一揆の果てに

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「ほう、親父もその場にいたんか」 「そや。勘助はんの立ち上がりましょうぞの言葉を聞いて、体が震えたわいな」 「それで、一揆はどうなったんや」 「全部の村から竹槍や鎌、鍬、鋤なんぞを持って仰山の人が出て、大通りを埋めた人の数は千人を越えていたやろ。そこで城の大手門の前で下っ端の役人としばらく小競り合いがあった後、出て来た家老から頭となる一人から話を聞くので名乗り出ろと下知された。その下知に透かさず答えたのが庄兵衛さんやった」 「ほな、隣村の勘助はんはどないしたんや」 「気が短いのか家老は、あい判ったと庄兵衛さんを一人連れて、大手門から城へ入ってしもうたのや。あっという間の出来事で周りの者は、どないも出来ひんかった」 「それで、庄兵衛さんはどないなった」 「恐らくは娘婿の間柄で嘆願書の一枚を委ねられてはったと思うが、しばらくして申し出の趣は京におられる殿へ良しなに言上すると返事があった。一揆はこれで退去することになったが、庄兵衛さんには聞きたいことが残っておると足止めされたんや。その後、隣村など数カ所の村でお調べがあり、五日ほど経ってから回状と合わせて勘助はんには嘆願の対応について説明があったそうや。それは借財の免責を除いて、他の嘆願は認めてくれたんや。ただ、藩として強訴は重罪であり、己一人の責めを申し立てた庄兵衛さんは死罪にせざるを得ないとの話やった。それで、親に対する忠孝を認められ、親を処罰する訳にはいかないとして、勘助はんはお構いなしとされたんや」 「ほな、庄兵衛さんは、亡くならはったのか」 「そや、河原の刑場で斬首されはって、首は十日間ほど晒されたらしい。そこで、こういうことになると見込んで、犠牲を少なくするため名乗り出たんやないかと専らの噂になっていたな」 「そりゃ偉い人がおったもんや」 「それに、家族は所払いとなって実家である隣村の勘助はんとこへ行かはった。そやけど三年して殿様が転封になり、新しく来た殿様が太っ腹なとこを見せようとしたと思うんやが恩赦の沙汰を出さはったな。それで帰って来やはって、その後庄屋となったのが息子はんの宗兵衛さんや」 「そうかいね。偉い親父さんをお持ちで、この村の誉やな」
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