蒼穹の翼

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 もしかしたらそれこそが自分の『運命』だったのかもしれない、と今になって思う。自分にとっては気まぐれでしかなかった事が『運命』に導かれた行動であったと、そんな妄想を稀にする。もしかしたら人間の言動は全て『運命』に定められた事で、そこに自分の意志など関係ないのだと。人間は自分の意志で自由に生きる事は出来ず、『運命』に植え付けられた意志を持ち、それに従って生きているのではないかと。とは言え、それを確認する術はない。今日も『運命』に植え付けられた意志をもって、自由なき『運命』を怠惰に生きる。存外、それも悪くはないと自分は思う訳で――夢現から目を覚ます。酷い気怠さを感じながら二回ほど瞬きをしては、視線を滑らせる。何処からか差し込んでくる日差しが朝を知らせていた。 「起きたか、リーダー」 「ん……あぁ……」  気配で気付いたらしい、傍にいた男が自分を呼んだ。口内が乾燥していて、喉から絞り出した声は掠れていた。固唾を飲みこんで少しでも口内を潤そうとしたが、どうにも水分が足らない。見かねた男がボロ布から水筒を取り出し、それを放って来た。寝ぼけ眼で受け止めた水筒の蓋を開け、口に注ぐ。生温い砂利の混じった泥水のようなそれは、味が最悪だ。しかし人間の適応力とは優れた機能を持ち、慣れてしまえば普通に飲めてしまう。 「仕事明けだっていうのに、寝起きに女と酒じゃなくて野郎に泥水かよ。最悪だな」 「贅沢は帰ってからだってお前が決めたんじゃんか、俺の所為にすんなよ」  それでも堪らず込み上げてきた愚痴を零せば、そっくりそのまま返すと言わんばかりに掌から水筒を持っていかれた。貴重な水源だ、互いに譲りあってきたがもう遠慮することは無い。故に男は水筒の中身を一気に飲み干しては、身を持ち上げた。 「さ、とっとと帰ろうぜ。アイツ、きっと寂しがってんぞー」 「……帰りたくねーな……」 「遅くなればなるほど、後がうるさいぞ?」  途端、酷く帰りたくなくなって盛大な溜息を吐きながら天を仰いだ。空は高く、澄んでいた。泥のような自分達を見下ろす蒼穹は、残酷な程に綺麗だ。まるで生きている事さえ罪だと言わんばかりの空が嫌いで、視線を地に落とす。酷く汚れた手足が見えた。綺麗なものを見ると酷く息苦しくて生き辛くなる。二度目の溜息を吐きながら後ろ髪を掻き、立ち上がる。足元には昨晩、湿気て火が点けられずにそのまま放り捨てた煙草が転がっていた。それを視界に入れながらも認識することは無く、歩き出した。  商業国家ルガラント中部、ペルカナ。その街は国内最大規模を誇る、スラム街である。浮浪者、流れ者、奴隷、荒くれ者などが溜まりに溜まった、吹き溜まりの街だ。数多くの盗賊ギルドが存在し、窃盗、殺人、闇取引、人身売買など日常茶飯事だ。また、余所者を酷く嫌う傾向がある。この街は様々な理由から最下流へ流れ着いた者達の成れの果てだ。ある者は追われ、ある者は捨てられ、ある者は売られ……総じて貴族や権力者に搾取され、それから逃げてきた者達ばかりだ。故に貴族や権力者を嫌い憎む者は多く、この街の人口はルガラント国の全人口の五分の一を占める。即ちこの国にはそれだけ生活に苦労を強いられている者達が居るという事だ。  また、この街は国の法が一切適用されていない。各地を転々と移動しながら生活を営んでいる民族、ファエール一族も時と場合によっては国の法が適用されない事もあるが、かの民族はこの街と違って統率者が居る。ファエール一族はしっかりと統率者が国と交渉した上でそれを認められており、しかしそうではない完全な無法地帯であるペルカナを何故国が放っているかと問われれば、理由は簡単で迂闊に手が出せないからだ。その気になればこの街は国の軍に一矢報いる事が出来る程の人口を誇ると言うのも理由にあげられるが、単純な戦力だけで考えれば当然、国はこの街を制圧する事など容易い。故に国がこの街に手出し出来ずにいる最大の理由は、この街が置かれている地形の所為だ。  北は砂漠、南は樹海に挟まれたこの街は大気が不安定で天候が急激に変化する事が多く、南に広がる森には非常に狂暴な野生動物が数多く生息している。その中でも最も猛威を振るっているのはペルカナより南に広がる樹海を抜けた先、ルガラント国南海を分断する国内最高峰を誇る高山、天空の山に生息しているかの有名な幻影鳥だ。とても人間が生活を営める環境ではない高山で生きる幻影鳥は肉食の為、しばしば肉を求めて下山してくる。その時に彼等が狩りを行ったり、羽を休めるのがペルカナだ。街の周囲に広がる荒野は身を隠す場所が無く、故に殆どの動物達は樹海に身を隠している。狭い世界で生き残らねばならない為、そこに住まう動物達は通常よりも気性が荒く狂暴性が高いのだ。  幻影鳥はその美しさと希少性から乱獲されて以来、絶滅危惧種に指定するか議題に上がっている。しかしその狂暴性と生命力、そして繁殖力の強さから元々国ですら手を出しにくい野生動物であるため、今はまだ絶滅危惧種として指定されていない。そんな幻影鳥は勿論、ペルカナにとっても非常に脅威だ。だが脅威である故に国から身を隠しやすいのも確かで、ある意味では幻影鳥はペルカナにとって最大の敵でありながら自らの身を守ってくれている存在でもある。住めば都と言う言葉はこの街の為にあるようなもので、この街に好き好んで住まう者は存外多いという事を国は知らないのだ。 「クソっ、あの野郎何処に行きやがった!」 「逃がすな、そう遠くには行ってねえはずだ!」  そんなスラム街、ペルカナは日夜を問わずに騒々しい。広義に盗賊は深夜に行動を起こすと言うが、この街では深夜に行動を起こす者が多すぎて毎晩がお祭りだ。故に深夜ではなく早朝に行動を起こす者も居て、騒がしい声にどれだけの人が眉間に皺を寄せただろうか。 「またリベロの連中に違いねぇ、アイツら調子に乗りやがって!」  その中で唯一、ふ、とその声を聞いて口元を緩める少年が居た。近づいてくる声に胸を高鳴らせ、荒くなる呼吸をぐっと押し殺す。もうあと五メートル、三メートル、一メートル……その瞬間を待ちわびていた、とロープの直ぐ傍に構えていたナイフでそれを断ち切った直後、獲物は罠に引っ掛かった。 「うわっ、なんッ――うわぁぁっ!?」  咄嗟に両耳を塞ぐ事で騒音による鼓膜へのダメージを軽減させながら、確かな手応えにニヤリと口元を緩ませ、少し高さのある建物の影から身を放った。既に朝日が差し込む時間だ、太陽はくっきりとその身の影を地に映し出す。それを認識した身動きのとれぬ獲物が咄嗟にそちらを見上げようとして――ガッ、とまだ幼い足裏がその頭部を踏みつけた。 「ッ! やっぱりテメ」 「やぁやぁ、今日もお互いにクズみてーな朝だな! おはようございました、っと!」  間を置かずにもう一人の頭部も強く蹴り上げれば、その場は静まり返った。自分よりも幾分も大きな男達の背を踏みしめては、しゃがみ込んでみる。広義に子供より強者と指し示される事の多い大人を踏み台にする気分は、何度味わっても最高だ。にんまりと一人満面の笑みを浮かべて暫しそれを堪能してから、少年は男二人の衣服を探り始める。期待はするものではないが、物色はこの街においては礼儀作法みたいなものだ。 「……お? ぉおー? なんだ、結構良いモン持ってんじゃねーか! ラッキー!」  故に稀にそれらしい物が手に入ると、幸福感に満ちる。生憎と飲食物ではないが、喫煙者らしい男の懐から数本の煙草が出てきた。決して腹を満たす物ではないが、何かを噛むだけで神経は刺激され腹が少し満たされるような感覚が得られる。火さえ手に入れば味もするし、この街においては当たりに部類する品だ。 「次は食いもん頼むわ、もう三日も泥水しか飲んでなくて腹ペコなんだわ!」  今日はこれで凌ぐからと少年は煙草を口に銜えると、ひょい、と軽い足取りでステップを踏みながらその場を後にする。日に照らされてその醜さがより顕著に浮かび上がる時間、少年は周囲の光景とは不似合いなご機嫌な様子で歩いていく。街の至る方角から何やら騒音が聞こえてくる。少年と同じように早朝に行動を起こしている者達が響かせている音だ。賑やかな街だと思う者は少ないように見えて、実は意外と多いのかもしれない。 「(さぁて、今朝で死んだヤツはどれだけ居るかなー)」  昨日まで存在していた人間が死んだり、ギルドや建物がなくなったり、逆に誰かが命辛々この街に流れ着いたり、誰かが適当に産み捨てた赤子が転がっている事などが日常的に起こりすぎている。故に、誰も気にしない。誰も何も言わないし、誰も何も感じない。街の外から見れば彼等の感覚は麻痺していると言うだろうが、この街に住まう当の本人達は自分の感覚が麻痺しているという自覚はない。そう、この街は自由だ。誰が何したって構わない、自由の街。今少年が街の何処かに転がっている人間から何かを盗んだり、あるいは寝ている誰かを殴り殺したって誰も何も言わないし、無論逆も然りだ。少し迷って、止めた。まずは行くべき所に行ってからだ、と自分を諫めた。 「(ラトル達、帰ってきたかな?)」  軽い足取りのまま、一つの朽ちた建物へと辿り着く。鍵なんてものはついていない、世間一般的に見れば廃虚でしかないその扉を押し開き――盗賊ギルド、リベロ。ペルカナに数多く存在するギルドのうち、中規模を誇るギルドだ。若年層を中心としたメンバーで構成されているのが特徴で、この街の風習である『自由』を重要視している。故に特に縛られる事を嫌う青少年が多く所属しており、他と違って殆ど規律が敷かれていないギルドは、遊び盛りの少年に非常に適している。 「うぃーっす!」  軽い掛け声とともに首を伸ばすと、その動きに合わせて汚れた焦茶の髪が揺れ、伸び切った前髪の奥で瞬いた漆黒の瞳が室内を覗き込んだ。早起きか夜更かしか、どちらか分からないが幾つかの視線が刺さるのを感じた。その視線の中に一つ、酷く気怠そうな藍色の瞳が見えた。少年と同じように手入れなどされていないボサボサの黒髪は、つい最近随分と雑に切られたばかりで四方に跳ね放題だ。 「……ぁあ?」 「お、噂をすれば」  外見と顔に見合った気怠そうな青年の声が漏れ、藍色の瞳が歪んだ。とは言え歪んでいても分かる程に整った顔をしている青年だ、普通の顔をして黙っていればなんとやら、だ。一方でその隣にいたもう一人の青年は、人の良さそうな顔をしている。爽やかな青髪は少し伸び始めており、襟足に到達しそうだ。優しい水色の瞳は、この街にはまるで似合わない。対照的な顔をした二人の青年に、少年が目を輝かせた。 「ラトル、ジェス!」 「おー、今日も朝から元気だなぁ」 「単純にうるせ……ぐッ!?」  そんな少年に青髪の青年ジェスは口元を緩めながら、ひょい、とその場で身を引いた。しっかりと助走をつけて飛び込んできた少年を避けたのだ。その結果、少年の全身タックルを腹部に受けたのは黒髪の青年ラトルの方だ。彼が寄りかかっていたテーブルごと倒れかけるものだから、ラトルは慌てて両足に力を込めて身を支えた。 「おけーり、ラトル! 大丈夫だったか、怪我とか」 「…っ…てぇな、いちいち飛び込んでくんじゃねぇよ、このクソガキ!」 「ぐっ!?」  青年と少年ではまだ背と腕力に大差があり、目を輝かせながら話し始めた少年の頭を掴んでは引きはがす。ぐき、と少年の首が嫌な音を立てたが自業自得だろう。ラトルが本気で嫌がっている事は理解したらしい、変な方向に曲がった首を押さえながら一度離れるも、少年は酷く不満そうに口元を尖らせた。 「いッてーな! なんだよ、折角人が心配してんのに!」 「怪我の心配してんなら突っ込んでくんじゃねぇよ、馬鹿か」  これで本当に怪我でもしていたら、その衝撃で傷口が開いたり悪化する可能性は大いにあっただろう。故にラトルは少年に酷く呆れるも、少年が口に銜えていた随分と不似合いな煙草を認識しては、更に顔を歪めて目を眇めた。 「つーかテメーはなんでまた煙草なんて銜えてんだよ」 「ん、さっき拾った! けど噛むだけじゃあんま効果ねーからさ、火ィ貸してくんね?」 「ガキが吸うもんじゃねぇんだよ、おこちゃまはこれでも銜えてろ」  言いながらラトルは少年の口から煙草をもぎ取ると、あ、と少年の開いた口に素早く懐から取り出したものを詰め込んだ。むぐ、と口に詰まった柔らかな感触に漆黒の瞳が驚いたように瞬いては、視線だけでそれを見下ろした。香ったのは滅多に嗅ぐことのないバターの香りで、口内に広がったのはふわふわと柔らかい食感と仄かな甘みだ。ぱ、と漆黒の瞳が輝くと少年は両の手でそれを口から剥がした。 「っ、パンだ! やっべすげー、超高級品じゃねーか!」 「お前ら腹減っただろ? けど暫くは大丈夫だ、一日一個は食えるだけあるぞ」 「マジで!? やった!」  一体何日振りだろう、久しくまともな形をした固形の食物に少年の目は輝いた。暫くは贅沢が出来るとジェスが持ち帰ってきていた大きなボロ袋を持ち上げれば、更に少年は目を輝かせ――それを阻むかのように、今度はジェスが少年の頭部を掴んだ。何事かと丸められた漆黒の瞳が、その顔を見た。 「んで?」 「へ……え、なに……?」 「俺はお前に、俺達が帰るまでは絶対に安静にしてろ、って言ったはずなんだがなあ」 「……あ……」  途端、少年の顔が凍り付いた。その様子を横目に見ていたラトルは何処か逃げるように半歩退き、少年の口からもぎ取った煙草を口に銜えながら踵を返した。 「んじゃ、俺とりあえず一服いってくらぁ」 「ういよ、お疲れさんー」 「あっ、ちょ、ま、待てよラトル、助けろよ……!」  早々に撤退を決めたラトルの背に助けを求めるも、自業自得だ、と言わんばかりに彼はぴらぴらと手を振るうと部屋の奥へと姿を消した。はて、随分と久々に与えられた食物を今すぐにでも頬張って味わいたいのは山々なのだが。 「さて、お前は一度傷の具合を診せろや、ウィルオン」 「はっ、はぁ~い……」  それに逆らう術も度胸もない少年、ウィルオンはジェスの言葉に返事をしたが、その声は酷く震えていたし哀れな程に裏返っていた。その声を聞いた周囲の者もまた、自業自得だ、と自分の身を守るように視線を逸らしていた。
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