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背後から降ってきたその声に、すべての動きが止まった。
甘く澄み通った声があまりにも心地よくて、渡り切るまえに振り返ってしまえば、穏やかな光の中でくっきりと見えた輪郭に目を奪われる。
彼が見上げていた先には、黄色い房状の花がたわわと咲き誇るミモザの木。
小さなポンポンのような形が、いくつも連なって春の訪れを知らせる。
「俺、この時期の黄色い花って菜の花しか知らないんだよね」
まあ、花に詳しいわけでもないけど、とつけくわえた彼に、あ、と滑り落ちていく声。
「……ミモザっていうの」
必死に紡いだ言葉は、たったそれだけしか音となって出てきはしなかった。
喋ることがいつしか億劫になっていた。わたしが話した途端、その場の空気が凍ったように冷たくなって、視線が、雰囲気が、一気に怖くなってしまう。
「へえ、ミモザ。かわった響きしてんね」
それでも、今この場所はあまりにも暖かくて、静かな日差しに目が眩んでしまいそうで。
「これ見ると、春だなって思う」
桃色にすこしだけ紅を混ぜたような唇からはじきだされたそれは、違和感なく鼓膜を震わせていく。
わたしもそう思うと、言えなかった。
彼の纏う空気があまりにもやさしくて、この時間が呆気なく溶けてしまうようで、口に出すと消えてしまいそうで。
はじめて彼と会話を交えている今この瞬間が、微睡の中に存在しているみたいで不思議で仕方なかった。
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