僕と渋谷と青い空

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僕と渋谷と青い空

二ノ宮順一は、渋谷の街を歩いていた道玄坂の坂を降り、渋谷駅前のスクランブル交差点を渡った、信号機は、赤を表示していた だが、順一は、構わずに其処を進んで行く 目の前の横断歩道の真ん中にバスが停車している、順一は、そのバスに進路を阻まれるが、そのバスの側面を通り、バスの正面を回って迂回した、バスの正面から車内を見ると、バスの運転手は、遠く順一の遥か前方を見据え、眼を見開いていた 車内の人達は、皆、何事か酷く怯えた表情をしているのが見えた 順一は、そんな様子を眺めながら、そのバスを過ぎ、慌てて駅へ駆け込もうとしている人達を横目に、駅前のドン・キホーテの入り口に入って行った、ドン・キホーテの入り口は、人々が、押し合いへし合いしながら、外へ駆け出ようとしていた、順一は、その光景を苦々しくウンザリとした顔をして見ると、その人々の隙間を身を捩る様にして店内に侵入し、地下の食料品売り場に向かって行った お菓子、缶詰、パン、飲料… 順一は、買い物籠を手に取ると、それらを適当に籠の中に投げ入れて行った そして、順一の持つ籠の中がいっぱいになると、その籠を持ち、階段を上がって行った その階段でも、慌てて、地上に駆け上がろうとしたのか、階段を踏み外し、躓いて今にも、階段の角に顔面をぶつけようとしている年配の女性の姿が肇の目に止まったが、順一は、それを全く気にする素振りもなく、その横を通り過ぎて階段を上がっていった そして、また、人々でごった返している入り口を身を捩る様にしてすり抜け、その買い物籠を手に持ったまま表の通りに出た そして、また赤信号の交差点を構わずに先程と同じ様に進み、センター街の入り口を横目に代々木公園を目指して歩いて行った 人々は、皆一応にして、慌てた様子で渋谷駅を目指していた 渋谷駅の地下に逃げ込めば、この被害から、少しは身を守れるのでは無いかと考えているのかも知れない (そんな事をしたって無駄なのに) 順一は、そんな事を思い、歩きながら頭上を見上げ、その空を眺めた 肇が見上げた空には、何本もの飛行機雲が白い線を描いて見えていた (いち、にい、さん、し、ごお、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう、じゅういち…) 一体何体飛び交っているのか、それらは、この東京の空を、正に縦横無尽といった形で線を描いており、それは、まるでこの空をキャンパスに見立てた壮大なアート作品かの様に見えていた (正に、今世紀最大、一世一代のアート作品だな) 順一は、そんな事を一人考えると、皮肉にめいた顔をして笑った 線路沿いの坂道を歩きながら登って行くと、間も無くして代々木公園が見えてきた 「ふうふう…」 肇は手に籠を持ったまま、渋谷駅近くから 歩いて来たので、軽く息切れしていた 「しまったなぁ、せめてカートに入れてくればよかった」 順一は、独り言の様に呟きながら、その坂道を歩き、代々木公園に到達した、広々とした芝生、青々と葉を茂らせている木々達、のんびりと羽根を休める鳩、リードを主人から解放された事で嬉しそうに走り回っている犬… いつ来ても、此処にはかつての長閑(のどか)な風景が残されているので、肇順一には、心休まる場所であった 中には、今更ながら、その情報を聞き、慌ててその食べかけのランチを放ったらかしにして、飛び出そうとしている呑気な若者達の姿もあったが、順一には、それも何かホームドラマか、アニメの滑稽なワンシーンの様に見えていて、それすらも、今では心地の良い風景の一部になっていた 順一が、この自分の能力に気付いたのは、自分が運悪く、乗っていたバスの転落事故に巻き込まれた小学校五年生の時だった 遠足で、山道を走っていたバスが、山道のカーブをスピードの出し過ぎで、道を対向車線にまではみ出させて走行して来たバイクを避けようとした為に、ハンドル操作を誤って崖から転落しそうになった時、よく人々は、そんな人が、死に直面する様な事故にあった時、その瞬間がスローモーションの様に見えると言う、だが順一には、その瞬間にその出来事が、止まって見えたのだった、いや、止まって『見えた』のでは無い、本当に時が『止まった』のだった 順一は、そのバスのタイヤが、ガードレールを粉砕し、その車体が道路を飛び出し中に浮き、バス全体が、右に大きく傾き、もう殆ど真横の状態になってクラスの皆んなが無重力状態となって空中に投げ出され、『落ちる!』と思った瞬間、順一は 「お父さん!お母さん!」 思わず大きな声で叫んだ その瞬間、その見ていた全ての風景が、静止画像になったかの様に、ピタリと止まった事に気が付いた 順一の身体自体もその時、空中に投げ出されていたが、他の風景はそのままピタリと止まったまま、肇の身体だけが、その真横になった車体の窓に強い勢いで打ち付けられた 「イタタタタタ…」 順一は、強く打ち付けた右肩を押さえながら、ガラスを踏み抜かない様に、窓の桟に足を掛けて立ち上がった、先生を始め、クラスの皆んなが、その身体を空中に浮かせたまま静止していた 「皆んな、皆んな…」 順一の目から涙が溢れた、たった自分一人の力では、この状態をどうしたら良いのか分からなかった、そして自分すら、この場からどうやったら脱出出来るのかも分からなかった 順一は、暫く、その場で泣き続けていたのだが、ようやくして泣く事を止めると、バスの座席の背もたれを利用して、それをよじ登り、反対側の窓を開けた、バスは崖から、今、正に滑り落ちようとしているが、その崖側面の空中に静止したままだった、順一は、慎重に、その窓から身を出して、バスの車体に乗り降り、バスのタイヤの上に足を乗せた、其処から、崖の側面まで数十センチの距離があった その崖の下は完全に切り立っており、そのまま真っ逆さまに落ちれば、自分の身体は、グシャグシャとなって肉の塊となってしまうだろう 例え、其処から、崖にまで飛べたとしても、今、見る限り、手の捕まる所など無い 順一は、プルプルと竦む足をジリジリと戻し、そのタイヤの上から離れて、何処かこの崖を攀じ登る手段は無いかと思案しながら見渡した バスの車体の上から、崖の上を見上げると、数メートル先に、バスが其処から飛び出したガードレールが見える、だが、とても手が届く距離では無かった 順一は、暫く思案し、再び先程入ったバスの窓から中に戻り、バスの窓に付いている、遮光用のカーテンを取り外し始めた 一枚、二枚、三枚と、数枚程取り外すと、またその窓からそのカーテンを持って外に出ると、それらを縛り、繋ぎ合わせて一本のロープ状にした、その先に、自分のリュックの肩紐の部分を縛って付けて、重し代わりとするとすると、そのリュックの重みを利用してそのガードレール目掛けて投げた 一回目、そのリュックは、届かずに、三メートルほど飛んで落ちてきた、そのリュックが、崖を転がり、その括り付けてあったカーテンごと下に落ちると、順一は、その重みで、バス車体から引きずり落とされそうになった 順一は、足を踏ん張り、そのカーテンを引き上げると、もう一度、リュックを上に向かって放り投げた 二回目、またリュックは同じ様な軌道を書いて、ガードレールまで届かずに、崖に当たり、下に転がり落ちていった 三回目、四回目… 何度も同じ様な失敗を繰り返した 順一は、もう顔をグシャグシャにして泣きながら、何度も、何度もそれを上のガードレール目掛けて放り投げたのだった そして、何回それを繰り返したのか数える事も忘れ、分からなくなった頃、ようやくそのリュックが、ガードレールの向こうを超えて落ちた それから順一は、慎重にそのカーテンを引っ張って、リュックがガードレールに引っかかってくれる事を望んだ、一度、二度、三度… 引っ張る毎に、そのリュックは、手前にやって来て、順一が見ているバスの上からも、ガードレールに辛うじて引っかかっている状態に見えていた これ以上強く引っ張ったら、せっかく上にまで上がったリュックは、ガードレールを飛び越えて落ちて来てしまう… 再び、順一は、泣きそうになって、力無くその手を緩めると、そのリュックは、ガードレールの下を潜って崖から落ちそうになっていた それを見て、順一は、ハッと思いつき、そのカーテンの一端を握り、緩急を込めて、そのカーテンを引いたり、押したりと繰り返してみた カーテンの先にあるリュックサックは、ガードレールの下でゆらゆらと揺れ、やがて、その下の隙間を通って崖に落ちた、その片方は、カーテンが、括り付けられており、順一が、紐代わりのそのカーテンを送り出すと、徐々に徐々にと、順一の手元まで降りて来た その時には、もう順一は、泣いたりしていなかった (後もう少し、もう少し) 順一は、そのリュックを手元まで到達させる事に必死であった カーテンをめいいっぱい送り出し、その手元のカーテンが無くなろうとした時、まだそのリュックは、一メートル程の順一の頭上でブラリブラリと揺れていた (カーテンが足りない!) 順一は、そのカーテンの一端を握る手を離さない様にして、その場所に出入りするのに使った窓から中を覗いた、窓に掛けられていたカーテンは、もう全部使い果たしていた (どうしよう、何か長い布状の物は…?) 順一は、バスの車内を巡り渡した、目の前に、順一が、一番仲の良く、いつも一緒に遊んでいた長谷川君が宙に浮かんでいた、その表情は、驚いた顔付きをしているが、その手足はまるでその空中でクロールをしている様に大きく広げていて、いつかテレビなどで見た宇宙船内で空中遊泳をしている様に見えていた (長谷川君…) その時、順一は、ハッと気が付き、今持っているカーテンの一端を引っ張り、バスの車内に入れ、そのカーテンを椅子肘当てに外れない様にくくりつけて バスの車内に潜り込んだ (長谷川君、ごめん、借りるね) 順一は、心の中でそう呟くと、長谷川の腰元に手を掛けた 再び、順一は、窓の外へ行くと、その持って来た物の幾つかと、カーテンを結び付け、カーテンを更に伸ばしていった ゆるりゆるりと、リュックは降りて来て、ようやく、順一の手元近くにまで辿り着いた 順一は、そして、そのカーテンの両方を握ると、ありったけの力を込めてそのカーテンを引っ張った、二本分となったカーテンは、小学校五年生の順一の身体を支えるには充分で、順一がその腕の力を目一杯使って攀じ登ると、ようやく、順一は、そのバスの落ちた崖の上にまで辿り着く事が出来た 「うわわーーーーん!」 様々な感情が込み上げて来た 順一は、其処迄来てやっと声を出して泣いたのだった 順一は、崖の上から覗いてバスを見下ろした、 バスは、今も、崖の途中の空中で止まっていた、だがそれはもう遥か下にある様に感じられていた 長谷川君、中川君、清君、そして密かに好きだった春香ちゃん…先生… 順一は、今まだ、存在としては生きている事になるであろうクラスメイト達を、この自分の腕だけでは、助ける事が出来ない事を悟っていた 順一は、そしてまた自分の無力さに声を上げて泣いたのだった それから暫くして、いつの間にか、時の流れが正常な物となっていた 崖の下から立ち登る黒煙に気が付いた周りのドライバーが、救急隊に通報をした事により、救急隊や、消防車、パトカーが駆けつけて崖の下を捜索した、その間、順一は、パトカーの中でじっと下を向きながら座って過ごしていた やがて、両親が現場に到着し、順一は、両親の手を肩に掛けられながら、タクシーに乗り込んだ 「いろいろとありがとうございました」 順一の両親は、付き添ってくれていた警察官にお礼を述べた 「順一君の場合は、本当に奇跡的だったと言えます、たまたまバスが、ガードレールを突き破った際に、窓から投げ出されて、転落は免れた様です、しかも、これだけの怪我で済んだ事は、正に奇跡と言っても良い 他の方々は、残念ですが、ほぼその生存は絶望的かと…あれだけ大破しておりますので、中には、その衝撃からなのか、その衣服も乱れて全く見当違いな所にまで散乱していたご遺体もいらっしゃいましたので…」 「あの、子供の前ですから、その様なお話はちょっと…」 「そうですね、大変失礼致しました 順一君には、心のケアをなさって上げて下さい」 「さ、順一行きましょう」 そう言って、両親は、順一の肩を抱き、そっとタクシーに乗せるのであった 順一の両手には、自分のリュックサックが抱えられていた 時刻は、深夜になっていた、道路周辺は、未だに作業を続けているパトカーやら、消防車やらの赤いパトランプの灯りと、車のヘッドライトの明かりて赤々と照らされていたが、その周辺は、対照的に、まるで宇宙の深淵かの様に、真っ暗で、シンとした静寂が漂っていた、ただその暗黒の遥か下で、あたかもまるで、宇宙の中に漂う星雲の姿かの様に、かつての生命の痕跡が、薄明るい炎の姿で、その存在を知らせていた 順一とその両親を乗せたタクシーが、その闇の中を宇宙船から脱出する避難船の様に其処から、麓の明かりを目指して発車した その避難船に手を振って見送るかのの様に、木々に引っかかっていた細長い白い布達が、風に揺られてヒラヒラとはためいていた
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