現場五分前仮説

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「…さて」 ああ、探偵さまの登場だ。 それも゛名”がつく奴だ。語頭に、この接続詞を使う資格を持つものは、この世界において探偵さましかいないのだから。 「吾輩の前には、死体が転がっている訳だが。」 小太りで茶褐色の髪を撫でつけた中年男。 落ち着き払った、しかしどこか愛嬌がにじむ彼は、ゆったりと下を見る。 つられて俺も足下を見る。 霧が晴れるように、俺の眼下にも言われた通りに死体が現れた。 オーソドックスな――というと不謹慎だろうが――刺殺体。 紳士然とした、スーツを身にまとった壮年男性。体躯の立派な、敏腕営業部長としてインタビューに答えていそうな、いや、もしかすると社長として新鋭企業を引き連れているかもしれない。そんな自信を感じさせる男――の、死体だった。 銀色の、少し曇ったナイフが、一直線に胸に突き立っている。 血があまりこぼれていないため、一瞬眠っているようにも見えるが、そのあまりに青い顔色から、死体であると直観的に理解する。探偵さまがそう断じるのであれば、生きているはずもないのだ。 「誰だ…これ……」 俺の声は少し枯れていた。 不安をひた隠しにするような、そんな声だった。 いや。待ってくれ。 そもそも、俺が、<誰>なんだ。 記憶を手繰ろうとしたが、俺の頭の中にはさっきまでの記憶が一切ない……。どうして。ワットダニット。 慌てて、ヒントを求めて体をまさぐる。 黒っぽいベスト。小柄で、細い腕。頬にそっと手を当てると、ひやりとしていて、少し骨ばっている。名前も人種も分からないが、呟いた声色から、若い男性、なのだろう。 「なぁ…君。ここは……、ゴホン。吾輩たるもの、まずは小手調べに名探偵の役割を果たさせてもらおう」 探偵さまは、一瞬困ったような表情をして、それから最初の優雅な雰囲気を取り戻し、俺の方をじっと見た。 「死体は一つ。世界は密室、人口は三人。したがって――君が犯人だ」 芝居がかった動作で、口ひげを触って、朗々と言い切る。 「……なぜなら、私は名探偵だからね。犯人たりえない」 帽子をかぶり直し、淡い青い目でじっと俺を見る探偵さま。嗚呼、説得力。 次はお前が語る番だぞ、と言われたようだ。 否定、しなくてはならない、のだろうか。 俺には直前の記憶すらない。けれど正直に言ったところで、言い逃れだと捉えられてもおかしくない。それとも…記憶が抜け落ちているだけで本当に俺が犯人なのか。ナイフの感触を忘れてしまっただけなのか。 「……っ、そう、です」 どうしてだ。口が勝手に動いた。 「犯人は、俺。俺がやった」 そこからは滑り落ちるように、俺は見知らぬ動機を語りはじめた。いや、俺ではない。俺の口が、だ。 「――そうだ、あの男は俺にナイフを与えた。あの子のことで恨んでいるのを知っていたのに、だ。意気地なしに殺せるものならな、と笑ったんだ。目の前が暗くなったよ、あんたも同じ状況になったら、わかるだろうさ」 がくんと体の力が抜け、その場にへたり込む。さながら、糸が切れた操り人形のように、俺は操られていた。 俺の口の話を黙って聞いていた探偵さまは、突然、目を白黒させ、苦し気に言葉を絞り出す。 「……ほんっ…、とうに?」 つるつると動機をしゃべっていた俺の口が、ふと止まる。 「ここに、あったのは、吾輩と、君と、この、死体……。前も後もない。それだけ、だった、ろう……?」 薄青の目は、犯人を追い詰め堂々とした探偵のそれではない。 完全に彼は困惑していた。前かがみになり、それでも何か言おうとする。 俺ははっとして、存外おしゃべりな口を何とか操縦する。 「もしかしてっ、あなたも……」 「吾輩、も、おそらく、この死体も…」 「……それじゃあ、犯人、は」 謎の息苦しさに見舞われながら、俺は聞く。 何も思い出せないのに、もう長くない、そんな予感がした。 「世界」名探偵は息も絶え絶えに飢えを指さし、最後に呟く。 「それにしても、欺くトリックも、伏線もないなんて……ミステリとして陳 / 世界が閉じられた。 原稿用紙にして4枚。 丸められた失敗作はゴミ箱へと綺麗な軌跡を描いた。
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