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1話 いつもより少しだけ
家の玄関の扉。鼻から空気を吸って、口から細く吐き出す。そうしてからドアノブに手を伸ばすのは、もうずっと前からで、いつの間にか習慣になってしまった。
「…ただいま」
形式上呟いた言葉が部屋に響く。人の気配がしない事に安心していると、後ろで玄関のドアが大きな音を立てて開いた。驚いて振り返ると、足音がそこまで来ている。その足音だけで、私の体は動かなくなる。
「もう帰ってたの。お母さん、もう一回仕事行ってくるから」
そう言いながら、足音をさせていた人物は忙しなく私の横を通り過ぎていく。私は「そう」とだけ言うと、自分の部屋に向かおうとした。しかし、それは許されなかった。
「なにその言い方」
その声に、私の心臓が痛いほどに存在を主張する。
「もっと愛想よくしなさいよ。どうしてあんたって、そんななの」
私だって、なりたくてこうなったわけじゃない。
「あんたのために働くの疲れる」
仕方ないじゃない。私まだ働けないもの。
「お姉ちゃんはちゃんとしてるのに、どうして…」
私はお姉ちゃんみたいにはなれない。わかるでしょ?
「まだ吹奏楽なんて将来に関係ない事続けてるから…」
「うるっさいなぁ!!!ほんとにうるさい!私…」
初めて、言い返した。私の中あった息も、モヤモヤもイライラも全てが形を為して目に見えるみたいだった。
「なにいきなり」
その人の声は、笑っていた。完璧なまでの嘲笑。私は今、こんな人のために感情を動かしたのかと唇を噛む。そのまま、逃げるように階段を駆け上がって、部屋へ飛び込んだ。最後まであの人の顔は見なかった。
ベッドの上に座ると、体の力が抜けて倒れ込む。その日はご飯も食べずにイヤホンで耳を塞いで、視界を閉ざして祈るように手を握りながら眠った。
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