不可逆デルタベクトル

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「ですから、自分で自分の頭が良いと思っている人のことが好きになれないんですよ。俺は」  取り付く島もなくわたしのことを突き放した彼はそう締めくくった。テーブルの上には氷がやたら多く入ったメロンソーダが二つ鎮座してわたしたちのやりとりを冷ややかに見守っていた。エアコンが効きに効いた部屋の中は肌寒く感じられて、わたしは自分以外のすべての人や物から熱がなくなってしまったのではないかと錯覚する。そんなわたしの錯覚をよそに程よく混んだ店内でテキパキ働くファミレス店員たちは爽やかな熱意を持って仕事に取り組んでいた。  彼の言葉を受け止めてわたしは、うーん、と唸ってしまった。なぜなら彼の言葉は少しばかり難し過ぎてわたしの頭では理解が追いつかなかったからだ。目を瞑り自分のおでこに指をあて考え込む。指先から伝わるほのかな熱はわたしの脳が必死に彼の言葉を理解しようと働いている証なのだろう。しかし会話の間としては少々長めの時間を過ぎてもわたしは彼が何を言っているのかわからなかった。  埒が明かないのでテーブルの反対側に座る彼を手がかりを求めるように眺める。もちろん彼の体に答えの書かれたメモが貼ってあったりはしないが、なんの当てもなく考えこんでいるよりはましに思えた。  彼はいつも清潔感あふれる格好を着こなしているが、今目の前にいる彼は私服でもその傾向は変わらなかった。スリムなコットンの半袖シャツのボタンはいちばん上まで留まっていて、ウールのパンツは腰から足元までシワひとつなく、彼のシルエットは精確な測量機を思わせる直線で構成されていた。わたしは制服というものは、着れば誰でもきっちりした格好に変身させてくれる便利な服だと認識していたが、彼は着る服を制服かどうかに関わらずきっちりさせてしまうのだと初めて知った。そういう質なのだ。対してわたしは着回し過ぎて少し縒れているお気に入りのデザインTシャツにだぶだぶのデニムスカートとスニーカーという、ツノの立たないメレンゲみたいにゆるい格好だ。  彼はわたしのことをじっと見つめていた。その眼差しはわたしを見下すとか値踏みするといった否定的な印象を含まず、かと言って優しさとかいたわりとかそういったものを含んでいるかと言うと首を傾げざるを得ないような意味深なものだった。いや、意味深とは少し違う。わたしが彼の一挙手一投足に注目して見ているために勝手に深読みし過ぎているだけかもしれない。わたしが彼に抱く印象は、ミルクにどっぷりと浸したパンみたいな過分な重さを持つだろう。彼に対する深読みはわたしにとっては理由あることなのだが、それにしたってわたしでも人の目は気にするのでこれはできれば彼に知られたくない。今まで誰かに指摘されたことはないのでその目論見はおおよそうまく行っていると思えた。  それはともかくわたしは久方ぶりに口を開く。 「……えっと…それって、何の話し?」  自分で口に出しておいて何だが、随分とふんわりした返事をしてしまった。これではわたしが今までの彼の話をよくわかっていないみたいではないか。いや、実際に理解しているのかは怪しいのだけど。トランプマジックを見せられた犬並みに理解力の無いこのわたしにも、彼は根気強いのか苦にならないのか再び要点をまとめて話す。 「……だから、理由ですよ。先輩が俺にした質問の答えです」  質問。そうだった、わたしは彼に聞きたいことがあってこうして時間を作ってもらっているのだった。わざわざ来てもらったのだからわたしのトンマで彼の時間を無駄にはしたくない。わたしは頭の中で、ここに来る前に用意しておいて会話の頭で彼にぶつけた質問を思い出し、それに答えた彼の言葉を対応させて彼の言い分を理解しようとした。しようとしたのだが――― 「うん?」 「どうかしましたか?」 「あ、いや、その。間違ってたらゴメンなんだけど……」 「いいです。言ってください」 「…えーと、キミは好きになれないヒトがいる」 「はい」 「だから部活に出られない?」  わたしがそう言うと彼はため息をついた。ふわっふわのわたあめにイチゴシロップをドバドバとかけて固めてしまったかのように硬いため息だった。 「俺としては不本意なんですが、どうもそういう表現にならざるを得ないようです」  原因は人間関係。それもどうも部内のものらしい。これはややこしいことにならなければいいけど。それとは別にヘビーな家庭の事情とかじゃなかったことは少しホッとしたが。  わたしが入っている部活は部員が十人に満たないくらいの学内では小さめの部活なのだけど、部員同士の仲が非常に良い。男女比は半々で、上下関係はゆるゆるだし、部に入る際に簡単とはいえ共通の適性試験のようなものを受けるのでそれをきっかけに仲間意識が芽生えやすい。  しかしだからと言ってぬるい仲良しサークルという訳でもなく、部活動では全員が非常にモチベーション高く取り組み、部員同士で技術的な指導をしあえるほど意識が高い。顧問の先生の立ち位置も絶妙で、部員への指導は分かりやすく丁寧なのはもちろん、自主性を育てるために見守るということも心得ている。  そして何より部長がカッコ良い。部活動ではリーダーシップを執って皆をまとめ、専門的な話で先生と討論できる程の知識を持ち、対外的な活動のときも部の顔として表に立って、人間的魅力に溢れカリスマを発揮するその姿は部員全員の憧れの的だ。  それでわたしは部活が楽しくて仕方ないので毎日のように顔を出していたのだが、今年入った部員で一人顔を出さなくなったヒトがいるのに気づいた。それが彼だ。他の部員に話を聞いても詳しい事情を知ってはいなかった。部長にも相談したけど、 「何かあったとしても心配ないよ」 と何かを知ってそうな雰囲気ではぐらかされてしまった。  でも、わたしはそこで止まれなかった。彼にもう一度部活に出てほしいという想いが抑えきれなかった。  それはなぜなら、………えーと…………そう、笑顔が素敵だったから!部活にいたときの彼はすごくいい顔で笑っていた。でもある日部活に参加せずに帰宅する彼が家のドアをくぐるとき、何かに落ち込んでいるようにわたしには見えた。わたしは彼がそんな顔をする理由をなんとかしたいと思わざるを得なかった。  ちなみにこれは余談なのだけれど、わたしが落ち込んだ彼を目撃したときわたしは珍しく部活をサボりたくなっていて、たまたま遠回りで帰宅したい気分で、それで偶然彼の家の前で彼が帰宅するタイミングに通りかかっただけで、跡を尾けていたとかそういう事は一切バレていないと思います。たぶん。  そういうわけでわたしは彼を呼び出したのだ。ただの部活の先輩後輩の関係でしかないわたしに彼にあれこれする義務も権利もないのかも知れないけれど、とにかく彼の悩みの蚊帳の外にいる気分がなんだか嫌だった。 「すごく、意外だな」  気がつけば思わず口に出していた。 「俺はそんなにできた人間じゃないですからね、好き嫌いを全部抑え込めるほど大人じゃあないんですよ」  わたしは彼をできてない人間だとも大人じゃないとも思わなかったから、彼にそんなことを言わせた自分の軽率な発言を後悔した。  しかし分からない。わたしは彼の部活での様子を思い出してみるが彼と不仲な部員など一人も思い当たらない。もちろんわたしは部の人間関係をすべて把握しているわけではないし不必要な詮索はすべきでないとも思っているが、彼が好きになれないというそのヒトが気になってしまった。 「別に、あの人が悪いってわけじゃないんです」  おもむろに、沈黙しないことを目的とするかのように彼が口を開く。わたしはそれを止めることもせずに聞く。 「あの人が自分のことを頭が良いと思ってたとしても、それはまったく問題の無いことなんですよ。なぜならあの人は実際に頭が良いんですから」  彼の話し方は穏やかだった。 「でも、時折無性に腹がたつんです。  俺にはたどり着きたい場所があって、自分の持てる能力すべてを駆使して必死の思いをしてそこに辿り着きます。そうしたら、気がつけばあの人が目の前に立っているんです。そして、俺を導くのが当然だと言わんばかりに手を差し伸べて来る。限りなく心からの善意で。」  彼はテーブルの上で組んだ自分の指から視線を外さずに訥々と話す。 「あの人には他の追随を許さない本物の才能がある。それでいて絶対に他者の足並みを乱すようなことはしない。それを見た俺みたいな凡才が勝手に劣等感に苛まれることすら、あの人は受け入れて共に悩み自分の一部にしてしまう。何もかもがあの人の計算通りに進んで、それですべてを丸く収める。凡人にはできないこともあの人にとっては義務のひとつでしかない。  そんな光景を見せられて平静でいろという方が無理なんですよ」  彼の口から出てくる言葉は段々と苛立ちを含み始めている。 「だから俺は部長に告白したんです。好きだって。何も後先考えずに思いの丈をぶち撒けました。  結果は……まぁ散々と言っていいものでしたね。あの人は優しい眼をして最初から全部知ってたみたいに冷静な対応をしました。残念だけど俺の想いには応えられないって。  まったく動揺していないあの人にそう言われて、俺は冷静さを欠いた上にバカだったのでその場で食ってかかりました。今思えばそんなことしても傷口を広げるようなものなんですがね。  俺は理由を聞きました。なんで俺じゃ駄目なのかって。そしたらあの人はこう言ったんです。  コウヅキのことが好きだからって。  それで話は終わり、俺が茫然としているうちにいつの間にか部長はその場から居なくなっていました。教室に射し込む夕陽が、やけに目に滲みたのを憶えています。  だから、俺は今部長を好きになるわけにはいかなくて、部長にどんな顔をして会えばいいか分からないんですよ」  そこまで話すと彼はふぅ、と息を吐いた。ガッチガチの硬度のごてごてした黒鉄の板で挟んで焼いたワッフル並みに柔らかい息だった。  そしてわたしは空いた口が塞がらなかった。別に普段から間抜けな顔するように心掛けているわけではない。驚いているのだ。  何に驚いているのか?  それは、彼の好きになれないヒトが部長だったということではない。彼が部長に対してかなり複雑な感情を抱いていたことでもない。彼が思いの丈を部長に告白して振られてしまったことでもない。  わたしはチョコレートを染み込ませるラスクみたいに、さっき彼が言った言葉をじわじわ理解する。そして体をわなわなと震わせながら口をもにょらせる。 「……ぅえ?………はぃ?」  彼は努めて平静にこちらの発言を待っている。 「………部長が、わたしを、好きだって、言ったの?」  彼はうなずく。 「ぃやぃやぃやぃやぃやぃやぃや!」  わたしは興奮のあまり否定の意味の言葉を連呼しながらボックス席の中で立ち上がろうとしてしまい腰骨の辺りを机の角にしこたまぶつける。そして、ぎゃっふ!と悲鳴を上げた後しばし悶絶した。痛みが引いてから再び話し始めるまで彼は待っていてくれた。 「まじ?」 「まじです」 「なんで?なんでわたしなの?  あの部長だよ?才能とカリスマに溢れた、わたしなんかとは次元の違う皆の憧れの、あの。  なんで?」 「そんなの俺は知りませんよ。自分で聞いたらどうです?」 「聞けるわけないでしょー!違ったら、いや違わなくてもめっちゃ気まずいよ!」  わたしは慌てふためく。最初は彼の悩みを聞いて相談に乗ってあげられたらいいなぁくらいの考えだったのに、気がつけばとんでもない事案を投げつけられていた。火中の栗でつくったマロングラッセくらい予想が甘かった。 「うぅ……」  思わず頭を抱える。別に部長に好意を向けられているのが嫌なわけではない。ただ、非常にややこしいことになりそうなのだ。  部長の人気は部外でもかなり高く、同じ部活に入っているというだけで羨望の眼差しで見られることもある。ゆえに部長に対する好意の寄せ方には周囲の人間の力関係等から自然と不可侵条約のような物が暗黙の内に出来上がってしまっているのだ。それに違反する抜け駆けのような行為は厳しく罰せられるとかされないとか、まことしやかに語られている。そう考えると彼のやった告白は大胆過ぎるものだが、噂になっていないところを見るにうまくバレていないのだろうか。  彼の告白がバレていないということは部長の想い人が誰かということもまた広まってはいないはずだ。だけどわたしが当事者ということもあろうが、彼はわたしに話した。知るヒトは少ない方がいい。これ以上話しが広まらないように彼に釘を刺しておかねば。そうして彼に話しかけようとして―――気づく。  彼はわたしのことをじっと見つめていた。その眼差しはとても意味深なものだった。わたしの深読みや勘違いなどではない――ザッハトルテの味わいのように――深い意味のこもった視線だ。 「やっぱり、先輩は困るんですね」 「……へ?」  おもむろにそう言われてわたしは固まってしまう。なぜなら彼の言葉は少しばかり難し過ぎてわたしの頭では理解が追いつかなかったからだ。 「部長に好意を向けられる、ただそれだけの事のためにどれ程のものを引き換えにすればいいか見当もつかないというのに、その好意の行き先であるあなたは少しも嬉しそうな様子を見せていない。むしろ困っている。  どうしてですか?」  彼はわたしに問いかける。その態度はマシュマロを投げつけて人を殺せそうな程に鋭く、わたしは真剣に返事を考える。 「………もちろんわたしも部長のことは尊敬してるよ。あれだけすごいヒトだから貶すところを見つける方が難しいし。でも、一対一の関係になったときその尊敬が全部好きっていう気持ちになるかって言われたら、それはなんだか違う気がして………だから、その、えっと………」  わたしは言葉に詰まる。何が言いたいのか自分でも分からない。 「いや、もういいです」  彼はそう言ったとき、やけに清々しい表情をしていた。まるで憑き物が落ちたみたいに。 「えっと………なんか、ゴメン」 「いえ、大丈夫ですよ」  彼は爽やかに微笑み、白い歯が見える。それを見てわたしは、ああ、やっぱりいいなぁ、と心の中で独りごちる。  心なしか、さっきより上機嫌になった彼が口を開く。 「本当のことを言うと、部長が先輩を好きだって言ったこと部長には口止めされてました。まぁ当然と言えば当然なんですが」 「……じゃあ言っちゃだめじゃん」 「大丈夫ですよ、先輩にしか話してません」 「そういう問題じゃないでしょ……」 「仕返しみたいなものですから」 「どういうこと?」 「こっちの話です」  わたしはタワーパンケーキから溢れる蜂蜜みたいに机の上に力なく突っ伏す。軽い気持ちで後輩の悩みに乗ってあげようとしたら、とんでもないことに巻き込まれた。明日からの気苦労を思うとどっと疲れが出てくる。 「でも、今日は良かったです―――」  そう言う彼の笑顔を目にしたとき、気苦労や疲れのことは吹き飛びわたしは幸せな気持ちになった。わたしの脳は我ながらつくづく単純だ。  ただ、あまりに単純過ぎて彼が続けて言った言葉の意味が分からなかった。 「―――先輩も俺と同じだと分かって」
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