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麗は不安だった。
今朝、お腹の子の性別が女の子だとわかった。すぐに誠に連絡しようと携帯を取ったが、誠は出ない。返信もない。半日待ってもSNSに既読もつかなかった。会社は今盆休み真っ盛りだ。携帯に出られないほど忙しいはずはない。
なぜ、こんなにも不安になるのかわからない。だがお腹の辺りがぞわぞわする。まるでお腹の子が、急げと麗を急かしているかのようだった。
だから麗は翌日も待たずに電車に飛び乗って誠のアパートに向かったのだ。
辿り着いたアパートの前には、引っ越し業者のトラックが止まっているのが見えた。
その脇に佇む誠の姿を見つけたとき、麗に生まれたのは安心と、そして怒りだ。
なぜ連絡をくれないのか。誠に駆け寄り、怒りも隠さず彼を呼ぶと…誠はぬぁらりと振り返った。ひどく緩慢に、まるで上半身と下半身が合致していないような動きだった。
「誠?」
怒りが萎んだ。無意識にお腹に手がいく。
誠が麗を見下ろしている。まるで遥か高みから蔑むような視線だ。過去、ただの一度も誠はこんな目で麗を見たことがない。右目左目が、きろ、きろ、と麗の顔を、胸を、腹まで見下ろした。左右で動きがずれている。
「どっちだ?」
「え?」
「男か?」
かぱりと開いた誠の口から、確かに誠の声が漏れる。なのになぜ、こうもぞわぞわと肌が泡立つのだろうか。その口の向こうから、なにか得体のしれないものが誠の口を使ってしゃべっている。そんな錯覚を覚えた。
「お、女の子よ」
ぱく。と誠の口が閉じる。
閉じたのに、まだ誠の声が聞こえた。
「女胎」
「不要だ」
「無価値」
通常なら、麗は激高している。麗は女を差別する男が大嫌いだ。だが、麗がとっさに取った行動は己の腹を守ることだった。――本能だった。
遅れて、腹を守る腕に衝撃がくる。蹴られた、と気づいたのは地面に転がってからだ。一部始終を伺っていた引っ越し業者が騒然とする。
だが誠は麗から踵を返すと、その業者の元へと歩いて声高に急かす。「早く行け」「今すぐ」。
彼らも、誠の異常性を悟ったのだろう。麗の方を伺いながら、それでも誠の言葉に従って、彼をトラックの助手席に乗せエンジンをかける。
響くエンジン音に、麗は出どころも分からない絶望を感じながら、それでも這うように起き上がって叫んだ。
「どこへ行く気⁉」
トラックの助手席を睨む。意外にも誠は窓から体を乗り出して答えた。一言、簡潔に。
「帰る」
睥睨した笑み。なにが誠にそんな表情をさせるのか麗にはわからない。だが、なにかが変わってしまったのだ。誠の中で、決定的ななにかが。
「返しなさいよ…」
誠はするりと窓の内側へと戻った。トラックがゆっくりと発進する。
「誠をどこへ連れていくっていうの!」
答えはない。トラックはあっという間に遠ざかって、ことの始終を見ていた者がいたのだろう、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
麗は腹を撫で擦った。
――大丈夫、直接には蹴られていない。大丈夫だから…。
腹の中の命と、遠ざかった彼を想い、麗は叫ぶように号泣した。
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