第三話「通過」

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 夜の校庭は暗闇につつまれていた。  息を切らして疾走しながら、ヒュプノスに謝ったのはセラだ。 「ごめんねヒュプノス。人類がわからず屋で」 「しかたがない。どこまでいっても、しょせん我も人食いだ」 「きみはかならず守りきるよ。だからいつか仲間のもとへ戻っても、人間を敵対視しないでくれる?」  並んで走るヒュプノスの横顔に、はじめて穏やかな笑みが宿った。 「もちろんだ。地球にはまだ、おまえのような良心が残っている。それがお互い理解できず、わずかに意見が食い違ったばかりに戦争は起きた。我は地球に攻撃はしな……」  セラは立ち止まった。  背後のヒュプノスが、きゅうに走るのをやめたではないか。その場でジョギングしながら、セラはせかした。 「なにしてるの! はやく!」  ヒュプノスは沈黙したままだった。銃声を聞いた野生動物のように夜気をかぎ、セラへ警告する。 「そこを動くな、セラ」 「え?」 「すでに囲まれている」  かすかにこだましたのは、重い波音だった。  幻の水面を切り、校庭に浮かび上がったのは半透明の背びれだ。  その数、五匹。  セラの顔はこわばった。 「た、〝食べ残し〟!」 「〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟か……」  右に左に走る凶暴な魚影を前にしても、ヒュプノスに動揺の気配はなかった。 「よかろう。おまえを目覚めさせたのも我だ。我じきじきに責任をもって処断してくれる」  棒立ちのヒュプノスを挟み撃ちにする流れで、呪力の水しぶきとともに巨大なサメは跳躍した。だがそのときには、ヒュプノスの両腕はすばやく跳ね上がっている。 「ナノマシン弾倉変更(カートリッジリバイス)。プロトコル(C)〝疑似火呪(サラマンダー)〟」  轟音とともに、肉食魚の結果呪(エフェクト)は爆散して灰と化した。ヒュプノスの両手、こうこうと燃えるのは超高熱の呪力の炎だ。  その背後から、三匹めの人食いザメは牙をむいて襲いかかった。 「プロトコル(D)〝疑似風呪(シルフ)〟」  忽然とかき消えたヒュプノスの姿は、直後には捕食者のうしろに現れていた。爆発的な勢いでヒュプノスを加速させた突風に、校庭の木々までもが激しく揺れる。  地面に片手を叩きつけ、ヒュプノスは呪文の引き金(トリガー)をつむいだ。 「〝疑似地呪(ノーム)〟」  その手のひらを起点に、サメめがけて続々と生えたのは剣山のごとき地面の隆起だ。とがった岩の切っ先に串刺しにされ、サメは不可視の血をまいてのたうっている。  消滅しかかりながら、しかし、サメは耳障りな金切り声で哄笑した。 〈かかったな。では、先にあちらから頂くとしよう〉 「なにッ!?」  気づいたときにはもう遅い。  幻影の波濤を裂いたふたつの背びれは、高速でセラへ猛進した。不吉な泡立ちとともにいったん地面へもぐって隠れる。サメ特有の攻撃前の予備動作に違いない。ヒュプノスとセラをうまく引き離す形で、サメはたくみに動いていたのだ。  叫んだのはヒュプノスだった。 「迎撃しろ! セラ!」 「わかった! 〝輝く追跡者(ヴェディオヴィス)〟!」  セラの正面にはずんだ魚影は、隕石の雨が貫いて地面に縫い止めている。  だが、わずかな時間差で、セラの背後から跳び上がったのは最後のサメだ。  駆け出しながら、ヒュプノスは舌打ちした。 「ばかもの、(フェイント)だ! 〝疑似風呪(シルフ)〟!」  暴風をまとって、ヒュプノスはセラのうしろに滑り込んだ。  生々しい響き……  振り返ったセラの瞳は、こぼれんばかりに瞠られた。  ああ。ヒュプノスの体の右半分は、無残に食いちぎられているではないか。  断面から噴水のように赤黒いものを噴き、呪力の電光を帯びつつ、ヒュプノスは力なくその場に片膝をついた。偽物の吐血とともに、セラへうめきを漏らす。 「に、逃げろ……セラ」  顔を引きつらせ、セラは悲鳴をあげた。 「うぁあああ! 〝輝く追跡者(ヴェディオヴィス)〟!」  天から降り注ぐ隕石は、校庭を続けざまに陥没させた。  だがこんなでたらめな狙いでは、素早い殺人魚にはあたらない。もうもうと舞い上がった砂煙は、逆にセラの視界を奪ってしまう。  弱々しくセラを突き飛ばしたのは、ヒュプノスだった。  それまでセラのいた場所で噛み合ったのは、地獄の底めいた赤い口腔だ。そしてセラのかわりに、ヒュプノスはむごたらしく踊り食いされている。頭から腹、下腹部から爪先まで。ヒュプノスを完全に噛み砕いて嚥下したサメの鼻先から、獲物の硬直した片手の破片だけが落ちる。  満足げなげっぷをひとつ吐き、〝食べ残し〟は正体不明の声でささやいた。 〈ちょっと硬かったが、なかなかいける。感じるぞ。〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟の呪力の限界値が底上げされたのを〉  砂地にひざまずいたまま、セラは見た。  校庭に、ひときわ大きなサメの背びれが突き出すのを。そのサイズはさきほどまでのそれとは打って変わり、すでに大型トラックの域に達している。ヒュプノスを吸収した成果らしい。  死体のように血色の悪い身をくねらせ、超巨大な魚影はまっすぐセラへ迫ってくる。  小刻みに震える指先で、セラはサメを指差した。 「〝輝く追跡者(ヴェディオヴィス)〟……」  静寂……なにも起こらない。  補足したのは〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟だった。 〈体力不足のシロウトめ。結果呪(エフェクト)のスタミナが無尽蔵だとでも思ったかね? 能力を乱発させたのも計算のうちだよ〉 「!」 〈完全に呪力切れだな、井踊静良(いおどせら)。これほど力を無駄遣いしたのだ。もうまともに立って歩くこともできまい?〉  横に飛び退こうとして、セラは情けなく地面に倒れた。  ろくに体が動かない。呪力とは、生命力そのものを負の意思で奇跡に変換する。  殺人鬼の言うとおりだ。もはや逃げることすらままならない。  絶望に遠のく意識の中、セラは無力感たっぷりに独りごちた。 「また大切なひとを救えなかった……メグルも、ヒュプノスも。ぼくの大嘘つき。この死は、ぼくへのせめてもの罰だ」  幻の海中からのぞいた肉食魚の瞳は、たしかに笑いにゆがんだように見えた。 〈楽に殺してあげる、とは言いきれないよ。なに、痛いのは一瞬だけだ〉  半身だけを起こしたセラへ、サメの巨躯は嬉々として躍りかかった。血のような朱に染まった(あぎと)で、そのまま頭からセラを丸かじりに…… 「〝竜巻の断層(トルネンブラ)〟!」  一閃した刃の輝きに打ち落とされ、サメはふたたび地面に没した。  あざやかに宙返りしてセラの前に降り立ったのは、ソーマだ。彼女を守って立ちふさがるスーツの背中へ、セラは嗚咽混じりにつぶやいた。 「先生……」 「話はあとだ」  肩越しに、ソーマは告げた。 「まずは目先の悪党を片付ける」  体中から鋭い結果呪(エフェクト)の幻影剣を展開し、ソーマは戦闘態勢をとった。 「よくも教え子に手を出したな、〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟。きさまの相手はこの私だ」  ふたりの視界を威嚇的に泳ぎ回りながら、サメは歯をきしらせた。 〈戦っても負ける気はしないが、いま正体がバレるのはあまり宜しくない。やれやれ、また人を食って呪力を溜め込まなければ〉  浮遊して光芒をはなつ刀の狭間から、ソーマは挑発した。 「逃げる気か?」 〈追ってきたいのなら好きにすればいい。置き去りにしたそこの小娘が、配置済みの予備のサメの餌になっても構わないのなら〉 「…………」  醜怪な声音で、肉食魚は続けた。 〈いついかなるときも〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟は暗がりから結果使い(おまえたち)を狙っている。せいぜい悪夢にうなされる夜を過ごすことだな〉  呪力でできた水滴を大量に散らして、獰猛な背びれは仮想の海中へ消えた。 〈たしかにもらったよ、ヒュプノスの未来の記憶……これは興味深い〉  遠ざかっていく邪悪な高笑いを背景に、セラは悔しげに地面を殴った。 「くそ、くそ……許さない。絶対に許さないぞ」
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