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 それから数日後、打ち合わせのために出版社に出かけた和也は、その打合せが思いのほか沸騰したために、夕飯には帰ると言っておいた時間からはるかに超えて、30年ローンで購入したばかりの、千葉県船橋市西船にある2階建ての自宅に帰宅した。  「ただいま」  いつものように玄関ドアを開けると同時に、部屋の奥に声を掛けた。しかし奈津美の返事はない。和也は、どうしたのだろうと思いもう一度  「ただいまー」  とちょっと声を大きくして言ったが、やはり返事はなかった。  妙な胸騒ぎがして、和也は靴を脱ぐのももどかしく家に上がり、今度は  「なっちゃん?」  と妻の名を呼んだ。すると今度は返事があった。  「お、かえり、なさい」  消え入るような声だったが、和也が不審に思ったのはそこではなく、その声が二階にある和也の書斎から聞こえてきたことだった。  和也はちょっと足を速めて階段を上り、書斎の入口から中を覗くと、そこには青ざめた顔の妻がこちらを向いて呆然と立ちつくしているのが見えた。そしてその妻の手には、一束の原稿が握りしめられていた。  和也には遠目でもわかった。表紙に「ひみつ基地」と書かれているのが見える。そう、妻の手に握られているのは、誰にも見られてはいけないはずのあの原稿だった。  いやしかし、そんなはずはない。間違いなく机の引き出しにはカギを掛けたはずだ。しかもそのカギはひとつしかなく、今ここに自分が持っている。だから奈津美がそれを見ることは、絶対にできないはずなのだ。和也は、やや声を上ずらせながら  「ど、どうしてそれを」  と言った。奈津美が答える。  「ドアが開いてて、ふと中を見たら引き出しが開いてるのが見えたの。あなたにしては珍しいなと思って、閉めようとしたらこの原稿があって、気がついたら読んじゃってたの。いつもはこんなことないはずなんだけど、今日だけはどうしても止められなかった。なんか逆に、読まなきゃいけないって気持ちになっちゃって。ごめんなさい」  和也はパニックだった。これですべてが無くなってしまう、という思いと、引き出しは間違いなく閉めてキッチリカギはかけておいたのに、開いているはずなんてない、という思いでだった。  いったいどういうことなんだ、まさか妻の奈津美が嘘をつくとも思えない。でもカギは閉めたんだ。なにがなにやらまったくわからなくなり、思考回路が止まりそうになったころ、再び奈津美が口を開いた。  「あのね、カズくん、しっかり聞いてね。わたしたちにとってとっても大切な話をするから」  和也はハッと我に返り妻の顔を見ると、さっきまで青かった彼女の顔にはやや赤みが差しており、心なしか眼もうるんでいるようだった。  和也はひとつうなずくと、奈津美の目を正面からしっかりと見据えた。  「わたしね、子供のころすごく身体が弱かったの。小学校に上がってしばらくはそれでも学校に通ってたんだけど、四年生になったころにはベッドから起き上がれなくなっちゃって、学校にも行けずにずっと家の二階のベッドで寝る日々だった。そんなある日ね、わたし夢を見たのよ。その夢には、わたしと同じくらいの歳の男の子が出てくるんだけど、その子はいつも雲の上からわたしを見おろしている感じだったの」  奈津美はここで一息ついた。和也は奈津美が話し始めた直後から気付いてはいたのだが、いよいよ確信にいたると足が震えた。奈津美は続けた。  「そしたらその子ね、わたしの方を見てニコッて笑ったの。その笑顔があまりにかわいくって、わたしも笑い返したわ。雲の上でしょ?遠いはずなのに、開いてる窓からその子の笑顔が、わたしにははっきり見えたのよ。そしたらその日から、その子は毎日わたしの夢に出てくるようになったわ。しばらくしたらわたしも、夢を見るのが楽しみになって、そしたらどんどん元気になって行ったの」  和也は気づいたら涙を流していた。すべてのことが運命に思えて、鳥肌が立ち、嗚咽をこらえきれなかった。  「それから半年くらいかな、毎日その子はわたしの夢に現れて、わたしを励まし続けてくれた。ただね、残念だったのは、わたしの体調がよくなったから空気の良いところで過ごさせなさい、ってお医者さんが言ったことだったわ。それでわたしの両親は、北海道に住む父方の祖母にわたしを預けることにしたのよ。そしたらね、その夢を見なくなっちゃったの。でもおかげでわたし、今こうして元気であなたと出会って、幸せに暮らしていられる。全部あの子の、いえ、あなたのおかげなの」  奈津美が言い終わると、静寂が二人を包んだ。パニックだった和也も今はもう冷静だった。  全てが運命だったのだ。ならばこの運命に身をゆだねればいい。いや、運命というよりも、父が導いてくれたのだ。なにも心配することはない。こんな幸せなことはないではないか。そして和也は、次の奈津美の言葉を聞いて、愛しい妻を抱きしめて  「ありがとう」  と言って号泣したのだった。  奈津美は、いつものようにやさしく微笑んで、はっきりと言った。  「ね、カズくん、わたし赤ちゃんできたみたい」 完
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