8.龍介:『ぶぁーーーーーーーーか!!!!』

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8.龍介:『ぶぁーーーーーーーーか!!!!』

 言うが早いか、少年は龍介のスマホをさっと奪うと、なにやら入力した。入力したくせに、次の約束をするわけでもなくふらふらと店を出ていく。  酔っ払った様子が気になって、あとを追った。目的地がどこなのか、そもそもあるのかないのか、先をいく少年はただただ上機嫌で、足取りは覚束ない。放っておいたら路上で倒れてそのまま寝てしまいそうな勢いだ。 「待てって――、すみません」  あとを追いかけようとして、道行く人と肩が触れた。  慌てて頭を下げるが、相手はその場で足を止めている。面倒くさい相手だったか――不安がよぎったが「あれ、あんた」とかけられた声は、意外にも親しげなものだった。 「岡さんとこの龍介くんか?」  見れば、父親ほどの年齢の男だ。実際父の友だちなのかもしれない。地方で企業の社長などやっていれば、自ずと知り合いは増える。ゲイバーからはもう随分離れているが、内心ひやりとした。  男も一杯ひっかけてきたところなのだろう。上機嫌な赤ら顔で、先を行っていたらしいお仲間をわざわざ呼び戻した。 「おーい、おまえら、岡の息子だぞ」  なんだなんだと、おっさんの群れが寄ってくる。 「あらまー、立派になって」 「あいつに似てねえイケメンだな。奥さんの血だな」 「俺知ってるぞ。お堀で船頭やってるだろ」 「すぐに親の会社に入らずによそで勉強するなんて、立派なもんだ」 「岡の息子っていやああれだ、ほら、確か甲子園行った……」 「こうしえんん?」  男の言葉尻の響きに、龍介は身構える。 「ああ、初戦で負けた弱い年かあ」  ――ほらきた。  地方の強豪校の宿命で、甲子園に出た代はずっとこうして好き勝手に語られる。弱いと言ったって、全国に四千もある高野連所属野球部のうちのたった四十九校が争う場で、だ。  甲子園に出たということは、県下でただの一度も負けていないということだ。  夏の大会には二回戦から参加した。春の大会で優勝して、シード権を与えられていたからだ。  ということは、夏だけでなく春から一度も負けていないということを意味する。  大体どこの県でもそうだから、甲子園は文字通り〈一度も負けたことのない奴らの頂上決戦〉なのだ。  だがそんなことは、高校野球というエンタメを無責任に楽しむ層には関係ない、ということもよくわかっている。 「あの年はいい投手がいなかったからなあ」 「ああ、結局エースがいなけりゃ話にならねえ」  いちいち憤ったところでなにもならない。デリカシーのない『結婚はまだ?』攻撃と同様に、さらりと笑ってかわしておくのが賢いやり方なのだ。 「おい、おっさん」  ――突然の怒声に、龍介は我に返った。  ふらふらと先を歩いて行ってしまったものとばかり思っていた少年がそこに立っている。仔猫のような瞳に今宿るのは、怒りだ。 「あんたは野球やったことあんの」 「は? なんだボク、迷子か?」 「ボクじゃねえ。――いいから答えろ」 「ね、ねえよ。野球なんか」  少年の剣幕に押し切られたのか、男が答える。少年は華奢な肩を怒らせた。 「やったことねー奴が弱ぇとかごちゃごちゃ文句言ってんじゃねーよ! 出るだけでもすげーだろうが!!! 青春全部かけて朝早くから夜中まで死ぬほど努力してんだよ!!!! あの場所はそういう奴らだけが立つこと許されるんだよ。いいおっさんのくせにそんなこともわかんねーの?」  一瞬、自分の心の声が漏れ出たのかと思った。 「なんだおまえ!」 「――」  激高した男に、少年はすっと目を細めた。幼い容姿に、その冷淡な表情はひどく不似合いで、だからこそぞくりとするものがあった。そう感じたのは龍介だけではなかったようで、おっさんの群れも一瞬たじろぐ。  その虚をついたように、少年は身をかがめると――男の腕に噛みついた。 「いででででででで!」  まさか「噛み」なんて攻撃でくると思わなかったのだろう。男の顔には驚きと、それを凌駕する恐怖が貼り付いていた。  逆に我に返った龍介は、ふたりの間に分け入って、凶暴な動物と化した少年をどうにか引き剥がす。 「い……っ、そいつ頭おかしいぞ!」 「はあ? よく知りもしないくせに人のこと弱いとか言えるおまえのほうが頭おかしいっつーの! ばーか! ぶぁーーーーーーーーか!!!!」  まだまだ罵声を浴びせかける少年の脇の下に手を入れて引き離す。隙あらば振りほどいて蹴りを食らわそうとするのを押さえつけるのに苦労した。  やがておっさんたちは姿を消す。逃げ足が速いことこの上ないが、今回ばかりは大人のそういう狡猾さが気にならなかった。  腕の中でジタバタ暴れている少年のことのほうが、よっぽど気にかかったからだ。 「『……ぶぁーーーーーーーーか!!!!』って……」  じわっと泉のようにおかしな気持ちがわいてきて、龍介は小さく笑った。  ぶぁーーーーーーーーか!!!! って。  子供か。  肩をふるわせていると、その子供が「なに笑ってんだよ」と食ってかかってきた。思い切り眉をひそめ、小作りな鼻の付け根に皺が寄っている。不快や不信の表情すら、こいつがすると可愛く見える、と龍介は思った。 「言いたい放題言われて悔しくねえの?」 「悔しいな」  少年があまりに率直だからだろうか。龍介はそう口にしていた。  悔しい。  なんだか長いことその言葉を口にしていなかった気がする。代わりに口にしていたのは「仕方ない」だ。  あんなに打ち込んだ野球で結果を出せなかった。――でもやるだけやったんだ、仕方ない。  周りに「弱い」と言われまくった。――強豪校の宿命だ。仕方ない。  結婚はまだ? 親孝行しなさいと知らない人に会う度言われる。――仕方ない、そういう土地だ。  初めて、ずっとそばにいようと思った相手を、横からかっさらわれた。――仕方ない。あいつが決めたことだ。  嘘だ。  思い返せばどれもこれも本当は嫌だった。つらかった。悔しかった。  でもそれを口にしたことはなかった。いつの頃からか、大人になるとはそういうものだと思っていた。  『ぶぁーーーーーーーーか!!!!』  本当はずっと、自分もそう言ってしまいたかったんじゃないか?  初めて会った少年の言葉で、ずっと偽ってきた、可哀想な自分の魂が慰撫されたような気がしていた。 「悔しいけど、言いたいことは全部おまえが言ってくれたから、もういいんだ。なんだかすっきりした。――ありがとうな」  少年は一瞬面食らったような顔をした。礼を言われるとは思っていなかったのだろう。 「べつにあんたのためじゃねーよ! あのおっさんがむかつく奴だったから!」  そうきゃんきゃん吠える姿が、子供の頃実家で飼っていたポメラニアンを龍介に思い出させた。野球部の寮に入っている間に死んでしまったが、正月に二日しかない休みに帰ったとき、いつまでも足下にくるくるまとわりついてきたものだ。  しかしこのポメラニアンは、くるりとふり返ると言うのだ。 「もっとすっきりすること、しよ?」  断る間もなくずんずん中へ入ってしまう少年を追って、ラブホテルに入った。  もちろん男同士は初めてだった龍介だが『教えてあげようか』の言葉通り、少年は積極的で、あっという間に脱がされてしまった。拒む間もなく口に含まれれば、声を漏らしてあおのいてしまう。  女性とのSEXは、何人か経験はある。だが口淫は経験がなかった。なんだか好色が過ぎるような気がして、頼んでみたこともない。  だが今名前も知らない少年から施されるそれは、想像よりはるかに良かった。  比較する対象を知らないので、巧いかどうかは知りようもないが、態度とは裏腹のその小さい口に自分のものを含まれている感じが、たまらなくいい。固くなった自分を持て余し気味にしているのがいい。  自分の中にこんな性癖があることを、つい数時間前まで知らなかったのに。  目覚めると、少年の姿はもうなかった。  心のどこかで半ばは予想していたことだ。  だが落胆は予想以上に大きい。  ここのところ眠りは浅かったはずなのに、今日に限って寝過ごしてしまった自分の間抜けさを呪う。  のそのそと起き上がってベッドのふちに座り、ため息と共に乱れた髪をかき上げた。  この辺りに住んでいるわけではないだろう。旅先で一晩遊ぶ相手を探しているだけ。そんな様子だった。  いつもあんなふうに、誰かの上に乗っかって――考えると、心臓辺りにひっかかれたように不快な疼きがあった。  この感覚が、恋情なのかどうかは、よくわからない。  会ったその日にSEX。そんなこともちろん今までに一度も経験がない。むしろそんな輩のことは嫌悪してきたはずだ。  今までにないことをして、脳味噌がバグっているんだろうか。  行きずりの相手にまた会いたいと思っているなんて。  ふたたびため息をつき、髪をかき上げた。乱れた髪からもSEXの匂いがする。それは淫らで甘い記憶と、苦い後悔を同時に催させた。  ともかく、シャワーを浴びて仕事に行かなければ。のろのろとベッドから離れる。情事のあと特有の気怠さは残っていたが、胸は長くつかえていたものがとれたように軽い。 「ん?」  硝子のローテーブルに投げ出してあった財布を手に取ると、違和感があった。よく似ているが、自分のものではない。  となると、考えられる可能性はひとつしかない。  間違えたのだ。盗むつもりだったのなら、自分のものを置いていきはしないだろう。 「そうだ、たしか」  スマホに勝手に番号を入れていたはずだ。そのもの慣れた様子を思い出すと、すっきりとしたはずの胸の中に、かすかに影が差す。  これは、かけていいんだよな? あっちから入れたんだから。  それとも単なる悪戯心で、真に受けたらあざ笑われるパターンか?  そもそもこの番号が正しいとも限らない。一晩だけ遊んで、熱をあげたばかな男がかけたらまったく関係のない家に繋がるとか――  あの慣れた様子なら、そういうことを悪趣味に楽しんでいても不思議ではない気もした。  だが一方で、財布を置いていく間抜けさもある。そのちぐはぐな感じ。  ちぐはぐといえば、昨夜だってそうだった。おっさんどもと対峙したときのことだ。 『青春全部かけて、朝早くから夜中まで死ぬほど努力してんだよ!!!! あの場所はそういう奴らだけが立つこと許されるんだよ』  たとえ彼が旅先で遊び相手をひっかけて歩くタイプの人間だったとして、あの瞬間、あの言葉には嘘がないように思えた。  野球をやっていた仲間うちですら、いや仲間だからこそ、誰も口にできなかった言葉を、唯一彼だけが口にしたのだ。  ――かけてみよう。  見逃し三振より、振って三振だ。
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