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「じゃあ、お先でーす。お疲れさまっしたー」
「おー、お疲れ。気をつけて帰れよ」
くそー、 俺も帰りてぇ!
久々に忙しいディナータイムだった。
珍しくひっきりなしに客が来て、ホールもキッチンもてんやわんやで。
ここのところの暇さ加減に慣れてしまったせいか、疲労感がハンパない。
いや、まじで疲れた。
こんな日は、ビールでも飲んで寝たいのに。
シフト作り直さないとなぁ。
あーあ。
大袈裟なほどのため息をついてしまって、さらにぐったりとしてしまう。
大きく体を反らして後ろのほうへ伸びをしてみるけれど、座っているのが安物のパイプ椅子だから、危うくバランスを崩して倒れそうになってしまった。
あーあ。何やってるんだか。
「店長はまだ残るんですか?」
傍らに立っている朝子が気遣わしげに声をかけてくれる。
あぁ、もう、それだけで涙が出そうになるほど嬉しい。
今日、朝子がいてくれて良かったと、心の底から思う。
「ちょっとだけな。本当は送ってやれたらいいんだけどなぁ。気をつけて帰れよ、朝子」
「えっ、店長! 誰かに聞かれたら……」
「あー、ごめん、つい。まぁ、大丈夫だろ」
俺たちが付き合っていることは、店の人達には秘密だった。
名前で呼ぶのも、2人きりのときだけと決めていた。
うろたえている朝子には悪いけれど、なんだか無性に癒されたい。
どうせなら、甘えたい。
ちょっと、我儘になりたい。
そんなことを思うなんて、よっぽど疲れが溜まっているんだなぁと、妙に冷静に客観視している自分もいるのに。
気づいたときには、朝子の手を握っていた。
「し、信太朗さん!?」
張りがあって、吸い付くような彼女の肌は、なんとも触り心地がよかった。
付き合って1ヵ月以上が経つのに、こんな風に触れ合うことはほとんどなかったから。
強張っている筋肉をほぐすように、俺は彼女の肌の上を何度も指を這わせる。
「ちょっとだけ、やる気を充電させて?」
「……くすぐったいです」
蚊の鳴くような小さな声が降ってくる。
顔を上げると、朝子は頬を真っ赤に染めていた。
そういえば。
こうやって手を握るのも。
一度だけ、抱き締めたのも。
全部、バイト終わりに彼女を送っていった、暗い車の中でだった。
恥じらっている様子はわかっていたけれども、こんな表情をしていただなんて気づけなかった。
――めちゃくちゃにしてしまいたい。
ドクンと心臓が跳ねて、そんな、雄の感情が一瞬よぎる。
でも。
――朝子のことは、大事にしたい。
すぐに、そんな思いに変わる。
10代や20代前半は、熱に任せるような恋愛もしてきた。
30歳になったからとか、彼女が10歳も年下だからとか、そういうのもあるのかもしれないけれど。
ただただ、単純に、純粋に、彼女のことが好きだと思った。
だからこそ、焦って手を出すようなことはしたくなかった。
ゆっくりと、時間をかけて、お互いの深いところまで知っていけたらいいと思う。
少しだけ名残惜しい気もしたけれど、繋いだ手をそっと離した。
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