があってこそだろう。敵に回したくない人材だ、と味方として在る今でさえ痛感する。そんな事を考えながら、アルティカは一人その会場に踏み込んだ。例えどんな地位に在る者でも、護衛を付けて会場に入る事は赦されない。郷に入っては郷に従え、だ。ス、と深くフードを被った受付らしい人物に一本のペンを差し出された。一応自分のペンは持ってきたが、そこまで徹底するらしい。黙ってそれに従うしかないだろう、何を言う訳でもなくペンを受け取れば男か女かも分からない受け付けはそっと頭を下げた。そして会場を見渡せば、ぴり、と感じた空気は痛いほどに張り詰めていた。それに負けぬよう、ぐ、と奥歯を噛みしめた。 「(…やっぱり、封印入札方式か)」  会場いっぱいに広がる檻の前に設置されているのは、簡素な机とその上に置かれた封筒だけだ。案の定、オークション形式だ。で無ければ全員を買い占める、なんてことはどんな大富豪でも酷く難しい。競売形式でなければ、言ってしまえば早い者勝ちになってしまうからだ。その売り方は、買い手にとっても売り手にとっても損が大きい。早い者勝ちに譲るよりも、時間をかけて待つ事でより高い値段で買う手を待つ方が売り手だって得をする。それでいて、"揺り籠"と言った類はほぼ絶対的に封印入札方式―――買い手が相互に提示価格を知ることが出来ない方式を取る。ふ、と少し離れた場所で誰かが一つの封筒を手にしては、その重さを感覚で量る。入札者の数を、封筒に入っている紙の重量で調べているのだ。重ければ重い程、入札者…即ち買い手のライバルが多いと言う事だ。場合によってはその事を考えて想定以上の金を払わねばならない。全ての出費は父が出してくれる―――自分にはまだ、到底出せない額になる事は分かりきっている―――故に、気が楽と思いきやそうでもない。自分は父の頼みで、父の代わりにこの場に来たのだ。何も気にせず、最初から高値で全て落としていけばいい。 「(目的は、この会場の全ての"揺り籠"を買う事)」  だがそんな落とし方をしてみろ、いくらなんでも流石に痛手と言わざるを得ない金額に膨れ上がる事は分かりきっている事だ。まさかそんな訳はないだろうと分かりながらも、アルティカは受付に問う様に二本の指を立てた。少しの間を置いて、受付は首を横に振るってから人差し指を立てた。ち、と口の中で極小さな舌打ちをしながら指先で礼を述べた。 「(くそ、やっぱりファーストか。裏の競売にセカンドなんて生易しい競売はねえか)」  表だろうが裏だろうが、商売は商売だ。売り手は何よりも高く売る事を望んでいる、買い手の事など知った事じゃない。セカンドプライス・オークションならば本当に何の気兼ねなく桁違いの値段を適当に書いて行けばいい話だが、そう甘くはない。まず最初に品定めの時点で"揺り籠"の価値を見誤ってはいけない事は勿論、過剰な支払いも抑えるためには更に厳しい心理戦となる。金の力が全ての国だ、だがその力はただ単純に力任せに振るえば良いと言う訳ではない。剣や魔法、法術と違って強ければ良いと言う話じゃないのだ。金の力は、振るえば振るうほど力が弱まる。そして失った力を取り戻すには、また相応の時間と努力が求められる。鍛冶屋に打ち直して貰えば直る剣や、寝れば治る魔力や法力と違う。 「(交渉技術なんてものも通じない。此処は正真正銘、金の力だけが通じる戦場!)」  例えるのであればそこは、この世で最も静かでありながら厳しい戦場である。  ぽす、とついにフード越しにミフェリオの赤髪を軽く叩いたのは、言うまでもなくウィルオンだった。突然の衝撃に何事かと瞬き目を丸めたミフェリオが、肩越しにウィルオンを振り返り見ると彼はその視線から逃げるように目を逸らした。何事もなかったように手も引っ込め、ほぼ意味はないだろうが飽くまで無関係者同士である事を装う。何処から誰に見られているか分かったものではないからだ。 「そわそわしすぎだ、落ち着け」  ウィルオンが極僅かに口の中でそう囁けば、ミフェリオは辛うじてそれを聞き取った。落ち着いているつもり、だったのだが。いや傍から見ればミフェリオは酷く静かに冷静だ。それでも尚、ウィルオンはミフェリオが放つ極僅かな殺気にも近いそれを察知したのだ。無理もない、ミフェリオはアルティカの専属護衛だ。何よりも誰よりも彼を護る事を命じられている身である彼が、こんな地で別行動を余儀なくされたのだから。ぐ、とウィルオンの指摘にミフェリオはそれらを堪え飲み込むも、どうしても極僅かに感じられるそれは消えそうにない。外でどれだけ胸糞の悪い商品を見ても一切揺れる事のなかったミフェリオは、周囲が思っている以上に分かりやすい。 「(…駄目だな、アルティカ様の事になると直ぐこれだ)」  これは後にトルスカ家の当主と要相談だ。その気持ちはウィルオンも痛いほど分かる。だがそれでも、流石にこれは致命的だ。幸い、直ぐ近くに居る自分くらいしかその気配には気付いていない様子だが、下手に周囲の者を刺激すれば面倒事に直結する。いいや面倒事だけじゃない、下手をすればキルスカ家の評価にさえ繋がる。その事をミフェリオだって分かっているはずだ。故にフードの下で握られている両手は硬く強く握りしめられている。剣の柄を掴まぬよう、自制しているのだ。この場で待て。それが主人であるアルティカからの命令だ。それが無ければミフェリオはこの場で待つだなんて絶対にしない。それはウィルオンも同じ事だが、こればかりは従うしかない。下手な事をすれば直ぐに会場から放り出される。 「(旦那様とテオさんなら…と考えてしまうのは二人に対して無礼極まりない事、だな)」  次期エースとなる二人にとっては、良い勉強の場だとは思うが流石にスリル満点だとも思う。二度あって欲しい事ではないな、と内心でため息を吐く。ミフェリオに感化されてきたか、ウィルオンは自分まで落ち着かなくなってきた。それを鎮める為にウィルオンは目を伏せ、たっぷり三呼吸程してから目を開く。それだけで十分だ。 「(…しかし、それにしたってここ最近この国は不穏な空気が漂ってるな)」  それでもチラつく胸騒ぎに、ウィルオンは一人フードの下で腕を組んでは思考する。意味もなく右から左へと視線を滑らせ、辺りを見渡すがそこからこの国の背景など見えてくるわけがない。 「(手紙を見る限り、今回の"揺り籠"には旦那様とテオさんでさえ気付いたのは本当につい先日の話だったんだろう)」  情報収集の腕には自信のある自分だって、手紙を受け取ってから確認してやっと掴んだ情報だ。しかしこれまで一度でも自分達が此処まで後手に回った事はない。そう、ただの一度だってない。 「(旦那様は"揺り籠"に関しては徹底している。必ず調べ上げてご自身の足で競売に向かわれる方だ。今回だって、本当なら…)」  いつかは一つの商売である事を学ばせるために、アルティカを連れて来ただろう。だが、まだ時期尚早だ。いきなり一人で向かわせるなど、恐らく彼の父自身でさえ想定外だったと読んでいい。気になる点と言えば、もう一つ。 「("揺り籠"が流れて来る回数が以前に増して急増している。いくら旦那様でも、保護しきれてない"揺り籠"が多い)」  最たる問題は、保護しきれなかった"揺り籠"が更に此処から何処に流れて行っているかが分からない点だ。国内か、それとも国外か。せめてそれだけでも追えれば良いのだが、そう簡単に足取りを追える品ではない。―――嫌な空気だ、とウィルオンは未来など見えぬ虚空を見つめながら、そっと心を静めるように目を伏せた。今はただ主人である少年が無事に帰ってくることを願う事に集中しようと思考を切り替えたところで、未だに落ち着かないミフェリオに小さく肩をすくめた。
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