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結婚したんだ。
ポストから封筒を取り出して一番に胸にわいたのは、そんなシンプルな感想だった。
当時は親しかったとはいえ、卒業して以来、ほとんど交流もなかったのに。わたしにまで招待状を送ってくれるあたりが、なんともひなみらしい。朗らかで、いとも簡単に周りを明るくするひなみの顔が、脳裏に浮かぶ。三十代も目前になれば珍しくもなくなる、厚みのあるめでたい封筒を手に、リビングのドアを押し開けた。
『ひなみ(旧姓・遠藤)』。そのまま横へ視線を這わせ、連名で書かれた名前に目を留める。二度ゆっくりとなぞり見て、胸の底に漂う得体のしれない気持ちを持て余したまま、封を切った。
封筒には、招待状の他に写真が一枚入っていた。友達用にと特別に同封されたらしい、くだけたポーズの前撮り写真。射し込む木漏れ日はまぶしく、真っ白なウェディングドレスを纏ったひなみは、十年前より幼さの消えた、けれど、変わらない柔和な顔で幸せそうに笑っていた。
ひなみはいつもそうだった。「花がほころぶような」なんて表現があんなにもぴたりとくる人を、彼女以外には思いつかない。
写真のひなみが記憶と重なって、同時に、もうひとりの姿も浮かび上がる。懐かしさに胸が痛んで、その笑顔ごと、写真を封筒へしまい込んだ。
まぶしい。校舎を縫って射し込む太陽光よりも、廊下の窓に背をあずけて立つふたりに目がくらんで、私は思わず瞬きをした。逆光だから表情はよく見えないのに、柔らかい空気がここまで伝わって、なんだか影までまぶしく見える。
遠目には、間違いなく彼氏と彼女だ。距離感は恋人同士のそれだし、なんとなく、オーラのようなものまで見える気がする。他の人は入り込めないような、ふたりだけの、特別な雰囲気。
「あ、サチきたよ」
わたしに気がついたひなみが、森の動物みたいな仕草でぴょこんと顔を覗かせる。一拍遅れて環も振り返り、わたしをみとめて向き直った。
「ジャージどうだった? ……って、どうした、ぼうっとして」
そんなに呆けた顔をしていたのか、よっつの目はまんまるになってわたしを映す。わたしはへらりと笑って、抱えていたジャージ袋をゆさゆさと揺すって見せた。
「なんでもないよ。ジャージはほら、ばっちり」
「夏バテした? それか、熱中症とか。あ、飴持ってるよ、飴」
環がスラックスのポケットから塩飴を取り出して、「食べる?」と手のひらに乗せる。わたしはありがと、と小さく返して、受け取った塩飴をポケットに入れた。
「本当に平気? 見学にすれば?」
「んーん、本当に本当。てか待たせてごめん、そろそろ時間やばいと思う」
「わ、ほんとだ。走るよ!」
大げさに跳びあがったひなみの声を合図に、ほぼ三人同時に廊下を蹴った。
体育館に隣接した更衣室には、もう他のクラスメイトはいなかった。授業開始までは、もう三分ほどしか残っていない。ばたばたとロッカーに荷物を広げ、スカートをはいたまま急いでジャージを腰まで引き上げる。ネクタイは緩めただけで結ばれたまま頭から抜き取って、ロッカーへ投げ入れた。羽織ったジャージの中でもたもたとTシャツへ着替えるひなみを横目に、はやばやと着替え終えたわたしは、足から抜き取ったスカートをひなみとは逆隣へ差し出した。
「いつもさんきゅー、サチ」
わたしのスカートをスラックスの上からはいた環は、手品師みたいに手際よく、スラックスをジャージへとはき替えた。
「ほんと、パッと見、女子更衣室に侵入した男子だよね」
ようやくTシャツを着終えたらしいひなみが、着崩れたジャージを整えながら環へいたずらっぽい視線を向けるのに、環はわざとらしく背筋を伸ばしてみせた。
「ちゃんと合法です」
「なにその言い回し。かえってやばそう」
わたしが笑い飛ばすと、環も一緒になってけらけら笑った。
「でもさ。実際、環が男子なら、更衣室にいてもひなみ許しちゃうな。爽やかだし、イケメンだし、優しいし。超理想の好青年だもん」
「なんだそりゃ」
なぜかしみじみと言うひなみにふたりでまた声を立てて笑うと、調子を合わせるように本鈴が鳴り、わたしたちは慌てて更衣室を出た。
知り合ったときから、環の制服はスラックスだった。
元々、女子用のスラックスが用意されているうちの学校では、式典以外ならスカートをはくもスラックスをはくも、本人の自由とされている。けれど実際にはスラックスを着用している生徒はかなり少なくて、三年生では、環以外に見たことはない。
髪が短く、細身で他の子より身長も高い環は、ブレザーにネクタイの制服も相まって、実際、男子と見間違われることも多かった。けれど特に実害はなかったし、なにより、さっぱりとした美人の環には、短い髪もスラックスも、すべてがぴったりと似合っていた。
「おい、おまえら三人、遅いぞ。もっと早く着替えておけよ」
「すみませーん」
へこへこ頭を下げながら、並んでいる女子の列に混ざる。ごめんの顔を作ってひなみと環へ向けると、ふたりが同時に吹き出した。さっきの今で先生に睨まれてしまったわたしたちは、他のみんなより一周多く体育館を走らされる羽目になり、わたしはまたふたりにごめんのポーズをとった。
「暑い……」
体育が終わって戻った教室は、灼熱のサウナになっていた。全部の窓を開け放ったところで吹き込む風もあたたかく、よりサウナっぽさが増すばかりだ。
環は膨らんで押し寄せるカーテンを背で押さえながら、薄っぺらい数学のワークをパタパタと上下させ、頬杖をついたまま完全に溶けているひなみを扇いでいた。わたしは机からノートを出し、申し訳程度の風をひなみと環へ交互に送った。余分に走らされた一周は、ボディブローのようにじわじわ効く。暑さにめっぽう弱いひなみには、なおのことらしかった。
「ね、環、うしろも扇いでー」
甘えるような口ぶりで言いながら、ひなみがくるりと身体を反転させると、「あ」と環が小さくこぼした。扇ぐ手を止め、ひなみに向かって手を伸ばす。後頭部のあたりへ伸びた指先は、そのままひなみの髪へと触れた。
「ここ、崩れてる。どっか引っかけた?」
「えっ。体育のときかなあ。やだあ」
ひなみは環の触れたあたりを自分で触り、指先でほつれた毛束を摘まんで、うーんと小さく唸った。
「そんなに変でもないよ」
確かに多少崩れてはいるけど、もう昼休みで残りは二時間だし、ちょっとピンを差し直せばごまかせそうに見える。こういうことにあまり頓着しないわたしがそう口を開くと、環がまたゆっくりとひなみの髪に触れた。
「直そうか」
「えっ、環が? やってくれるのっ?」
くるりと振り返ったひなみの顔が、ぱっと明るく染まる。カーテンをひいているのに、空気がまぶしく跳ねてひかった。
「ふふ、ありがとー、環」
「うん」
嬉しそうに目を細めるひなみに環が小さくうなずいて、ゴムが外されると、ひなみの髪がはらりと肩へ落ちた。
いつも結ばれてばかりのひなみの髪は、下ろせばちょうど鎖骨に触るくらいの長さだった。その髪の間を環の白磁の指がいったりきたりして、繰り返しゆっくりとなぞっていく。まるで生まれたての赤ちゃんにでも触れるように躊躇いがちに沿わされる指は、一瞬離れるのも惜しいというように、ひなみの髪を離れては、また優しく触れた。環の表情は、垂れた長い前髪が顔にかかって、よく見えなかった。
特別な気持ちがあるのだろう、と思っていた。そんな話をしたことはないし確信があるわけではない。けれどなんとなく、そんな感じがしていた。ふたりはいつも距離感を探るように、あいまいさの中でそっとお互いを確かめ合っているような、そんなふうだった。だからわたしはこういうとき、ふたりの世界に不用意に触れてしまわないよう、無意識に呼吸が浅くなってしまう。
「できた」
「さすが環、器用ー」
綺麗に整えられた髪を触ったひなみが椅子を傾け、後ろに立つ環に寄りかかるようにして、環の顔を仰ぎ見た。
「ほんと、最強の彼氏だよね環は」
「またそんなことばっかり言って」
ひなみを椅子ごと支えながら環がへらりと笑うと、風をはらんだカーテンが環の背中をすり抜け、わたしとふたりを隔てるようにぶわりと広がった。
突然射し込んだ光とくすんだアイボリーに視界を遮られ、ぎゅっと目を細めた瞬間、翻ったカーテンの隙間から環が覗き見えた。その笑顔がどこか苦しげにゆがんで見えて、けれど、引き波みたいにカーテンが空へ引き込まれていったときには、もう、環はいつもの環だった。
「本日はおめでとうございます」
見たこともない受付の女性に定型文のような挨拶を告げると、芳名帳にペンを走らせ、流れ作業のようにご祝儀袋を差し出した。
結婚式のこういう堅苦しさは、何度経験しても据わりのわるい気持ちになる。華やかな人の群れから離れて控室の一番目立たないソファに座ると、サバンナで身を隠す草食動物のように息を潜めた。
近くには、知っている顔は多くなかった。大学の友人とか、職場関係の人間がメインなのだろう。ひなみの交友関係らしく、華やかで社交的な雰囲気の人が多そうに見えた。もちろん祝う気持ちはあるけれど、挙式だけの参加にしてよかった、とこっそり胸を撫でおろした。
いっそ、案内の声がかかるまで寝てしまおうかな。そんな場違いなことまで考えた始めたときだった。
「サチ?」
「え……」
「やっぱり、サチだよね。わ、すごい、変わってないね」
わたしを覗き込むようにわずかに腰を曲げて微笑む顔は、薄く化粧をしているものの、昔とほとんど変わらない。わたしに招待状が届くのだ。当然、呼ばれているに違いないのに、一瞬声が出なかった。
「環」
「うん、ひさしぶり。ね、隣いい?」
「あ、うん、もちろん」
自分の席というわけでもないのに、どうぞ、と右手で促すと、環はにっこり笑って隣に掛けた。深い緑青色のドレスは環の身体につき従い、環の動きに合わせてゆっくりとソファに着く。
十年ぶりの環は、シンプルなIラインのドレスにヒールの低いパンプスで、艶のある黒髪は、高校のころより幾分長さのあるショートになっていた。大げさに飾り立てる必要がまったくないほど洗練された美しさは、控室でも否応なく視線を集める。けれど注ぐ視線を知ってか知らずか、環はわたしに半身を向けるような姿勢をとっていて、周りに目をやるそぶりもなかった。
ひなみからの招待状が届いたとき、環はどう思ったのだろう。懐かしかった? 切なくなった? それとも、昔のことだって、なんとも思わなかったのだろうか。
「サチは今、なにしてるの?」
「え? あ、ああ、めちゃめちゃ普通の会社員。……環は?」
「わたしも同じようなもんだよ」
「そうなの? なんかもったいないな」
「あはは、なにそれ」
「だって環、進学上京組だったでしょ? 都会ならいろいろあるし、それに環ならなんでもできるからさ」
おべっかでもなんでもなく、素直に口から出ていた。
環なら、やろうと思えば、きっとなんだってできるだろう。見目がいいだけじゃなく気も回るし、頭もいい。どんな業界に行ったって、きっと気に入られて重宝される。わたしが環だったなら、選択の余地がありすぎて人生を迷ってしまうに違いない。
わたしが冗談めかさず言うのに、環は静かに笑った。
「そんなことないよ。ふつうに生きるだけで、いっぱいいっぱい」
その笑顔が妙に寂しくて、乱暴に握られたように、胸がぎゅっと苦しくなった。
なんと返すのが正解なのか。逡巡しているうちに、控室にスタッフの声が響いた。ホテル内のチャペルへと移動をするらしい。控室を出ていくカラフルな正装の波を、なにか言葉を交わすでもなく、のろのろと環と歩いた。
エレベーターを降りると、ひらけた空間の広がるホールへ出た。チャペルはもう少し奥にあるらしく、後を追っていた参列者の姿はまばらだった。
案内に従って歩く途中、大きな階段の周りに人が集まっていた。ちょうど挙式を終えたばかりらしい見知らぬカップルが、階段の上段に立ち、たくさんの歓声や祝福の声に囲まれている。幸せそうにはにかむ新婦は階下のゲストへ背中を向けると、大きく両手を上げてブーケを宙へ放った。
真っ白なブーケは宙を舞い、弧を描いてゆるやかに下降していく。なんの気なしにぼんやりとブーケの行く先を追っていたわたしの隣で、環の視線は遥か下に留まっていた。
やっぱり――やっぱり環は、花を見上げないのだと、そう思った。
「花火大会?」
「そう。明日あるでしょ? ……行かない?」
前の席に後ろ向きに座ったひなみは、左手を口の横に添えて、声を潜めた。
受験生にとって夏休みは戦場だ。ここでいくつの武功を立てたかが、のちの合戦でものをいう。高校三年の夏休みに遊びの予定なんて、しかも夏期講習の教室でなんて、なかなか声高に話せる話題でもない。
「環も?」
「うん。塾、明日七時までなんだって」
「……じゃあさ、環とふたりで行ってくれば」
「え」
できるだけなんでもないふうを装って言うと、こっそりひなみの表情を盗み見た。わずかに頬に赤みがさして見えるのは、暑さのせいだけではないだろう。
「わたし、明日八時過ぎまで予定あるんだ。花火って打ち上げ八時からでしょ? 環と行っておいでよ」
「あ、そうなんだ……。じゃあ、そうしよっかな」
「うん。楽しんで」
ぎこちなくうなずいたひなみは、崩れてもいない前髪を、二、三度手櫛で梳いた。
携帯が鳴ったのは、花火の音が聞こえ始めてすぐ、八時を少し過ぎたころだった。
メールは環からだった。
本文には、『十分後に出てきて』とだけある。『どうしたの?』と返したけれど返事はなく、部屋で勉強をしていたわたしは、しょうがなく部屋着のまま玄関まで出た。
外に出ても、花火は見えていなかった。ちょうど他の家と重なっていて、伝わるのは空気を震わす大きな音と、わずかに明るくなる空の色だけだった。
五分くらいして、環は本当にやってきた。
「サチ、花火しない?」
「……『見ない?』じゃなくて?」
「うん」
にっこり笑ってうなずく環は、左手に近くのホームセンターのレジ袋を提げていた。
「なんでまた花火大会の日に……」
「打ち上げ時刻はサチ用事あるってひなみに聞いたからさ、一緒にやろうと思って。でも会場行くとき通ったら、サチいるみたいだったから。迎えにきちゃった」
「あ、あー……。って、ひなみは?」
「アイス買うっていうから、そこのコンビニにおいてきた」
わたしの嘘を追求するでもなく、環はコンビニのある辺りを指さして、あっけらかんと言った。わたしはもたもたと環のうしろについて歩いた。
「ていうかさ……いいの?」
せっかく気を利かせたつもりだったのに、と思う反面、突っ込んでいいものなのか迷って、つい探るような口調になった。けれど、「なにが?」とあまりにも爽やかに返されて、それ以上はなにも言えなかった。
コンビニでひなみを拾ってたどり着いたのは、公園の駐車場だった。住宅街から少し離れたところにある広い公園は開けた場所にあり、駐車場からも花火がよく見えた。
ホームセンターで一緒に買ったらしいバケツに水を張り、大輪の花が開く夜空の下、それぞれ好みの手花火を手に取った。火をつければジュワっと火花が噴き出し、七色の閃光とともに火薬のにおいに包まれる。大きな音を響かせる空の花と、手元を彩る地上の花の競演は、想像していたよりもずっと華やかで、わたしはひなみと一緒になって、子どもみたいにはしゃいだ。
「こらこらひなみ、手持ち花火は高くあげない!」
「へーきへーき! ほらサチ見て、ひなみ、打ち上げ花火の一部になったみたいじゃない?」
「危ないよー?」
ねえ環、と声をかけようとして、そのまま飲み込んだ。ドォンとひときわ大きな音がして、三尺の花火が開く。けれど環は、打ち上がる花火をまるで見ていなかった。
環の瞳は、よどみなく、手元の花火を見つめていた。大輪の広がる空を横にしゃがみ込み、打ち上がる音にも、開く音にも、背を向けているようだった。
打ち上げも終盤に差し掛かり、競うように空へ豪快に花火が開いていく。その傍らで、環の手の中の花火は、小さな音を立てながら火花を散らす。うつむくように地面を向き、朱から黄へと変わる閃光は、アスファルトへと静かに散っていく。勢いよく溢れ出ては、下に下にと落ちながら、消える。
その火花が爆ぜるのを、環はじっと見ていた。
わたしは、最高潮に達した花火を見上げることも忘れ、環の手元で散り落ちる、手花火の火花ばかりを見ていた。
扉が開くのと同時、スタッフの手から放たれた花びらが舞い降り、強い光がチャペルへ差し込んだ。
まばゆい光から生まれたように現れたひなみは、とても美しかった。
ヴェールから透けて見える伏し目がちな表情は、招待状に同封されていた写真とはまた別人のような、神秘的な神々しさがあった。
「きれい」と思わず漏らすと、隣に立っていた環が、「うん」と小さく答えた。
チャペルでの挙式が終わって、誘導されるまま新郎新婦を迎えるホールへと移動した。きっとさっき見たカップルのように、フラワーシャワーとかブーケトスとか、そういう催しをするのだろう。結婚式の空気はあまり得意ではないけれど、幸せそうなひなみを見ることができたのは素直によかったと思えた。
これがすんでしまえば、披露宴に出ないわたしは帰るだけだ。ほっとしたような気もするし、なにかが引っかかったままのような気もする。
環はどこまで出席するのだろう。聞いてみようと隣を振り仰ぐと、突然うしろから肩を叩かれた。
「ほら、やっぱり!」
ふたり同時に振り返れば、高校の同級生らしき面々が五人、肩を並べて立っていた。
「わたしたちが呼ばれるくらいだから、ふたりともいると思ってたけどね。えーめっちゃひさしぶりだね、元気?」
「あーうん、元気……」
さほど親しかったわけでもないのに、同窓会のような気分なのか、クラスメイトやひなみの友人とおぼしき人たちは、やたらとテンション高く話を始めた。もともとこういうノリが苦手なわたしは面食らいつつ、あれこれと飛ぶ中身のない世間話に適当に相槌を打った。
「そういえば、今日、環スカートじゃん」
さっきまでわんこそばみたいに愚痴なんだか自慢話なんだかわからない話を繰り出していたうちのひとりが、ふいに環に含みのある視線を向けた。
「まあ、そりゃあ。高校でも式のときはスカートだったけどね」
笑顔のまま当たり障りなく答える環に、「女のフォーマルはスカートだもんね」と、自称バリバリ働く系のひとりがもっともらしくうなずく。なんとなく雲行きが怪しいような気がして環を引き離そうとしたけれど、遅かった。
「そこはスーツじゃん、環なら! ここだけの話、わたし、環って男の子になりたい子なのかと思ってたし」
「わかる。実はわたしもちょっと思ってた」
「ちょ、ちょっと……」
環の隣にいるふたりが、口元に手をやりながら、にやにやといびつな顔で笑う。他の三人もすぐにそれに同調して、わたしの小さな制止は簡単に飲まれた。
「スラックス目立ってたもんね」
「普通にその辺の男子よりいい男だったし。女じゃなければ超優良物件でしょ」
「ていうか、ひなみから招待状きたとき、もしかして相手、環なんじゃねって思ったもん。今だから言うけどさ、ちょっと怪しかったよね、高校のとき」
「わかるー! 超怪しかった!」
何人かが重ねて声を立て、一拍おいて、五人同時にどっとわいた。
身体のなかが、めちゃくちゃだった。頭がカッと熱くなって、けれど同時に、信じられないくらい芯が冷えていた。
怒りなんだか悲しみなんだかわからない黒い渦のような感情が込み上げて、内側から身体が震えて止まらなかった。
なにをしようとしたのかはわからない。けれどじっとしていられなくて、一番近くに立つひとりの肩を掴もうとしたとき、環がやんわりとわたしを押しのけた。
「なにそれ、そんなわけないじゃん」
柔らかく、軽やかな声だった。猥雑な空気をほぐすように、清涼に空気を揺らす環の声。
プラスにもマイナスにも振れないちょうどよさをわかっているような、そんな笑い方だった。それが、わたしはたまらなく寂しかった。
「行こう、環」
信じられないくらい無機質な声が出た。周りは見ず環の腕を引いて、そのまま立ち止まることなく、招待客の集団から抜け出す。ちょうどホテルのスタッフがこれからの流れを説明し始めて、わたしたちを囲んでいた同級生たちに引き留められることはなかった。手を引かれた環も、わたしを止めなかった。
ホールを出て歩き続けると、まっすぐ中庭に出た。ガーデンウェディングもできそうな整えられた庭には、バラのアーチのそばに華奢なベンチが置かれている。手を離すと、環の凪いだ瞳がわたしを映した。
「サチ、ありがとね。あと、なんかごめん」
わずかに伏せた環のまつ毛が小さく揺れる。その奥に覗く目には覚えがあった。十年前にも何度も見た、寂しい目。どこか諦めの色をした瞳。
「謝らないでよ」
「……サチ」
「環に悪いとこなんてないのに、謝ったり、しないで」
環はわずかに目をみはって、わたしを見つめた。
新緑の鮮やかな庭園に風が吹き込む。花の香りや青いにおいが沈黙に吹き抜けて、鼻先をくすぐっては掻き消える。
環はそっとベンチに腰かけた。緑青色のドレスは、太陽の下でもきれいだった。
「……サチもさ、思ってた? わたしと、ひなみのこと」
静かな声で環が言う。わたしはすぐに言葉が出てこなかった。なんと答えても、さっきのあいつらと同じに聞こえるような気がして、こわかった。環は、どこか遠いところを見ているみたいだった。最初から返事は求めていないようでもあった。
「サチ、ひなみが昔よく言ってたこと、覚えてる?」
「え?」
「『環は最強の彼氏だね』ってやつ」
ひなみの声まねをするように明るく言うと、わずかに視線を上げて、少し苦そうに眉を寄せたあと、穏やかに微笑んだ。
「べつに、なんにもないんだよ。わたしじゃ、だめだったから。……わたし、ひなみの『彼氏』には、なれないもん」
ぶわっと庭園に風が吹いて、ふいに、教室のカーテンが脳裏で翻った。高校生のころ、前髪に隠れて見えなかった環の顔が見えたような、そんな気がして、わたしは無意識に、環の腕を掴んでいた。
「サチ?」
「え、あ! ご、ごめん?!」
声を裏返しながら腕を離すと、環はおかしそうに吹き出して、けらけら笑った。懐かしい面影の重なる、無邪気な笑顔だった。
こうやって、ひなみの隣で笑う環が、わたしはすきだった。そんなふたりを見ているのが、三人で笑っている時間が、すきだった。
「ね、環。わたし、環のスラックス姿、すきだったよ。環によく似合ってた。髪型もそう。ぜんぶ、すごく似合ってたよ」
みんな等しく、同じに違うのだ。他の人もそうであるように、環の心は環にだけ、なんだって許されてる。その瞳も、身体も、その心ひとつに、いつだって自由であってほしい。
「環は最強だよ。最強の環だよ。昔から、わたしにとっても、ひなみにとっても」
ぎゅっと手を握ると、環もそっと握り返してくれた。
「ありがとね、サチ」
朗らかに笑った環の声が優しくて、わたしはなんだか無性に泣きたくなった。環はなににだってなれるんだよ。この手からそれが伝わればいいと、そう思った。
「あ、こんなとこにいたあ! 探したんだから!」
ギィ、と背後で扉の音がしたかと思うと、突然、よく知った元気な声が、感傷の真ん中へ飛び込んできた。久しぶりに聞いたはずなのに、つい昨日も聞いたような気すらする。振り返ると、ほんの数十分前に神秘を感じさせた人と同一人物とは思えない、むくれた顔がそこにあった。
「ひなみ⁈」
「え、新婦がこんなとこいていいの?」
ほぼ同時に叫ぶと、ひなみが両手を腰に当てて、じとりと目を細めた。
「まさか、いいわけないじゃん。これからスタッフの人に怒られるよ」
中庭とホテルの扉の境目に立ったままあっけらかんと言うひなみに、わたしたちはふたりして目を点にする。
「え、じゃあなんで」
「まだ今日のひなみの任務は残ってんの。て、い、う、か! 途中でフケるとかひどくない⁉ 一言も話してないし!」
「あ、や、ごめん……」
頭の整理がつかないまま、流されるように謝る。隣の環は、くつくつと笑いをこらえていた。けれどそれもすぐに決壊し大笑いになり、うつったわたしも一緒になって腹を抱えて笑った。見ると、ひなみも顔をくしゃくしゃにして笑っていた。会わなかった十年なんて、まるでないみたいだった。
しばらく笑い続けたあと、指で目元を拭った環が、「なんか今さら感すごいけど」と、ひなみへ向き直った。
「ひなみ、結婚おめでとう。きれいだよ!」
清々しいほど爽やかに微笑む環に、ひなみは一瞬固まったあと、嬉しそうに顔をほころばせた。いつものあの、花のような笑顔だ。
「さてと! これ着てちゃひなみそっち降りられないから、ちゃんと取ってよね!」
大きな声でそう言うと、ひなみは可憐なウェディングドレスに似つかわしくないほど豪快に振りかぶり、空へなにかを放った。
放り投げられたそれは青空に向かってぐんと伸び、一番高いところで花びらを舞い散らせる。太陽の光を吸い込むように輝きながら、大きな放物線を描く。
「たまき!」
招待状に同封されていた写真よりもずっと無邪気に、花のような笑顔を顔いっぱいに広げて、ひなみが環を大声で呼ぶ。
空が青い。あの夏みたいに、暑くて、青くて、どこまでも広く、大きく、どこまでも自由に。
こんな大胆なブーケトス、見たことがない。
ブーケの描く放物線の下、わたしはすがすがしい気持ちで、心のままに笑った。
空に舞い上がった黄色いブーケは勢い余ってわたしたちの頭上をさらに越え、環は後ろに跳びあがるようにして、青空を彩る花へ、力いっぱい手を伸ばした。
(了)
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