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2.仮面のわけ
眩しい。そう感じて薄目を開けると、カーテンの隙間から日が差し込んできていた。
ホテルの部屋にたどり着くなり潜り込んだ、ベッドの頭に埋め込まれた時計は九時。三時間ほど寝たらしい。くせ毛をかきながら、枕元に投げ出してあったスマホを手に取る。予想通り、轍人からの鬼のような着信が残されていた。
恐る恐る折り返しを押す。と、ワンコールもしないうちに『連絡は常につくようにしとけつっただろこのボケ!』と、キレキレの罵倒が数百キロを超えて飛来した。
反射でスピーカーホンにして、自身は再びベッドに仰向けになる。
「ごめん、寝ちゃってた……」
いろいろな意味で。
まだ微かに残る体の火照りが罪悪感を煽って、百樹はうつろに天井を見つめた。
「ごめんね、轍っちゃん。俺、いつも迷惑ばっかかけちゃって……」
『……いや、まあ、反省してるならいいんだよ。ただおまえをこの世界に引っ張り込んだのは俺だから、責任があるっつーか……』
声の調子が落ちる。百樹は苦笑した。口こそ悪いがこの叔父は、なんだかんだ身内に甘い。
「うん。感謝してる。……轍っちゃんいなかったら俺、路頭に迷ってたもん」
本心だった。
百樹の母はフラワーコーディネーター、テーブルコーディネーター、その他諸々のコーディネーターだった。美しい容姿も相まって、本を出せば都心の書店でサイン会が催されるような。
母の生家の李木家は、いくつもの会社を経営する資産家だ。だからこそそんな少女の夢をそのまま形にしたような生き方が許されたのだろう。
そんな彼女の人生の中で、唯一きらきらしていないのが前夫、つまり百樹の父との結婚だった。
ミュージシャンだったかプロデューサーだったか、はたまた自称画家だったか。とにかくその男と百樹は一度も会ったことがない。美しくない過去に母は完全に蓋をして、どこかにしまい込んでしまった。だから百樹は父親が誰なのか知らない。
百樹を「天使」と最初に呼んだのは彼女だ。
美しくない過去の置き土産であった百樹だが、幸い、母は百樹を愛してくれた。……新しい恋人ができるまでは。
あれは確か、五歳のクリスマスイヴのことだ。一ヶ月も前からツリーだリースだアドベントカレンダーだと飾り付けられた美しい家で、母は百樹に向かって言った。両肩に華奢な指先を置いてこちらを覗き込むとき、百樹とはまるで似ていない真っ直ぐな長い髪が、さらりと落ちかかってきたのを覚えている。
彼女は百樹の頬を両手でそっと挟み込むと、顔を覗き込んだ。
『百樹、今日は一人でお留守番できるわよね? 百樹はしっかりしてるから、大丈夫よね?』
百樹は幼いまぶたをぱちぱちさせた。だって母がこんなに部屋を美しく飾り立てたのは、てっきり自分のため、自分とクリスマスを過ごすためだと思っていたからだ。
でも違った。
勘違いしていた己への羞恥。そして「なんで?」という憤りみたいなもの。
なんでなんでなんで?
だけどやっぱり一番強いのは「淋しい」だ。
喉がぐっと詰まって、目頭が熱くなる。
どうして?
涙と言葉が同時にせり上がったとき、真っ直ぐな髪を何度も耳にかけ直す母のその向こうに、スーツを着た大人の男の人が立っているのが見えた。
いつも以上にやさしく微笑みかける姿と甘ったるい声音。さっきから違和感があったわけに、幼い頭も気がついた。それは全部自分のためじゃなく、この男の人に見せるため。この男の人に聞かせるため。
その瞬間悟った。
選択肢なんてないのだと。
百樹はこくっと頷いて、そうして、人生で最初の仮面を被った。
『――うん、ぼく、だいじょぶ!』
いくつになっても未だ夢の中に暮らしているような母とその息子のことを、叔父である轍人はずっと気にかけていてくれたらしい。
自身が芸能事務所に勤めて数年、百樹が十六歳になったとき、ちょうど持ち上がった男性アイドルユニットの企画があると声をかけてくれ、百樹はそれに飛びついた。
芸能界に興味があったわけではない。事務所が寮を持っていたからだ。
そうして百樹は家を出た。
学校が終わると深夜まで。土日ともなれば朝から晩までのレッスン。そんな生活に音を上げる仲間もいたが、百樹にはさほどの苦労でもなかった。求められることに応じるのは楽しい。それを喜んでもらえれば嬉しい。
そうして歌もダンスも万全の仕上がりでデビューしたのだが、これがぱっとしなかった。
なにしろきょうびのアイドルには、喋りも必要。キャラクター性が大事だ。
求められれば応じることは得意な百樹だが、自分から独自のものを発信するのは不得手だった。ひととおり努力でなんでもできたが、突出する「ウリ」は見つけられなかった。
百樹も他のメンバーもそれを見つけられないまま、グループは解散する。活動期間はわずか一年だった。
その後轍人が持ってきたのが舞台の仕事だった。経験ゼロから飛び込むのはもちろん怖かったが、轍人の気持ちに応えたい一心でオーディションに臨んだ。美しく飾り付けられた空疎な家に帰りたくはなかった。
そしたらこれが大当たり。
原作の魅力を損ねないことを求められる世界で、百樹の仮面を被る能力は、思いがけず花開いたのである。まさに捨てる神あれば拾う神あり。母親に愛されなかった代わり、どうやら芝居の神様には愛してもらえたらしい。
ゲイなので、女の子のファンを喰ったりもしなければ、SNSの匂わせ投稿から大炎上なんて心配もない。そもそも発信したいことがないから、SNSはそのとき関わった舞台の写真を淡々と載せる程度だ。「おまえはいい商品だ」と事務所の社長に言われたときは、心底嬉しかった。
ここには、俺の居場所がある。
『……なあ、もし辞めたくなったら、いつでも辞めていいんだぞ』
「え、俺、いらない?」
思わず寝返りを打って、そこに叔父がいるかのようにスマホに顔を近づけてしまう。
『そうじゃなくて、おまえが本当によく考えて始めた仕事でもないだろ。まだ子供だったし……』
「俺、ちゃんと考えたよ? 俺、評判悪い? 俺の商品価値終了のお知らせ?」
『そうじゃねえよ。原作者さんにも、舞台監督さんにも――カンパニーのみんなにだって「原作から抜け出たキャラがそこにいるみたい」って大評判だった』
「だよね? だって俺それしかできないし。俺、どんなだって求められるキャラになれるよ!」
スマホの向こうに、沈黙が落ちる。
『そういうとこが心配だって言ってんだろうが。……まあいい、電話で話すことでもない。続きはこっちに戻ってからだ。新しい仕事の話もそれからにしとこう』
休暇は一週間ある。『ゆっくりしてこい』と言う轍人の声はやさしい。百樹がここ一年ほど密かに付き合っていた先輩俳優と別れたことも、彼だけは知っている。
「明日には帰るよ」と告げて百樹は電話を切った。
電話を切った途端に不安が襲ってくる。
百樹はホテルのローブをしどけなくまとったままベッドに再び仰向けになり、スマホでエゴサを始めた。昨日まで関わっていた舞台と、自分の名前を検索窓に打ち込む。さっそくサジェストに「SEN 可愛い」などと出てくる。「SEN」は芸名だ。「百樹」からの連想で「千」。
事務所が安直につけた名前だが、百樹は割と気に入っていた。李木の名前を出すのは良くないし、だいたい「すももぎももき」では「も」が多すぎる。
ざっと検索した限り、ソーシャルゲーム原作舞台の評判は上々だった。
総勢三十名ものイケメン2.5次元俳優が出ていて、それぞれにファンがいるから、チケットはどうしたって争奪戦になる。
『××ストプレ、まじ良かった。ミュも楽しみ~』
ストプレとはストレートプレイ。つまり一般的にイメージされる演劇。ミュはミュージカルの略で、作中に歌ったり踊ったりの演出が入る。華やかになるから、ゲームやアニメ原作のものと親和性が高い。
主役、準主役、そして演出家への賛美が飛び交うネット上をどんどん彷徨ううち、百樹の可愛らしい鼻の付け根には、うっすら皺が刻まれていた。
轍人がなにやら不穏な気配を醸すから、悪口でも書かれているのかと思いきや、そんなことはなさそうなのだ。
轍っちゃん、なにが心配なんだろう?
だいたい百樹が今回演じたのは、三十人中二十五番目くらいの役どころで、主役級とのからみも少ない。
もっとも、そういうキャラに限って怒らせると怖い濃いファンがついているものだ。
だから百樹に求められるのは「ぜっっっっっっっっったいにキャラのイメージを損なわないこと」で、それに関しては本当に自信がある。
事務所の自分のページには、今まで演じた役柄が写真と共に紹介されているが、笑顔ひとつとってもそれぞれまったく違う表情をしていた。たまにそのページを眺め、百樹は安堵する。
良かった。ちゃんと全部違う。〈おれ〉が出ちゃってない。
若手ばかりが集まることもあって、中にはファンの想いより、自分の思惑を優先したがる者も出てくる。自分なりの解釈を加えて演出家の印象に残ろうとするのだ。
だが百樹はそれをしない。絶対にしない。
『百樹はしっかりしてるから、ひとりで大丈夫よね?』
――人の求める自分じゃなきゃ、愛してなんかもらえないと、知っているから。
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