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 結婚生活は、一口に言うと「大変」だった。なにしろそのころの和也の収入といえば、自分一人が食べて行くだけでやっとという状況である。必然的に奈津美も働かねばならない。喫茶店のパートでは生活費のほんの足しにしかならないため、奈津美は大手スーパーのパートに職を変え、どうにかこうにかやりくりするようになった。もちろん結婚式はお預けである。和也は愛する奈津美のためにどうにかして披露宴をあげたかったのだが、それは奈津美の、  「大丈夫。カズくんがベストセラーを出して一躍有名になったら、だれにも負けないくらいの大きなのしてもらうから。それまで待ってる」  という一言で先延ばしになった。若いのにできた妻である。家計のことを考えながら、和也を傷つけずにやる気を出させるには効果的なセリフではないか。もちろん和也にやる気がなくなったわけでは決してなかったのだが、このころ、ともすれば将来の不安を口にする和也を勇気づけるには最高の言葉である。  ただ、和也も奈津美も大好きな子供ができないのが、二人の間の唯一の問題ごとだった。お金がないからと子供をあきらめていたわけではない。どれだけ苦しくても子供はほしい。子供は、家族の光である。だから努力はしているのだが、一向に光が差す気配はない。披露宴といっしょで、ベストセラーを出したら医者に診てもらった方がいいのかな、と二人でそんな会話をすることもしばしばだった。  そしてそれからさらに2年が過ぎ、デビュー後13年、冒頭にも記したように「シロネコ電機店」が爆発的なヒットとなり、ペンネームである「一星」という名前が日本国中にとどろくこととなった。  「シロネコ電機店」だけではない。和也の書く話はどれもが、かわいいだけでなく優しさと愛にも満ちあふれていて、だから子供同様、大人にも大人気となり、どの作品もベストセラーとなったのであった。  しかし和也は、あのころの、あの子供のころの不思議な体験だけは、誰にも、もちろん妻の奈津美にも話していなかった。いや、話せなかった、というほうが正しい。そんなことはまずないのだろうが、和也はどうしても、あの話を誰かにしてしまったらその時点ですべてがなくなってしまう、という思いが拭い去れなかったのだ。実は今は、四年生の自分が見ている壮大な夢の中であり、このことを口に出してしまった途端、自分は夢から覚めて小学四年生にもどってしまうのだ。そんなあり得ない思いが、どうしても頭から離れなかったのである。  童話作家らしい発想といえばらしいのだが、だから言い換えれば、和也らしい、とも言える。もちろん和也だって本当なら、こんな不思議な体験のおかげで今があるんだ、ということを世間に話したいという思いはある。妻の奈津美だけにだったら、と何度思ったことか。頑張ってもどうしても作品のアイディアが出てこないときでも、いつも  「大丈夫、あなたなら絶対に書けるわよ」  と言って励ましてくれる優しい妻だ。和也にとって、かけがえのない存在である。そんな妻に隠し事をしていていいのか。しかしその都度、いや奈津美だからこそ話してはならないのだ、という根拠のない強迫観念がまた頭をもたげ、だから誰にも、妻にさえも話せないままでいた。そもそもこんな話を、誰が信じてくれるというのだ。  とはいえ和也は、いつかはこの話も自分の作品として世間に公表しよう、とも考えていた。いつになるかはわからない。おそらくずっとずっと先のことになるだろうとは思う。ひょっとしたら、自分が年老いて死んでしまったあとになるかもしれない。しかし、それはそれでいいのだ。ただ、今はまだ時期ではない、そういうことだ。  だから和也は、その時のために忘れないように、「雲の上のひみつ基地」と題名をつけて話を書いた。そして印刷をしてクリップで綴じ、カギのかかる机の引き出しにしまい込んだ。誰にも見られてはならない。「ひみつ基地」はやはり「秘密」なのだ。いつか自分が死んだときに、残された人がこれを見つける、それが近藤和也という男の一生のシナリオなんだ、そう心に強く思い、しっかりと引き出しにカギをかけた。
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