幻のバナナクレープと染井吉野の夕暮れ

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やがて道路の向こうに、弘前城の石垣が見えてくる。 木々をそばで見上げれば、まだ硬さのある蕾たちがひっそりとピンクの色素を蓄えて、枝の先に身を丸めていることだろう。 高校生だった私と穂香は、桜の時期に限らず、よく一緒にこのあたりを歩いた。穂香の家が弘前公園の近くなのだ。 学校帰りの、ちょうど今くらいの時間帯が多かった。昼と夜の狭間のこのひとときが、季節によって長さを変えることを、当時の私たちは五感のすべてで感じとっていた。 「咲紀、覚えちゅう? “幻のクレープ屋さん”」 追手門の手前で穂香が言った。まぼろしの、という物語じみたフレーズに、一瞬きょとんとするも、すぐに記憶が呼び起こされる。 「ああ、バナナクレープの」 当時、このあたりの女子高生のあいだでは、とあるジンクスが噂されていた。 ときどき弘前公園周辺に現れる、出張販売のクレープ屋のワゴン。その店のバナナクレープを食べてから好きな人に告白すると、百パーセント成功する、というものだ。 「あれってさあ、今思えば、絶対クレープ屋さんが流した噂だいね。バナナクレープが一番高かったし」 穂香がそう言って唇を尖らせるのを見て、私は小さく吹き出した。だって、今思えばも何も。 「穂香、それ、言ってたよ。当時から」 「え、うそお。言ってだ?」 「言ってだ」 顔を見合わせて二人で笑う。 私は自分の口から紛う事なき津軽弁がこぼれ落ちたことにも気づいていた。 染みついた独特のイントネーションは、私の中から消えたわけではなかったようだ。それを少し嬉しく思う自分がいることに驚いた。 「てゆうか、まずあのお店自体、(べづ)に幻でもなんでもながったよね。いっつもいだったもん」 穂香が風で乱れた前髪を手櫛で直しながら言う。 「んだっけ?」 「んだよ。私、覚えてるもん」 大きな目をぱちぱちと瞬くと、コーラルピンクのラメが控えめに輝いた。 「咲紀と一緒にクレープ食べたもん。何回も」
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