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日の出の時刻……場面は美須賀川のはるか下流にうつる。
あたりに人影はなく、濃い朝もやのせいで見通しも悪い。
岸に近い水面ではじけたのは、いくつかの気泡だ。
「くそったれがッ!」
悪態とともに大きく水しぶきをあげ、陸に人影が這い上がるのはいきなりだった。
ああ、片野透子ではないか。
流星群をもろに浴びた衣服はぼろぼろだが、その下の素肌は呪力の輝きをはなってゆっくりと回復しつつある。
「プロトコル(B)〝疑似水呪〟……」
たしかにセラの攻撃は致命傷に近かった。
しかしとっさに発動したヒュプノスの治癒能力のおかげで、トウコはなんとか一命はとりとめている。そのまま川に身をまかせ、ときには泳いで潜り、組織の追尾をまいてなんとかここまで流れ着いたのだ。
呼吸を乱しながら、濡れ鼠そのもののトウコは立ち上がった。髪やスカートをしぼって水を払いつつ、ひどく不快げな口調で毒づく。
「くそ、くそ、くそ……なんてミジメな。とはいえ、井踊静良はただ者ではない。いまはまだ勝てないな」
湿った足跡を残して歩くかたわら、トウコの横顔は挑戦的にゆがんだ。
「とりあえず海外にでも高飛びするか。遠く離れた場所で追手の目をかいくぐり、呪力の素養がある人間を食って食って食いまくる。そしてあたしは〝輝く追跡者〟をはるかに超える力を手に入れるのだ……勝負はこれからだぞ、組織」
だれもいないはずのそこに、謎の声が割り込んだのはそのときだった。
「きみの役目はいったん終わりだよ、〝魔性の海月〟」
「!」
いったいどこから、いつの間に現れたのだろう?
野生の肉食獣じみたトウコの感知器が、なにひとつ反応しなかった。
トウコの背後に立っていたのは、ひとりの見知らぬ少女だ。すらっと細いその体を、どこか未来的なスーツで包んでいる。こんなか弱そうな小娘が、なぜこんな時間にこんな場所に?
いつものトウコなら、じぶんの結果呪を知る邪魔者なぞ即座に殲滅しているはずだ。
なんとそのトウコが、ひとつふたつ後退った。少女の無言の威圧感におびえて。
殺人鬼〝食べ残し〟の第六感は、さっきからその耳にやかましく知らせている。
こいつはヤバい。とんでもなくヤバい。
おぼつかない表情で、トウコはたずねた。
「お、おま……あなたは?」
端正な顔をあげて緑のざわめきを望みながら、少女は静かに答えた。
「つぎはわたしが行く、と大見得きっておきながら、出る時間軸をおもいきり間違えてしまったようだわ。プログラムの不具合? 呪力の乱れ? いずれにせよ、ひとまず未来へ帰って仕切り直しね」
「み、未来……!?」
トウコの顔に激震が走った。
「ま、まままさか、あなたは……!」
ろれつの回らないトウコを尻目に、少女は淡白につぶやいた。
「りっぱに役目を果たしたみたいだね、ヒュプノスは。危険な結果使いの因子を四人もあぶりだし、うち半分を始末してみせた」
「は、はんぶん? 〝墳丘の松明〟と、あとだれ?」
ヒュプノスから奪った記憶の奔流が、トウコの脳裏を駆け抜けた。
未来の存在。
頂点の魔女。
究極の混合体。
最強の成功例。
さらに、さらに……
眼前の少女のすさまじさを瞬時に悟り、トウコは地面へひざまずいた。
「お目にかかれて光栄です! ここで出会えた幸運と奇跡! あたしはあなたに仕えます!」
どうみても年上の大人が平身低頭するのを、少女は底知れない眼差しでながめた。
「……まあ、ついてくるのは自由だわ」
無感動にうなずいて、少女はトウコから視線を外した。
「その力、〝カラミティハニーズ〟に対抗するにはうってつけね。せいぜい役に立ってよ」
しゃちほこばって、トウコは元気に返事した。
「はい!」
背中を向けた少女めがけ、トウコはたちまち結果呪の肉食魚をはなった。朱に染まった牙の山々は、少女のスレンダーな体をまっぷたつに食いちぎる。
瞳をきらめかせ、トウコはせせら笑った。
(こいつの力を取り込めば!)
なまなましい音がした。
気づいたときには、トウコの体はうしろから少女の細腕につらぬかれている。完全に背骨が折れていた。瞬殺だ。
回り込むその瞬間すら見えなかった。なんだこの破壊力は?
「〝超時間の影〟……十倍よ」
その魔訶不思議な能力を、少女は顔色ひとつ変えず明かした。
「魚ごときが、わたしの時間の貯蔵に勝てると思った?」
なぜだろう。本来吹き上がるはずのトウコの鮮血は、出るそばから次々と渇いて少女の腕に集まっていった。
いつ取り出したものか、少女の片手には一冊の本が開かれている。よく目立つ金属質の装丁に覆われた奇妙な辞典の名称を、少女は冷然と口にした。
「〝断罪の書〟……さっき言ったよね、あなた。わたしのために働きたいって。歓迎するよ、〝魔性の海月〟。そのときが来るまで、本の一ページとして待機してな」
おお。少女の言葉どおり、貫通した腹部を始点に、トウコはどんどん紙片と化して〝断罪の書〟に吸い込まれていくではないか。立体から二次元への変貌……封印の呪力だ。
ふと思いだしたように、少女は告げた。
「さっきわたしに歯向かったおしおきだ。特別サービスであなたには、本の牢獄で無限の拷問を味わってもらう。ここでは発狂も自害もできないから、たっぷりの服役中、せいぜい我が身の愚かさを反省するといい」
消えゆく意識と襲いかかる絶望をぬって、トウコは叫んだ。
身をひるがえして立ち去る少女の名を。
「ホーリー……!」
ぱたんと本が閉じられたときには、トウコの姿は跡形もなくその場から消えていた。
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