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「…さて」
ああ、探偵さまの登場だ。
それも゛名”がつく奴だ。語頭に、この接続詞を使う資格を持つものは、この世界において探偵さましかいないのだから。
「吾輩の前には、死体が転がっている訳だが。」
小太りで茶褐色の髪を撫でつけた中年男。
落ち着き払った、しかしどこか愛嬌がにじむ彼は、ゆったりと下を見る。
つられて俺も足下を見る。
霧が晴れるように、俺の眼下にも言われた通りに死体が現れた。
オーソドックスな――というと不謹慎だろうが――刺殺体。
紳士然とした、スーツを身にまとった壮年男性。体躯の立派な、敏腕営業部長としてインタビューに答えていそうな、いや、もしかすると社長として新鋭企業を引き連れているかもしれない。そんな自信を感じさせる男――の、死体だった。
銀色の、少し曇ったナイフが、一直線に胸に突き立っている。
血があまりこぼれていないため、一瞬眠っているようにも見えるが、そのあまりに青い顔色から、死体であると直観的に理解する。探偵さまがそう断じるのであれば、生きているはずもないのだ。
「誰だ…これ……」
俺の声は少し枯れていた。
不安をひた隠しにするような、そんな声だった。
いや。待ってくれ。
そもそも、俺が、<誰>なんだ。
記憶を手繰ろうとしたが、俺の頭の中にはさっきまでの記憶が一切ない……。どうして。ワットダニット。
慌てて、ヒントを求めて体をまさぐる。
黒っぽいベスト。小柄で、細い腕。頬にそっと手を当てると、ひやりとしていて、少し骨ばっている。名前も人種も分からないが、呟いた声色から、若い男性、なのだろう。
「なぁ…君。ここは……、ゴホン。吾輩たるもの、まずは小手調べに名探偵の役割を果たさせてもらおう」
探偵さまは、一瞬困ったような表情をして、それから最初の優雅な雰囲気を取り戻し、俺の方をじっと見た。
「死体は一つ。世界は密室、人口は三人。したがって――君が犯人だ」
芝居がかった動作で、口ひげを触って、朗々と言い切る。
「……なぜなら、私は名探偵だからね。犯人たりえない」
帽子をかぶり直し、淡い青い目でじっと俺を見る探偵さま。嗚呼、説得力。
次はお前が語る番だぞ、と言われたようだ。
否定、しなくてはならない、のだろうか。
俺には直前の記憶すらない。けれど正直に言ったところで、言い逃れだと捉えられてもおかしくない。それとも…記憶が抜け落ちているだけで本当に俺が犯人なのか。ナイフの感触を忘れてしまっただけなのか。
「……っ、そう、です」
どうしてだ。口が勝手に動いた。
「犯人は、俺。俺がやった」
そこからは滑り落ちるように、俺は見知らぬ動機を語りはじめた。いや、俺ではない。俺の口が、だ。
「――そうだ、あの男は俺にナイフを与えた。あの子のことで恨んでいるのを知っていたのに、だ。意気地なしに殺せるものならな、と笑ったんだ。目の前が暗くなったよ、あんたも同じ状況になったら、わかるだろうさ」
がくんと体の力が抜け、その場にへたり込む。さながら、糸が切れた操り人形のように、俺は操られていた。
俺の口の話を黙って聞いていた探偵さまは、突然、目を白黒させ、苦し気に言葉を絞り出す。
「……ほんっ…、とうに?」
つるつると動機をしゃべっていた俺の口が、ふと止まる。
「ここに、あったのは、吾輩と、君と、この、死体……。前も後もない。それだけ、だった、ろう……?」
薄青の目は、犯人を追い詰め堂々とした探偵のそれではない。
完全に彼は困惑していた。前かがみになり、それでも何か言おうとする。
俺ははっとして、存外おしゃべりな口を何とか操縦する。
「もしかしてっ、あなたも……」
「吾輩、も、おそらく、この死体も…」
「……それじゃあ、犯人、は」
謎の息苦しさに見舞われながら、俺は聞く。
何も思い出せないのに、もう長くない、そんな予感がした。
「世界」名探偵は息も絶え絶えに飢えを指さし、最後に呟く。
「それにしても、欺くトリックも、伏線もないなんて……ミステリとして陳
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世界が閉じられた。
原稿用紙にして4枚。
丸められた失敗作はゴミ箱へと綺麗な軌跡を描いた。
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