春に咲う君

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 優しい嘘つきは言った。 「これで私たちは共犯者」  細い小指を掲げて、彼女は微笑む。  ビルから吹き降ろす風。  ヘッドライトが影法師を走らせる。  街路樹の根元。すこし柔らかくなった土を愛しそうに眺めて、彼女は立ちあがる。  湿り気を帯びた土の下に、隠された宝物。  小さな花が開く時に僕は居ない。  見知らぬ人が目を止めて、風に飛ばされて来たんだろうかと思いを馳せる。  そんな光景を夢見て、僕は水の残ったペットボトルの蓋を閉める。 「またね」 「うん。また明日」  花ゲリラの彼女と最初にあったのは、早春のまだ暗い時間。  僕がリハビリのためのランニングをするようになって、距離をすこしずつ伸ばし始めていた頃だ。  行程のほとんどをウォーキングに変えることも、まだ多かったのだけどね。  角を曲がった時、そこに影があった。  一瞬、悪化したのかと思って酷く焦ったよ。  欠けた視野は戻らないって聞いていたから。 「……っ!?」  浅く漏れ出た悲鳴に影が気付く。  影は人だった。  華奢な体格の少女が街路樹の根元に座り込んでいたんだ。  黒いスウェットトップスに同色のタイトスカート。デニール数の高そうなストッキング。ゴツめのスニーカーだけが白い。 「なに? 幽霊かと思った?」  透明な笑顔。  スコップでちょいちょいと手招きされて、僕はゆっくり近づいた。 「何してるの?」 「春をね。届けようと思って」  彼女が花の種の包みを取り出す。 「へぇ。素敵だね」 「違法行為」 「え?」 「他人の所有地や公共の場所に、勝手にこういうことをしてはいけません。普通に処罰の対象になるよ」  びりりと袋を破って、種を三つてのひらに乗せる。細い指で摘んで、彼女は窪みに種を埋める。 「どうして、君は違法だとわかっててそれをするの?」 「私は花ゲリラだから。違法行為って理解しとかないと駄目なんだよ」 「ふぅん」  その時の僕にはよく分からなかったけれど、彼女の言葉には誇りと切実さが垣間見えた。 「ねぇ、キミ。ここを覚えていてね」  トントンと靴を鳴らして彼女が身を翻す。 「それじゃあ」 「うん。さよなら」  僕はランニングを再開する。  術後の経過は良好で、僕は順調にランニングの範囲を拡大していった。行く先々で彼女と出くわすことも時々あって、僕たちはその度、すこしだけ言葉を交わす。 「外来種はだめなの。そこは弁えなくっちゃ」 「そうか。ごめん」  本屋で貰った花の種を見せると、彼女は困った様子で首を降った。  僕は花を育てたことがなかった。おまけについてきた種を、彼女なら活かしてくれるだろうと思ったのだけど。 「でもこの子は綺麗な花を咲かせるよ。植木鉢に植えてみたらいい。私でよかったら相談のるし」  彼女へのささやかな贈り物になるはずだった代物は、僕たちの会話をすこし引き伸ばす。  回数が増えていく。  彼女が種を植える間、僕は足を止めて。  今日出た芽のこと。世話のことを相談する。  お互いのことは、話さなかった。  その時間だけ、僕は息ができる気がしたんだ。  あくる日、医者にそろそろいいんじゃないかと言われた。  周囲が慌ただしくなって、僕は遅れた進学のための準備に取り掛かる。  だから、その日。  たまたま、気まぐれを起こしていなければ。  その道を通りかかっていなければ。  僕は、君と罪を共有することもなく、この街を去っていた。  (今日は冷える)  花曇り。逃げる息が白い。  僕はペースを保ったまま、その角を曲がる。 「!?」  視界に飛び込んできたのは、うつ伏せに倒れる彼女の姿。  名前を呼ぼうとして気づいた。  僕は彼女の名前を知らない。  駆け寄って、仰向きにすれば、彼女は苦しそうにしながらも、僕の服の裾を摘んだ。 「……か、ばん」  バックパックが離れた場所に落ちていた。膝に擦り傷。ひったくり? 荷物ごと引き摺られて手放された? でもこの苦しみよう。  僕は混乱しながらも、バックパックを拾う。半分空いたファスナーの隙間から赤い十字架のマークの札が見えた。  振り返ると彼女が頷く。  取り出して、そこに書いてある事柄を読む。 "持病があります。" "薬が内ポケットの中にあります" "倒れていたら主治医に連絡を。連絡先は──"  僕は内服薬を取り出して、持ち歩いていたスポーツドリンクと一緒に渡す。蓋を開けてなくてよかった。  彼女を支えるように抱きかかえて、背中をさする。  やがて呼吸は落ち着いて、彼女は困ったように微笑んだ。  彼女をおんぶして、蛇行する道を下っていく。 「私ね。もうすぐ死んじゃうんだぁ」  実感の篭ってなさそうな口調。  やせ細った少女は、僕の背中から空に手を伸ばす。  月が遠い。 「倒れちゃったし、入院待ってはもう言えないかも」  透明な笑顔。肩越しに伝わる震える身体。 「だから、きっともう。キミともさよなら──」 「ねぇ。僕も一緒に花の種を植えてもいい?」  どんな気持ちで彼女は、花の種を植えていたのだろう。  在り方を定めて、願いを託して。  見たかった景色を夢見て。 「うん。いいよ」  僕たちは多くの人が行き交う道を、最後の場所に決めた。 「これはなんの花」 「咲いてのお楽しみ」 「またね」 「また明日」  僕たちは嘘をつく。  偶然に見せかけた嘘で人々に春を運ぶ。  彼女は足を引き摺って、ゆっくりと家路についた。  僕はそのまま引っ越して、彼女の姿を見ることはなくなった。  彼女のその後を知らない。  だから、春になる度に。  街角で、小さな花を見かける度に。  あの日のままの彼女が咲う。
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