下弦の月は真夜中に嗤う

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『例年よりも暖かく(うっす)らと汗ばむ陽気となるでしょう』という予報通り、今日一日快晴だった。その余韻を残す雲一つない夜空を、彼女は見上げている。吹き抜ける風はぬるく、初夏のような心地よさと彼女の甘い白檀(びゃくだん)の香りが俺を包む。 このホテルのバルコニーは五階に位置するから、眺めはそれほど良いわけではない。それでもビルの隙間から見える、港の、その向こう側を探している。 『向こう側を見たくなるのはきっと、自分が一人でいるのが嫌で、希死念慮のような何かに取り憑かれてるせい』そうぼんやりと、危うさを含んで吐き捨てるように言っていた。 そんな彼女の肩を、今日は抱くことはしない。 しばらくして満足したのか振り返り、グラスをかざす。 確か── 『もう少しだけ……』 そう言うと思った。 そんなことがあった気がした。 淡く弱々しい月の光が彼女の髪を(つや)っぽく照らし、「飲まないの?」と聞いてくる。 予想を裏切って、彼女の口から発せられた言葉は違っていた。 なにか、既視感のようなものが頭の隅で引っかかる。 都心の夜空は明るく、その月だけが現実味なく朧げに浮かんでいる。下弦の月だった。 夜風に揺らめく白いワンピースは、袖口が大きく開かれ、あげた腕の下から透き通った肌が覗いていた。無防備な香りのする誘惑に視線を引き剥がし、苦笑しながら答える。 「車だから」 断わる理由の半分は嘘だった。
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