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湯飲みに添えた指先に、熱が伝わってくる。思いのほか身体は冷えているようだ。茶を一口啜れば身体の中がじんわりと、温まる。
「ああ、よかった。亜弥ちゃん帰ってたのね。女将さんから亜弥ちゃんを呼んできてって言われてさ。女将さん、母屋の客間で待ってるわ」
饅頭を手に取り、表面のビニールを剝いてさあ齧り付こうというそこへ、ガラリと戸を開けた仲居が、亜弥に声をかけた。
「あ、はい。すぐ行きます」
わざわざ客間で、って、なんだろう。
訝しがりながら立ち上がった亜弥は皆に礼を言い、母屋の客間へ向かった。
客間は、この家の中で唯一特別な場所だ。毎朝障子の桟に至るまで丁寧に掃除されるこの部屋は、塵ひとつない。
水墨画の軸が掛けられた床の間には、毎朝女将が生ける季節の花が飾られ、中庭に面した障子を開け放てば、四季の彩りが美しい。
この部屋の有り様は、何時如何なるときにも来客を心地好くもてなせるようにとの、女将の心遣いの現れなのだと、この旅館へ連れてこられたあの日に思ったことを、縁側を歩く亜弥は思い出していた。
「女将さん、亜弥です」
「お帰り。入って頂戴」
女将に促され、亜弥は静かに障子を開け、伏せていた視線を上げた。
「えっ……?」
二度と会わないと決めたふたりがいま、目の前にいる。
いったいなにが起きているのか。亜弥はあまりの驚きに、息をするのも忘れ、彼らを見つめていた。
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