第四話「祈願」

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 日の出の時刻……場面は美須賀(みすか)川のはるか下流にうつる。  あたりに人影はなく、濃い朝もやのせいで見通しも悪い。  岸に近い水面ではじけたのは、いくつかの気泡だ。 「くそったれがッ!」  悪態とともに大きく水しぶきをあげ、陸に人影が這い上がるのはいきなりだった。  ああ、片野透子(かたのとうこ)ではないか。  流星群をもろに浴びた衣服はぼろぼろだが、その下の素肌は呪力の輝きをはなってゆっくりと回復しつつある。 「プロトコル(B)〝疑似水呪(ウンディーネ)〟……」  たしかにセラの攻撃は致命傷に近かった。  しかしとっさに発動したヒュプノスの治癒能力のおかげで、トウコはなんとか一命はとりとめている。そのまま川に身をまかせ、ときには泳いで潜り、組織(ファイア)の追尾をまいてなんとかここまで流れ着いたのだ。  呼吸を乱しながら、濡れ鼠そのもののトウコは立ち上がった。髪やスカートをしぼって水を払いつつ、ひどく不快げな口調で毒づく。 「くそ、くそ、くそ……なんてミジメな。とはいえ、井踊静良(いおどせら)はただ者ではない。いまはまだ勝てないな」  湿った足跡を残して歩くかたわら、トウコの横顔は挑戦的にゆがんだ。 「とりあえず海外にでも高飛びするか。遠く離れた場所で追手の目をかいくぐり、呪力の素養がある人間を食って食って食いまくる。そしてあたしは〝輝く追跡者(ヴェディオヴィス)〟をはるかに超える力を手に入れるのだ……勝負はこれからだぞ、組織(ファイア)」  だれもいないはずのそこに、謎の声が割り込んだのはそのときだった。 「きみの役目はいったん終わりだよ、〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟」 「!」  いったいどこから、いつの間に現れたのだろう?  野生の肉食獣じみたトウコの感知器(センサー)が、なにひとつ反応しなかった。  トウコの背後に立っていたのは、ひとりの見知らぬ少女だ。すらっと細いその体を、どこか未来的なスーツで包んでいる。こんなか弱そうな小娘が、なぜこんな時間にこんな場所に?  いつものトウコなら、じぶんの結果呪(エフェクト)を知る邪魔者なぞ即座に殲滅しているはずだ。  なんとそのトウコが、ひとつふたつ後退った。少女の無言の威圧感におびえて。  殺人鬼〝食べ残し〟の第六感は、さっきからその耳にやかましく知らせている。  こいつはヤバい。とんでもなくヤバい。  おぼつかない表情で、トウコはたずねた。 「お、おま……あなたは?」  端正な顔をあげて緑のざわめきを望みながら、少女は静かに答えた。 「つぎはわたしが行く、と大見得きっておきながら、出る時間軸をおもいきり間違えてしまったようだわ。プログラムの不具合? 呪力の乱れ? いずれにせよ、ひとまず未来へ帰って仕切り直しね」 「み、未来……!?」  トウコの顔に激震が走った。 「ま、まままさか、あなたは……!」  ろれつの回らないトウコを尻目に、少女は淡白につぶやいた。 「りっぱに役目を果たしたみたいだね、ヒュプノスは。危険な結果使い(エフェクター)の因子を四人もあぶりだし、を始末してみせた」 「は、はんぶん? 〝墳丘の松明(グレイイーグル)〟と、あとだれ?」  ヒュプノスから奪った記憶の奔流が、トウコの脳裏を駆け抜けた。  未来の存在。  頂点の魔女。  究極の混合体。  最強の成功例。  さらに、さらに……  眼前の少女のすさまじさを瞬時に悟り、トウコは地面へひざまずいた。 「お目にかかれて光栄です! ここで出会えた幸運と奇跡! あたしはあなたに仕えます!」  どうみても年上の大人が平身低頭するのを、少女は底知れない眼差しでながめた。 「……まあ、ついてくるのは自由だわ」  無感動にうなずいて、少女はトウコから視線を外した。 「その力、〝カラミティハニーズ〟に対抗するにはうってつけね。せいぜい役に立ってよ」  しゃちほこばって、トウコは元気に返事した。 「はい!」  背中を向けた少女めがけ、トウコはたちまち結果呪(エフェクト)の肉食魚をはなった。朱に染まった牙の山々は、少女のスレンダーな体をまっぷたつに食いちぎる。  瞳をきらめかせ、トウコはせせら笑った。 (こいつの力を取り込めば!)  なまなましい音がした。  気づいたときには、トウコの体はうしろから少女の細腕につらぬかれている。完全に背骨が折れていた。瞬殺だ。  回り込むその瞬間すら見えなかった。なんだこの破壊力は? 「〝超時間の影(シャドウ・オブ・タイム)〟……十倍よ」  その魔訶不思議な能力を、少女は顔色ひとつ変えず明かした。 「魚ごときが、わたしの時間の貯蔵に勝てると思った?」  なぜだろう。本来吹き上がるはずのトウコの鮮血は、出るそばから次々と渇いて少女の腕に集まっていった。  いつ取り出したものか、少女の片手には一冊の本が開かれている。よく目立つ金属質の装丁に覆われた奇妙な辞典の名称を、少女は冷然と口にした。 「〝断罪の書(リブレ・ダムナトス)〟……さっき言ったよね、あなた。わたしのために働きたいって。歓迎するよ、〝魔性の海月(ヴーゾンファ)〟。そのときが来るまで、本の一ページとして待機してな」  おお。少女の言葉どおり、貫通した腹部を始点に、トウコはどんどん紙片と化して〝断罪の書(リブレ・ダムナトス)〟に吸い込まれていくではないか。立体から二次元への変貌……封印の呪力だ。  ふと思いだしたように、少女は告げた。 「さっきわたしに歯向かったおしおきだ。特別サービスであなたには、本の牢獄で無限の拷問を味わってもらう。ここでは発狂も自害もできないから、たっぷりの服役中、せいぜい我が身の愚かさを反省するといい」  消えゆく意識と襲いかかる絶望をぬって、トウコは叫んだ。  身をひるがえして立ち去る少女の名を。 「ホーリー……!」  ぱたんと本が閉じられたときには、トウコの姿は跡形もなくその場から消えていた。
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