第三話「通過」

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 ひとけのない裏通りばかりを選んで、ふたりは歩いた。  とめどないセラの質問へ、ヒュプノスは順番に答えていく。 「海を見た」 「海? 海って、あの海?」 「そう、海だ。打っては返す波音に、データでしか見たことのない海鳥の歌声。ゆったり流れる雲に、塩の香りが混じった風。足の裏に広がる砂粒の感触と、水平線の向こうへ沈む太陽の輝き。気づくと我は……その美しさに涙を流していた」  セラがヒュプノスに貸した肩の重みは、知らぬうちに軽くなっていた。たえまない追撃から逃れたおかげで、彼もいくぶんか生気を取り戻したらしい。  不思議そうに、セラは相槌を打った。 「ずいぶん感傷的なんだね、きみ?」 「どれも、我のもといた世界にはなかったからだ」 「もといた世界?」  じゃっかん口ごもったのち、ヒュプノスは意を決して打ち明けた。 「これから数十年後の、そう遠くないこの世界の未来だ。呪力使いと人間、そして地球外の〝星々のもの〟が起こした戦争によって自然は荒れ果て、未来の世界は深く冷たい雪に覆われている」 「うそでしょ……信じられないよ」 「未来の景色を見れば、きっとおまえも我と同じように涙を流すぞ。感動ではなく、絶望に。その涙も、極寒の吹雪にすぐ凍りつくだろうが」  常識離れした暴露に、セラも絶句するしかなかった。もしヒュプノスの告白がすべて虚言だとすれば、さっきの追跡者たちが血眼になって彼を探していた説明がつかない。  生唾を飲みながら、セラは聞き直した。 「じゃあ再確認だけど、きみは未来からその〝ホーリー〟というひとに命じられて現代にタイムスリップしてきたんだね? そして目についた結果使い(エフェクター)の卵を、片っ端からヒュプノスの呪力で羽化させた。戦争が起こる前に災厄の源をあぶりだし、同士討ちさせて始末するために?」 「おおむね間違いない。未来の戦争の局面に、おそるべき結果使い(エフェクター)がいたせいだ。現代では多くの素質あるものが我のささやきに応じて目覚めたが、結局、そのどれもが〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟に食われて失われてしまった」 「食われる、って……その〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟とは、いったい何者?」 「その存在を、おまえたちは〝食べ残し〟と呼んでいる」 「!」  驚愕もあらわに、セラはたずねた。 「知ってるの? 殺人鬼の正体を?」 「いや、わかるのは、そのおぞましい能力だけだ。結果使い(エフェクター)本人の姿は、我でさえ把握していない。やつがここまで驚異的なスピードで成長するとは想定外だった。我自身の呼び声で覚醒させておきながら、無責任な話で申し訳ない」 「つまり〝墳丘の松明(グレイイーグル)〟〝輝く追跡者(ヴェディオヴィス)〟〝竜巻の断層(トルネンブラ)〟をふくめて、結果使い(エフェクター)たちは計画どおり潰しあいを始めたんだね。でもきみの理論だと、この世界線とやらの危険因子をどうにかしても、崩壊した未来にはなんの影響もないわけでしょ?」 「ホーリーはただ、可能性を観察したいだけだ。こんな願望を抱いたことはないか? もしあのときああしていれば? もし死ぬべきものがあのとき生きていれば?」 「あるね……」 「その願望は、我にさえある。ホーリーも同じだ」  パトカーの巡回は電信柱の陰でやり過ごし、セラは思いのたけを舌に載せた。 「ヒュプノス。なぜきみは、ホーリーを裏切ったの?」 「じつのところ、自分でも理解しかねていてな。現代の美しい景色に魅せられたからかもしれない。擬装のため、特別製(スペシャライズド)の我に本来〝ジュズ〟にないはずの自我が組み込まれたためとも考えられる」 「とにかくもう戦いたくない、って言ってたね。これからこの世界で、どうしていくつもり?」 「そうだな……」  暮れなずむラベンダー色の夕空を遠目にしながら、ヒュプノスは自嘲げに笑った。 「どこかで穏やかな自然に囲まれ、絵や本の芸術にふけって暮らしたいと思う。山でもいい、海でもいい。朝には小鳥のさえずりと木漏れ日で目を覚まし、夜には鈴虫の音色と月明かりを聞いて眠る……諸悪の根源たる我には、とうてい許されざる望みだろうが」  ヒュプノスが歩くのを補助しつつ、セラは首を振った。 「すてきだね。応援するよ、逃げきるのを。そのかわり約束して。ひとつは、もういたずらに結果使い(エフェクター)を呼び起こさないこと。もうひとつは……」 「殺人鬼の討伐に協力すること、だな。承知した」 「ありがとう。じゃあまずは、そのケガを応急処置しないとね。着いたよ」 「ここは……」  ふたりが忍び込んだのは、美須賀(みすか)大付属の校舎だった。
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