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美須賀大付属高校……
校舎一階にある保健室は、本日は大盛況だった。
長身を縮こめるように片野透子の部屋に入室してきたのは、体育教師の植木だ。その若いが岩めいて厳つい外見は、全国大会出場の常連校である球技部の顧問にふさわしい。そんな頑健きわまりない彼が、看護師になんの用件か?
問診を打ち込むパソコンから視線をあげ、トウコは聞き返した。
「記憶喪失、ですって?」
「はい……」
強面を気弱げに曇らせ、植木は答えた。
「夢の中で、ぼくは美須賀川の橋の下まで不良を追いかけるんです。追いかける生徒は地味めな女子ですが、これ見よがしにタバコをくわえていました。ですがふと目を覚ますとぼくは……」
「ええ?」
「じぶんの家で寝てたんです。帰り着いた記憶もないのに」
「ははあ……」
いそがしくキーボードを叩きつつ、トウコは問うた。
「失礼ですが、植木先生。ご家族と同居されてますか?」
「いえ、独身の一人暮らしです」
「なにか持病のお薬は飲まれてますか?」
「いえ、生まれつき、虫歯いがいで医者にかかった経験もありません」
「お酒は飲まれます?」
「そう、お酒なんです」
きゅうに声のトーンを低くし、植木は片手で後頭部をおさえた。
「朝に目覚めると枕元には、数えきれないビールや酎ハイの空き缶が散乱してました。口の中もしっかり酒臭い。いつの間にか寝落ちしてた原因もきっとそれです。ですが、変なんですよ」
「?」
「ぼく、お酒は飲めないんです。缶ビールの半分も飲むと頭が痛くなってきます。その朝も頭はガンガンしてました。どこかで転んだひょうしに打ったのか、頭にはたんこぶもあって……心配なのは、ぼくが酔っ払って、街で暴れでもしたんじゃないか、ということです」
「う~ん」
難しい顔でうなり、トウコは否定した。
「まじめな植木先生にかぎって、それはないでしょう」
「でしょうか?」
「もし仮にそうなら、とっくに交番でお世話になっているはずです。きっとストレスでしょうね」
「あまり自覚はありませんが、知らないうちに溜め込んでたんでしょうか?」
「はい。お気づきのように、学生たちも受験や推薦等でひどく殺気立ってますし。ふだん飲まないお酒に体が過敏に反応し、アルコールの急性症状で、記憶の一部をなくすことはよくある現象だと聞きます」
パソコンのマウスをカチカチし、トウコは助言した。
「あたしからのアドバイスはふたつ。まずは病院に行って、頭の痛む場所を診てもらうこと」
「はい」
「つぎに、浴びるようにお酒を飲みたくなった日は、事前に、親しいお友だちやご両親となんでもいいので雑談すること。隠れた悩みが会話の中で晴れれば、記憶が飛ぶほどにアルコールに依存することもなくなるでしょう?」
「そういえば最近、だれかに悩みを打ち明ける機会も減っていた気がします。それが原因なのかもしれませんね。わかりました、試してみます、雑談」
「どうかお大事に」
もちまえの青空のような微笑みを披露し、トウコは会釈した。
「またお具合が悪くなったら、いつでもご相談にいらしてください」
「はい、ありがとうございます。ではさっそく勇気を振りしぼってお尋ねしますが、片野先生、週末のご予定はありますか?」
「はい? どうしてです?」
「じ、じつは知り合いから、試合のあまった観戦チケットをもらってしまいまして。それも二人分」
「あらぁ」
どちらかといえばまだ男社会寄りのこの学園では、校内ゆいいつの女医にこんな告白が打ち明けられることも珍しくはない。おまけにトウコ自身も妙齢で、糊のきいた白衣とスカートからのぞくタイツの美脚も異性をまどわせる。体育教師の相談はたしかに嘘ではないが、うち半分にはその目的が秘められていたようだ。
わかりやすい困った顔つきで、トウコは場をごまかした。
「ステキですねぇ。スケジュールを確認しておきます」
「では、ではお返事をいただくために、連絡先を交換しませんか?」
「あいにく、携帯電話をロッカーに置いてきてしまってですね。それはまたのちほど。申し訳ありませんが、つぎの患者さんもお待ちです」
「期待してますからね? 約束ですからね?」
「はい、お次の方、どうぞ」
つづいて保健室をおとずれたのは、数学をうけもつ春日先生だった。
春日は講師歴三十年を超える初老の大ベテランで、さっきの植木とは反対に完全な理数系だ。そんな落ち着いた紳士が、毛の薄まった頭を悩ましげに押さえている。
「片野先生、じつはご相談が……」
「いったいどうされましたの、そんな深刻なお顔で?」
「記憶喪失とは、とつぜん起こるものなんですか?」
「え?」
おかしい。
聞けば、春日も状況は植木とよく似ている。
喫煙の疑われる不良生徒を検挙しようとしたところ、気づけば翌朝、彼も大量のアルコールの空き缶とともに自宅で目を覚ました。異なるポイントといえば、春日は血圧を整える他数種の薬を常服しており、そしてたしなむていどに酒は飲むことだ。
詳細を聞き終え、トウコは親身に賛同してみせた。
「数学の世界は大変ですもんね。神経質になって、つい飲みすぎてしまう気持ちもじゅうぶん理解します。しかし次からお酒を飲まれるときは、無礼を承知で申し上げますが、ご自身のご年齢とお薬の効き目をよく秤におかけになってください。それを前提に、ではありますが」
パソコンの画面とシワの多い春日の顔を、トウコは実直に見比べて提案した。
「いかがでしょう。ストレス解消のために、つぎの長期休暇にご家族と旅行にでも行かれてみては? そこで自由気ままに飲んで遊ぶんです。数字や学校のことは一時忘れて。もちろんきちんと量を決めて、体調と相談しながら、ですが。飲酒量が不自然に増えて体を壊すよりは、そのほうがよほど健全です」
「納得ですな、そういう考えもあります。そういえば私、土日祝日も生徒の成績や答案作りのことで頭がいっぱいでした。気づかぬうちに飲みすぎて、いもしない素行不良な女生徒の幻など見てしまうわけです。おまけに頭もどこかにぶつけて痛むは」
「念のため、きちんと病院で診てもらってください。あたしは頭の内側までは見れませんからね」
「承知しました。旅行の件、検討します。ところで、片野先生」
「はい?」
「温泉はお好きですかな?」
老獪ににやつくエロジジイへ、トウコは当たり障りのない微笑みで反撃した。
「奥さんやお子さんと、心ゆくまで楽しい時間をお過ごしください」
「へいへい。若くて美人の先生だけが私の心のよりどころです」
「まあ、お上手ですこと」
「ほんと、片野先生に相談してよかった。また時々、お世話になりますね」
「お大事に」
ねばっこい足取りで保健室をあとにする春日を、トウコは笑顔を崩さず見送った。
室内がひとりになったとき……
きしみすら残して、トウコの表情は黒くゆがんだではないか。
彼女側からしか見えないパソコンのモニターでは、体育教師を対応する前からずっと無音でやっていた人気のFPSゲーム〝セレファイス3〟が敗北の結果を表示している。イスの背もたれに思いきりのけぞり、トウコは憎悪にひび割れた声を発した。
「呪力のないクズどもめ……食う価値もない」
恨みでもあるように天井を睨みながら、トウコの独白は続いた。
「だがしかし、気になるな。記憶喪失が同じ学校で、偶然二件? 関係性の薄い体育と数学の教師が、ふたり同時に? なぜだ? 無差別か、計画的か? まさか二合恵留とあたしの他にヒュプノスの呼び声を聞いて、最後までこの〝魔性の海月〟に食われずに覚醒しきった結果使いがいる?」
学校の裏山で、とある小競り合いがあったあの日……ヒュプノスのささやきを聞いたのは、セラに担ぎ込まれたメグルだけではない。
みずからの凄まじい結果呪に気づいた片野透子は、目覚めて以降、かすかでも呪力の片鱗が見えた獲物は片っ端から捕食することにしている。殺意と欲望がおもむくままに乱暴に人の血肉を吸収していくうち、正体不明の彼女はいつしか世間からこう呼ばれて恐れられるようになった。
殺人鬼〝食べ残し〟……
「ああ、腹が減った。〝墳丘の松明〟やヒュプノスのような美味い食べ物が、今夜も街を歩いていないかな……」
よだれを光らせて歯ぎしりする〝魔性の海月〟の瞳が、ふと輝いたのはそのときだった。
またあわれな獲物が、性懲りもなく保健室の扉をノックしたのだ。いまの研ぎ澄まされた人食いザメの嗅覚をもってすれば、扉越しでも相手の性質は分析できる。
嗅ぎ取ったところ、その餌にはなんと大きな呪力があった。
肉食魚の本性をまたたく間に優しい看護師のそれに塗り変え、返事したのはトウコだ。
「どうぞ」
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