§ 瘢痕

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 先輩から「特急でよろしく」と押し付けられた営業資料がほぼ完成し、一息つけたのは、終業時刻の少し前。  亜弥の向かい側で微笑むこの男性、上司である佐々木敦史(ささきあつし)が、業務終了後のデスクで、凝り固まった背を伸ばす亜弥の肩をたたき、夕食を共にしようと誘う。  それは、部内の人間には毎度見慣れた微笑ましい光景であり、この日の亜弥もいつもと同様、なんの躊躇いもなくその誘いを受けたのだが——。  こんなはずではなかった。  パスタがおいしい駅前のイタリアンか、じゃなければ細い路地を一本入った南仏家庭料理の小さなお店もいい。  それとも、今日の気分は、こだわりの日本酒がずらりと並ぶ、大盛り料理の居酒屋だろうか。  升酒をちびちびと舐めるのもよさそうだ、と、気軽に誘いを受けてしまった考えの無さに、亜弥は臍を噬む。  上品なおとなたちが記念日を祝い、愛を深めているテーブルの狭間で、己に向けられる敦史の熱い眼差しに困惑し、テーブルの下で汗ばんだ両手を握り締めていた。  頃合いを見計らい運ばれる芸術的に盛り付けられた麗しい皿たちに続く、不可思議な呪文の如き口上。  意味不明なフランス語の料理名や、長く難解な蘊蓄を滑らかに語るギャルソンの声に耳を傾ける振りをしながら、重厚なメニューの角を指先で弄ぶ。  知らぬものを知る術はこの場に無く、彼の詞を理解しようと努めても、難解なものは難解なだけ。  食事なんておいしく食べられればいいだけなのに、なぜこうもいちいち小難しく面倒くさいのか。  心の中で小さく毒づいた。
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