裏切りと知ってくれ

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裏切りと知ってくれ

 これは、純然たる裏切りだ。ボロボロと涙を流しながら縋り付く妻を見た。いつから泣いているのかわからない。それでも、いつも年相応に整えられた化粧が涙で剥がれ落ち、赤らんだ顔のままひたすらに泣く彼女からして、それは決して短い時間ではないことはわかる。  泣くくらいなら、いっそすべて終わらせてしまえばいいのに。私は終わらせてほしいと願っているのに、妻は縋り付いて泣くばかり。見切りを付けてしまえば、きっとお互い幸せだろう。 「わかってる、ごめんなさいっ……それでも私は貴方といたいの。」  謝らないでほしい。謝らないで、泣かないで、私の願いを聞いてほしい。妻は覚えているだろうか。私は謝られるのが何よりも嫌いだと言うことを。泣きはらす今は頭からすっぽ抜けているかもしれないが、何かあるごとに私は言ってきた。  謝られるのが嫌いだ。謝罪など、形ばかりで何の価値もない。声帯を震わせただけの言葉に、何の意味がある。口先だけの謝罪なんかより、誠意ある行動で気持ちを現すべきだ。何より、私が嫌いだと思うのは謝罪をされた瞬間、まるで自身が悪者か何かにでもなったような気分になるのだ。妻はそれを考えすぎだと笑ったが、笑い事ではない。謝罪された瞬間から、私は必ず相手を許さなくてはならないのだ。強制されているわけではないと人は言うだろう。それでも、許さないという選択を選んだとしても、何か重たく苦々しい物を腹に抱えたまま生活しなくてはならないのだ。それには耐えられない。そうするくらいならばたとえ業腹であっても相手を許し、怒りを腹の底で燻ぶらせている方がマシだ。  知っているはずだろうに、彼女は今縋り付き、泣き、謝っている。怒りは湧かない。ただ戸惑いと困惑と悲しみがあった。謝罪しなくていい、泣かなくていい、だから私の願いを聞いてくれ。  こうしている時間は無駄だろう。賢い君ならわかるはずだ。  泣いてばかりの彼女は、答えない。  こんな風に、許しを乞うているよりも新たな道を歩き出した方が良い。君の人生はここで終わるわけじゃない。これから明るく生きて、もっと楽しいことがあるだろう。泣くくらいなら、謝るくらいなら、私のことをすっかり忘れて生きてくれ。 「ごめんなさい……、お願いだから……諦められないの、」  さっさと私のことは諦めてくれ。それがお互いのためだと、なぜわからないのか。はっきり言おう。私はもう君に愛想を尽かした。もう二度と顔も見たくない。触らないでほしい。わかったらさっさと君も私のことなど忘れると良い。これだけ君を泣かせるような男だ。君だってもう泣きたくも、謝りたくもないだろう。  泣いてばかりの彼女は答えない。  君はきっと私が気づいていないと思っているだろう。私は君が隠し事をしているのを知っている。  いや、周りの人間に嘘をついているのを知っている。私の書いた手紙、君はそれを誰にも見せず持っているのだろう。私はもう知っている。  そして隠していたことも許そう。今からでも、遅くない。それを人に見せると良い。誰も君を責めはしない。誰もが君に憐れみの目を向けるだろう。そして君は私のことを忘れ、幸せな人生を送るんだ。  泣いてばかりの彼女は答えない。    泣きたいのは私の方だ。私の願いは叶えられない。君は私の嫌いな謝罪ばかりする。のこした手紙は隠される。そして何より、泣き、縋り、謝罪する君に、言葉の一つも掛けられない。  泣く君を慰めることも、縋り付く君を抱きしめることも、何もできない。だから嫌だったんだ。  君は知っていたか、私がなぜ何度も、「植物状態になったら延命治療をせずにすぐに殺してくれ。」と言っていたのを。  これだから嫌なんだ。身体を動かせない苦痛、意思を伝えられない苦痛。それは想像通りのものだった。  だから頼む。 「殺してくれ。」  私の口が動くことは、なかった。  泣き縋る君は、きっと私を裏切っていることすら、気づかないのだろう。今からでもいい、裏切らないでくれ。どうか私を切り捨ててくれ。私は君の幸せを願っているから。私はただ、少しだけ早く行って、君を待っているだけだから。どうか、君は。
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