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「はぁ……兄さんははじめから克巳くんで、僕は未だに部長なんだよね」
敦史は亜弥へ、溜息交じりに恨めしそうな視線を向ける。
「あっ! す、すみません。会社辞めたのに部長はないですよね。さ、あ、ちがっ、敦史さん。ご、ごめんなさい」
佐々木さんと呼びかけて睨まれたのを思い出し、敦史さんと呼んではみたけれど、正解なのかはわからない。
「そういう話じゃないんだけれど。まあ、たしかに部長はないよね。でも、ほら、やっぱりそうでしょう? 兄さんは克巳くんなのに、僕はやっぱり敦史さんなんだよ。いつの間にか子どもまでできてるしさ。ホント、ぜんぜん勝てる気がしないや」
この差が、兄さんと僕の亜弥ちゃんからの距離感の違いなんだ。
何年も掛けてようやく手に入れた僕の大事な恋人を、兄さんに横からあっさりさらわれたと思っていたけれど、実際に横恋慕したのは僕のほうだった。
それじゃ、仕方がないよね。敦史は寂しげに笑う。
「それは、違います。わたしが……」
亜弥の敦史への想いは終始、穏やかな友愛だった。それでも交際を重ねるうちに、優しい愛が育まれていくだろう期待を、敦史だけではなく、亜弥自身もしていたのは間違い無い。
だから、なにがあっても克巳を想う心に流されてはいけなかった。それがどういう結果を生むか。承知の上で敦史を裏切ったのは、自分なのだ。
「ねえ、亜弥ちゃん。亜弥ちゃんは、ほんの少しでも僕を好きでいてくれた?」
一挙手一投足を見逃すまいとするように、敦史の視線が真っ直ぐに亜弥へと向けられる。
敦史の丸裸の心が、亜弥へと流れ込んでくるようで、亜弥の目が涙で潤みだす。亜弥はゆっくりと、そして大きく頷いて顔を上げ、敦史を見つめた。
「そっか……ありがとう」
万感のこもるその微笑みに、一粒の涙が亜弥の頬を伝い落ちた。
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