第一部 芙蓉

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満開の桜が青空に映える──(いたる)が彼に逢ったのはそんな春の日の、夕暮れだった。 谷川から吹き上げてきた風が無数の薄桃の花弁を舞い上がらせ、視界を遮るほど……それはこの世にあってこの世でないような息を呑む美しい光景で、まるでおとぎ話の一節に出てくる精霊のような彼は、同じ色彩に染まって桜の木の傍に立っていた。 至は夕日が山々と彼を撫でながら降りていく様を少し離れた所から眺めていた。件の彼はただ、谷を挟んだ向かいの山が影を濃くしていくのをぼんやりと見つめていた。 ここは別宅の離れがある辺り。離れと言うには(いささ)か離れ過ぎな、母屋から歩いて二、三十分もかかるこの場所へ来たのは初めてだったから、人が通った形跡すらあやふやな山道を不安に思いながら抜けた時、出会った”人のいる光景”に思わず足を止めてしまった。 「離れには絶対近づかないようになさってください。イノシシが出ますし、土砂崩れや落石が起きていて危険ですから」 来たばかりの日、離れへ続く道に目をやった使用人にそう言われた時はさらっと聞き流したのに、広い庭を散策するうちに興味を引かれた。 古く重厚な日本家屋の母屋は国の重要文化財だと言われれば信じてしまいそうな趣のある建物だったから、離れはどんなだろう、という軽い気持ちだった。 大学の春休み中に一度顔を出しなさいと、別宅で病気療養中の父、(まさる)に言われて来たというのに、肝心の勝は東京から呼び寄せた部下や税理士と代わる代わる話し合いをしていて挨拶をすることすら難しい。療養してることになんのか?と至はため息をつきながら暇つぶしをかねての散歩中、注意を受けた離れへ続く道が目に止まったのだった。 山王寺(さんのうじ)家は一族の七割をαが占めるというα出生率が異常に高い名家だった。至は現当主の長男、つまり界隈では知らぬ者のない跡取り筆頭。国内最高峰、最高学府へあっさり入学を決めた知性、俳優でも出来そうな顔立ち、恵まれた体格。これぞαと言うべき資質のオンパレード。 その名に相応しくなるべく勝は至を厳しく育て上げ、大学卒業後は傘下の子会社で経験を積ませ、跡目を継がせる心づもりにしていた。 ところが──勝が原因不明の病にかかった。心臓発作様の症状があるが検査をしても心臓にはなんの問題もなく、主治医が過労によるストレス性の疾患であると診断し別宅での療養を勧めたから、勝は妻、斉子(さいこ)を連れて2月の終わり頃、別宅に移り住んだというわけだった。 東京の本宅に残された至と弟の(とおる)、妹の雛子(ひなこ)の世話は執事の黒川とそれぞれの側付きたちに完全に任された。それは勝が本宅にいた時からのことで、美容院だの習い事だのパーティーだのに大忙しだった斉子がいなくなった所で、子供たちの暮らしにはなんの支障もない。 むしろ気が楽だ── それが至の率直な思いだ。小さい頃からかけられてきた期待と重圧には慣れていたが、時に高慢にさえ感じられるほどの両親の”αであることの誇り”にはどうしても馴染めなかったから、存在を感じないでいられる空間に暮らすことがこれほど心地いいと、こうして離れてみて初めて知ったのだった。
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