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「どうぞ」
気前よく患者を歓迎しながらも、トウコは胸裏だけでつぶやいた。
(相手はふたりだな。若い女。生徒か。ひとりはあいつ)
まずひとり、慣れた足取りで入室してきたのは顔なじみの少女だった。目を丸くするトウコへ、あいかわらず鷹揚な調子で挨拶する。
「やあ、先生。きょうもお願い」
「あらあら、またどうしたの、セラちゃん?」
結果使い〝輝く追跡者〟井踊静良……彼女のことは、あの雨の日の体育館の陰から、上糸総合病院の向かいのビルの屋上から、カサまで差してずっと観察し続けていた。
体裁上は親しみをこめて接してこそいるが、じつのところトウコは、こいつのちょっと行き過ぎなまでの他者への奉仕精神が前々から気に障っている。それでも彼女が、舌なめずりするほど食欲をそそる獲物であることに変わりはない。
(きた♪ 正義の味方気取りの間抜けが♪ ……ん? もうひとりは?)
セラに支えられてなんとか歩くのは、同じ制服姿のメガネの女生徒だった。健康がすぐれない証拠に、その顔色はかなり血の気を失っている。真っ白なシーツのベッドに横たえられたメガネっ娘のことを、トウコは心配げにセラへたずねた。
「だいぶ容体は思わしくないわね。こちらは?」
「たまたま廊下ですれ違ったとき、しんどそうに倒れかかってたんだ。彼女は……」
苦しげな息遣いとともに、メガネっ娘はみずから名乗った。
「し、染夜名琴です……」
「ありがとう、染夜さん」
(な、なんだこいつ!?)
動揺の欠片もなくうなずきながら、しかし、トウコは内心で混乱していた。
(あたしの感覚器の誤作動か? このナコトとかいうやつ、はんぶん以上死んでる? こいつの心臓を動かして生かしているこの異常な呪力……はじめて嗅ぐニオイだ。ほんとうに地球上の生物か? 何者だ?)
ナコトの体を調べながら、トウコは聞いた。
「熱はないみたいね。でも血圧はけっこう低い。貧血かしら? 染夜さん?」
「はい、すいません。さいきん放課後のアルバイトが忙しいのなんのって。帰ったら帰ったで大食いの弟とペットのイノ……イヌのお世話や家事で大変ですし。ちょっと疲れがでただけです」
勝手知ったる動きで保健室の冷蔵庫をあさりながら、同調したのはセラだった。
「家を切り盛りする苦労、ぼくも痛いほどよくわかるよ。おまけにそこに重労働のアルバイトまで加わるとなれば、そうとう過酷だね。激務だ」
セラに手渡されたミネラルウォーターへ、ナコトは遠慮がちに口をつけている。聴診器を肩におろし、トウコは提案した。
「しばらく休んでいきなさい、染夜さん。家庭の事情もあるでしょうけど、あまり無理しすぎちゃだめよ?」
「はい、ありがとうございます……」
「あまりに症状が悪くなるようだったら、救急車を呼ぶわ」
「いえ、すいませんが結構です。歩いて病院に行きますので」
臆病げなナコトの遠慮に、セラは申し出た。
「いっしょに付き添うよ、病院まで」
「んん、大丈夫。迷惑かけてごめんね、井踊さん。横になって水分補給したおかげで、だんだん元気も戻ってきた」
ナコトの胸元へ上掛けをかけてやりながら、トウコはつぶやいた。
「きょうはもう、授業は切り上げて早退しなさい。担任の先生にはあたしが説明しとくから」
「ええ、そんな……申し訳ないですよ」
「いいってば。授業中にまた具合を悪くするほうが、よっぽど学校側は大変だわ。アルバイトがあるのならきょうは休んで、家事もそこそこにして晩御飯はレトルトで済ますのが賢明よ。ところでその弟さんというのも、美須賀大付属の下級生?」
「そうです、野球部の背番号五です」
「野球部か。じゃ、顧問の植木先生にお願いして、弟さんを迎えに寄越してもらうわね」
「なにからなにまで、ほんとにすいません……」
それから数分後、ナコトは無事に帰路についた。
折に触れて「ばか姉」「腑抜けめ」等々の小言をもらしたのは、知らせを聞いてすっ飛んできた弟の優葉くんだ。それでもなんだかんだで仲の良い姉弟であることは、ふたりをつつむ和やかな雰囲気からたやすく読み取れる。
はれて患者がゼロになったことを確認し、残されたふたりは胸を撫で下ろした。
セラは心底からの安堵に。
トウコは殺気の鎮静化に。
(完全に呪力を抑えたおかげで、あたしの存在には気づかれなかったな。あの軟弱っぷりからして、どうやら組織の追手等でもなさそうだ。いったい何者なんだろう、あれは。いずれにせよ染夜名琴は、怪しいのでいましばらくは注意が必要ね)
ふとトウコは気づいた。
なぜかセラが、落ち込んだ面持ちで患者用の席に座ったままなのだ。
「どうしたの、セラちゃん。浮かない顔しちゃって。らしくないわよ?」
「それがその、ぼくの相談も聞いてもらえるかな、先生?」
「ええ、いいわよ」
(〝輝く追跡者〟……こいつの最近の呪力の発達には、目を瞠るものがある。とても食べごろだ。さあきょうは、どんな負の感情をあたしに見せてくれる?)
「あれ?」
不思議げにあたりを見回すと、トウコはくんくんと鼻を鳴らした。
「なんだかタバコくさくない? まさかとは思うけど、セラちゃん?」
「ぼくじゃないよ。さっき登校中に、歩きタバコをしてる人とはすれ違ったけど」
「そう。きっとそのせいだわ。副流煙もあるし、マナー不足のひとには困っちゃうわね」
(いや……)
表情にはださず、トウコはあざ笑った。そのニオイは、さいしょにセラたちが扉の外に立った時点から嗅ぎつけていたのだ。
(吸っているのは、まちがいなくこいつだ。ポケットにライターオイルのにおい。指と唇にも、燃えたニコチンとタールの残り香が強くしみついている。喫煙に逃げるほど強いストレスを感じた? もしや、二合恵留やヒュプノスをあたしに狩られた影響か? さあ聞かせろ、その甘美な苦痛の内容を)
「もしかして、セラちゃんも記憶喪失かしら?」
「え? なんのこと?」
「いえ、違ったらいいの。で、どんなお悩み?」
うなだれて一拍おいたのち、セラはおもむろに切り出した。
「心と頭の両方、考えすぎて痛いんだ。先生は、もし立場も歳もずっと上の男性を好きになったらどうする?」
「恋愛の相談ね。うれしいわ、先生。ウキウキしちゃう。さて、家事万能・気配り優秀なセラちゃんに惚れ込まれたラッキーなお相手はどなた?」
口もとに手を寄せ、セラはぼそりとトウコにその名を耳打ちした。
「えェ!?」
顔全体で、トウコは驚きを表現してみせた。
(なるほど。結果使いどうし、仲良く馴れ合っているというわけだな)
頬をかきながら、トウコは答えに苦しんだ。
「困ったわねえ。倉糸先生は非の打ち所もなくステキだけど、セラちゃん。あなたはまだ高校生で、あちらは大人の教職員よ? お利口なセラちゃんのことだから、そのことはちゃんと理解してるわね?」
「理解しようにも……振り切れないんだ、この心の切なさみたいなものが」
「第一、倉糸先生がどう反応するかわからないわ。告白はもうしたの?」
「とんでもない、まだだよ。そこで二の足を踏んでるんだ。どうすればいいかためらってたら、だんだん頭がパニックになってきてさ……」
溢れかえりそうになる嗤笑を、トウコはなんとか苦笑いのレベルまで鎮めた。
(おまえはもうとっくに分かりきっている。後ろめたい負い目を感じている。それが禁じられた恋愛であることに。そのどす黒い劣情に比例して、おまえに秘められた呪力が高まるのを感じるぞ。なんてうまそうな堕落のにおい……)
あっけらかんと、トウコは言い放った。
「あたしが許可するわ。告っちゃいなさいよ」
「えぇ!?」
うろたえるセラの視界で、トウコはちっちっと指を振ってみせた。
「そのまま我慢ばかりし続けてたら、心身に悪いって話だわ。倉糸先生は節度ある社会人よ。彼にその意志がなければきっぱり拒否されるだけ。逆にもし相思相愛になっても、彼はセラちゃんが年齢のしばりから解き放たれるまで、きっとちゃんと待ってくれる」
心配げに胸の前で手を組み、セラは食い下がった。
「そ、その間にソーマ、ほかのだれかに取られちゃわないかな?」
(よだれがでる。飢えが我慢できない。だが学校で襲ってはなにかと面倒だ。あたしの可愛いサメたちは、精密動作にあまり向いていない。食い散らかすことに関してはめっぽう強いが、代償としてかならず獲物の体の破片を残してしまう。ああ、どうすれば……)
欲求を必死に押し殺し、トウコはセラの肩をやさしく叩いた。
「ほかに目移りしちゃったら、その男性とはそれまでのご縁だったということね。ならば行動しない後悔より、する後悔じゃなくて?」
「う、うん。そうだ、たしかにそうだよね」
顔の前で、トウコは勇気づけるように拳を握ってみせた。
「先生、応援してるから♪ フラれちゃったら、またいらっしゃい。飛び込んできて泣く胸なら、セラちゃん用にいつでも空けとくわ」
「ありがとう、なんだか燃えてきた。よぉし、当たって砕けろだ!」
一礼して退室するセラを見送るトウコの眼差しは、どこまでも朗らかだ。その白衣のポケットに隠した両手の爪が、血肉の渇きをこらえるあまり、掌に食い込んで震えていることは本人しか知らない。
「おや?」
セラの去ったあとに落ちていたそれを、トウコは機敏に拾い上げた。
一本のタバコだ。
「あのウスノロめ。けっこうな度数の銘柄だな。これはいい口実ができた」
ふたたび保健室の扉がノックされたのは、直後のことだった。
そのときには、トウコは証拠の品を白衣のポケットにしまっている。めまぐるしい次の来訪者の正体をも、トウコはまたその鋭い嗅覚で見抜いていた。
(これはこれは、張本人のご登場か……)
本業のいそがしさに呆れ、トウコはやれやれと嘆息した。
(あの雨の夜は、井踊静良の結果呪の実力を探るため、あえて当て身で気絶したフリをしてやった。こいつもとくに美味そうだ。あたしの食餌に、結果使いは相性抜群。だがこいつは組織の捜査官よ。まだ〝竜巻の断層〟の鋭さの限界値はわからないし、他の仲間の能力も得体が知れない。食うにはいっそうの慎重を要する)
何事もなかったかのようにイスに座り直すと、トウコは答えた。
「はい、どうぞ」
「失礼します……」
静かに患者用のイスに腰掛けたのは、英語教師の倉糸壮馬だった。その顔色は心持ち優れず、スーツの下腹を手でおさえている。
「いけませんね、倉糸先生。またずいぶんとお具合が悪そうです。大丈夫ですか?」
鉄仮面の瞳をふせ、ソーマはメガネの奥から謝罪した。
「お忙しい中恐縮です。じつはその、深く悩みすぎてか胃のあたりが痛くなってしまいまして……」
「それは大変です。いったいどのようなご相談ごとで?」
「教師という聖職についておきながら、恥ずべきことです」
じゃっかんの逡巡ののち、ソーマは打ち明けた。
「どうか非難してやってください。前途ある大切な生徒に、恋愛感情などを抱いてしまったこの私を」
不気味に瞳をきらめかせ、トウコはうなずいた。
「おうかがいしましょう」
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