過去

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 松園は弱々しく微かな笑みを唇に浮かべ、お茶を啜った。  それを私はテーブルを挟んだ向かい側で見、永世君と夏子は、隣の和室から覗いている。 「璃々、久しぶり」 「まだほかに持って行きたい荷物でも?」 「いや……そうじゃなくて」  松園は、苦笑を浮かべた。 「3000万円も共同名義の貯金の半分も、返しただろう?それで、喫茶店を開く資金がなくなってね」  まさか、貸してくれとか言う気!? 「向こうのご両親がえらく怒って、遥香は、勘当になったんだ」 「そう」 「会社も辞めてたし、貯金でアパートを借りたり生活したりしてたんだけど、困ってね。ケンカばっかりになったんだ」  私はそっと横目で永世君と夏子を窺った。  永世君は無表情で何を考えているかわからない顔をしていたし、夏子は、呪いか何かをこめるような視線を松園に向けていた。 「そうなの」  相槌に迷う。 「それでその内、遥香が浮気してね。離婚届を置いて出て行ったんだ」  夏子がにんまりと笑った。 「へえ」  松園は嘆息した。 「全く、呆れたよ」  やっと反省したのか。 「かわいいだけでまるで子供だ」 「え?」  キョトンとした。 「やっぱり、しっかりしてるし強いし、璃々の方が良かった。ぼくが間違ってたよ。よりを戻さないか」 「はあ!?」  あんぐりを口を開けて、私は松園の顔を凝視した。  夏子と永世君も呆れ果てたのか、呆然としている。 「何言ってるかわかってるの?自分が何をしたのか、本当にわかってるの?」 「もちろんだよ」 「いやいやいや。わかってたら、そんな事は言えないはずよねえ」  頭が痛くなりそうだ。  が、松園もわからないという顔をしている。 「いや、悪かったって。謝ってるだろ?」 「……謝罪の言葉は、一度たりとも聞いてないけど」 「璃々はまだ再婚もしていないんだろう。だから、やり直すのがいいと思うんだ」  失笑すら出ない。  こういう事態になった事が無かったからわからなかったけど、この人は、こんな人だったのか。私はこの人の何を見ていたんだろう。 「やり直すなんてむりだわ」 「無理じゃないよ」 「嫌だって言ってるのよ。あなたと生きるのは、嫌なの」 「独りでこの先やっていけるのか」 「少なくともあなたとやり直すよりはいいしあなたに関係ないでしょ。もう他人なんだから」 「璃々。君は頑固で聞き分けがないところがあるな、相変わらず。それに、やっぱり頼ろうとしないで、可愛げがない」  嘆息する松園に、殴りかかりたくなってくる。 「それが嫌で離婚したんでしょ」 「素直になれよ、女なんだから」  極限まで腹が立つと、心が無音になって、ひたすら体の奥が氷のようになり、一気に熱くなるものだとこの時知った。 「バカに――」  殴り掛かる前に、松園に永世君が迫っていた。 「バカにするのもいい加減にしとけよ」  夏子も飛び出して来る。 「よくもそんな事が言えたわね!恥って言葉を知らないの!?あんた、何回璃々を傷つければ済むのよ!」  松園はムッとしたような顔をしたが、続けて言った。 「これが合理的で正しいやり方だろう?そっちこそ他人だろう?ぼくは元夫だ」  永世君は、低い声で言う。 「元夫は他人だな。それに、仮にもう一度再婚したって、同じだろう」  そこで夏子がポツンと言った。 「噂で聞いたんだけど、松園。あんた、借金あるんだって?あの女があんたの名義で消費者金融から借りて男と逃げたって」  松園は小さく、チッと舌打ちした。 「本当に最低の女だったよ。騙された」 「あんたにだけは言われたくないでしょうね」  私は哀れみのこもった目を向けた。 「松園さん。あんたは、その時その時で自分に都合のいい相手を求めてるんだな。しかも、自分が正しいと信じて疑わない」  永世君も、蔑んだ目を向ける。 「二度と来ないで。私が孤独に死のうと、あんたが野垂れ死のうと、お互いに関係ない。帰って」  私はそう言うと、松園を睨みつけた。  松園は溜め息をつくと、 「バカが」 と吐き捨てるように言って出て行き、夏子が塩を玄関にまいた。 「最低な奴だな」  永世君がそう言うと、夏子が戻って来て、 「ああ、気分悪い!飲み直しよ!」 と言う。  その後、さんざん飲んでいたのだが、夜になって夏子の携帯に連絡が入った。  会社のライングループで、どう見ても頭にヤのつく3文字の八百屋ではない職業の人に囲まれて車に押し込まれる松園を見たというものだった。  どうなったのかは知らない。だが、私にはもう関係のない事だ。
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