蒼穹の翼

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蒼穹の翼

 声が聞こえた。とても綺麗とは言えない、荒々しい声だ。耳元で響くその声は酷く騒がしく、脳に突き刺すような痛みを伝えてくる。ぐらつく視界と思考にはあまりにも強烈な声に、瞼をこじ開けた。うるさい、と言おうとするも喉が枯れて声が出ない。ぐっと口を閉ざして固唾を飲み込み、鼻から息を吸い込んでもう一度。 「うるせーなぁ、聞こえてるっつーの」  自分でも驚くほどに擦れた声を聞き取ったらしい、彼は途端に口を噤んだ。そちらを見ようとして、視界が殆ど機能していない事にやっと気付いた。瞼をこじ開けたはずなのに、何も見えないのだ。けれど眼前に彼が居るのは分かった。身体が鉛のように重たく、まるで深い泥沼へと沈み込んでいくかのような感覚がする。多分もう、持たないのだろう。漠然とそれを理解したところで、意外と冷静だった。 「……腹、減ったなー……」  実際には空腹は感じていなかった。それでもそう感じたのは、胸が満たされていないからだろう。自分の人生に満足したかと問われれば否だが、これ以上を生き続けるのは息苦しい。恐らく少し、疲れたのだと思う。 「馬鹿、だよなぁ。いや、ガキん時から馬鹿なのは確かだったんだけどな」  教養や学問がどうのではない。これでも文字は書けたし、数字の計算も出来たし、最低限の言語も喋れた。だが人間として馬鹿だったのだと自分でも思う。野良猫や野良犬ですら出来る事が出来ない人間。動物以下だ。そんな自分があまりにも滑稽で、惨めで、醜くて。それを少しでも誤魔化したくなって、見えない瞳で彼を見やる。 「お前も、腹減っただろ。……喉も渇いたよなぁ、さっきあんだけ騒いだし」  自分よりも彼の方が、よっぽど立派で逞しく生きている。自分の命くらい自分で守るし、食い繋いで生命を維持する事も容易く、何より彼の方が圧倒的に子を育む能力は長けている。彼ならば必ず子の腹を満たし、子を護り、子に生きる術を教えていける。子を育てられずに死なせたり、売ったり捨てたりする人間とは大違いだ。彼を認識できない瞳を細める。そんな彼を見習って、今自分に出来る事はなんだろうか。霞む視界と思考で考える。殆ど擦れて吐息でしかない声で彼の名を呼ぶと、人間よりも遥かに発達している耳でそれを聞き取った彼が一歩近づいて来たのが分かった。泥沼に沈みゆく身体に渾身の力を込めて、彼に向けて指先を伸ばした。その指先に彼が合わせてくれたらしい、硬い何か……彼の嘴を、撫でた。今の自分に出来る事。それは、多分。 「……お前に頼みがある、ルクト」  はて、今日は雨が降っただろうか? 指先に触れた彼の嘴が、少し濡れている気がした。  声が聞こえた。煩わしく耳に残る、泣き声だ。そうする事でしか助けを呼べない、哀れで小さく惨めな生命の声だ。放っておけばそのうち聞こえなくなる。この街ではよくある事だ。泣き疲れて静かになるか、あるいは誰かの気に障って黙らせられるか。どちらにせよ関係のない話だ。今日は虫が煩いくらいの気持ちで、月明りしかない泥沼の街を歩いていく。やけに月が明るい夜だ、動きに合わせて揺れる影と共に歩く。ぼんやりとそれを眺めながら歩いて、歩いて、歩いて……ぐしゃり、と後ろ髪を掻いては口の中で舌打ちをした。 「うるせーなぁ、聞こえてるっつーの」  此方の言う事など理解出来ないだろう赤子が、ぽつん、とそこに居た。……この街ではよくある事だ。薄汚い布に包まれた生まれたばかりの赤子は、まともに乳を与えられる間もなくただ泣き叫ぶだけでその生命に終わりを告げる。呆気ない人生……いや、人生と呼べるほどの時を生きる事もなく、死ぬのだ。それがこの赤子に与えられた運命だ。 「生まれてきたのが馬鹿みてぇだな、お前」  そんな赤子に同情しながら、しゃがみ込んでは気まぐれに指先を伸ばしてみた。恨むなら後先考えずに過ちでお前をつくった男と女を恨む事だ、とその鼻先を突っつく。赤子はその衝撃に驚いたのか、泣き止んではなんとも形容し難い変な声を漏らした。 「この街は、自由なんだよ。誰が何したって、誰も何も言わない」  法のない、無法地帯。誰が何をしても罪に問われることは無いし、罰が下ることも無い。誰が何を奪ってもいいし、誰が何を捨ててもいい。故にこの赤子が両親を恨んだって、両親が裁かれる事も責任を問われる事も無い。同様にこの赤子が奇跡的に生き延びたとして、将来両親を突き止め恨みを晴らす為に殺したとしても、裁かれる事も責任を問われる事も無い。何をしてもいい、自由の街。此処は、そういう場所だ。 「こんな街に生まれた運の無さには、まぁ同情してやるよ。次はもう少しマシなトコに生まれるこった」  早々に立ち上がろうとして――ふ、と指先に極僅かな熱が走った。指先が何かに引っ掛かった……いや、違う。まだ使い方が分からないだろう小さな赤子の手が、伸ばしていた指先に触れ反射で掴んだのだ。驚くほどに弱々しい力は、何故だろう不思議と強制力があった。くん、と何処かで何かが引っかかる感覚がして眉を顰めた。気付かぬ振りをしようと思ったのだが、まさかそれが伝わったのか、赤子は再び激しく泣き始めた。小さな身体の何処から出しているのかと問いたくなる程の泣き声に圧倒される。膝の上で、もう片方の手で頬杖をついた。そんなに泣き喚いたら早々に力尽きてしまうだろうに……いや、むしろ早い方が良いのかもしれないが。そんな事を考えながら、頬杖を止めて後ろ髪を掻いた。嫌々、渋々、泣き喚く赤子を見やる。鼻から息を吸って、口から盛大に吐き出す。 「……この街は、自由の街だ。誰が何したって、誰も何も言わない」  まるで自分に言い聞かせるように、そう繰り返した。誰が何を奪っても、誰が何を捨てても、誰も何も言わない世界。そんな世界に運悪く生まれて、此処で泣き喚いて死ぬ。それがこの赤子に与えられた運命で――だけれど、ならば。 「なら、俺が今此処でお前を拾ってやったって、それは俺の『自由』だろ?」  名も知らぬ赤子の『運命』を気まぐれで変えてやるのもまた、自分の『自由』だ。
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