第一部 芙蓉

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いつの間にか夕日は完全に山に隠れて辺りは(にわか)に薄暗くなり、絵の中の住人のようだった桜の木の下の彼が動き、至ははっと我に返って瞬きをした。 ゆっくりと身を翻して歩き出した彼が、ふとこちらに気づいて足を止めた。至は何故かどぎまぎしてぺこりと頭を下げてしまった。 すぐに”別に悪いことをしてた訳じゃない”と自分を振り返って可笑しくなって笑おうとしたのに、彼がニコリともせずこっちを見つめてくるのに晒されて再びじわりと緊張した。 普段こんな不躾な視線を向けられることは無い。至が発するα特有の圧のあるオーラに振り返られたり、二度見されたり、羨望の眼差しを受けたりすることには慣れ切っていたが。 「随分若いね」 彼はそう言って伏し目がちに至を見つめた。 「君もそんな変わんないだろ」 至は思わず言い返す口調になって同じ年頃に見える彼を見つめ返しながら、胸がいつになくトクトクと音を立てるのを自覚していた。 それ程、彼は美しかった。先程の舞い散る桜の中に溶け込む様子も、今、薄闇に浮かび上がる姿も。ぼんやりと発光しているかのような白い肌、染めたわけではなさそうな涼やかな銀髪。一際印象的なのは瞳だ。南国の海のようなグリーンがかったブルーが、静かな光を湛えている。 生成の長袖Tシャツが風をはらみ、すらりと細身の体の線をうっすらと透かす。 その時良い香りが──花のような、いや、もっと甘い糖蜜のようなそれが風に運ばれて鼻に届き、至は瞬間的にめまいを覚えた。その香りは消えることなく鼻の奥へ奥へと浸透し、脳髄を溶かしてしまうような錯覚がおこって── なに……?なんだこれ…… 鼓動はどんどん早くなり、まなじりがじんわり熱を持つ。 風に遊ばれるまま立っている彼が周りから浮き上がって見え、目を離すことが出来ない。 「大丈夫?慣れてないんだね」 彼がうっすら微笑み、ゆっくり近づいてくるごとに匂いがどんどんきつくなる。至はまるで強い酒でも飲んだような酩酊感に思わずその場に膝をつき、反して熱く、硬くなり始めた股間に焦り、困惑していた。 「おいでよ」 彼の白い手が膝を掴んでいた至の手を取り、そっと引っ張った。触れあった瞬間の頭の沸騰する感じ……ここで至は初めて自分が目の前の彼に強烈に欲情しているという事実に気づいた。まだ出会って間もない相手に……信じられなかった。でも、それをどうこう考える余裕がない。 ただ彼の手に引かれるままふらふらと歩き、近くの屋敷へと上がり、導かれるまま暗い廊下を進んで奥の障子がすらりと開かれるのを霞みそうな視界に見た。 広い和室の真ん中に敷かれた大きな布団の傍で、彼は「たまんないな。きっつい匂い。若いからかな」と呟くと、彼もこの匂いを感じているのか?と考えた至の思考力の最後のひとかけらを奪うように唇に吸い付いた。 そこからの記憶は断片的だ。 初めてでもないのにせっつくように腰を動かしたことと、彼の甘えるような嬌声に耳からしびれて腕に鳥肌を立てていたことだけが余韻として残っていた。
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