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「起きて、起きてってば!見回りの先生が来ちゃう」
放置して帰るのも人としての心が咎めて、多少悩んだ末に、愛美は杏を起こすことに決めた。1人で歩きたかったのだが、まあしょうがない。
叩き起された杏はまだ状況がよく呑み込めていないらしく、ぼんやりとした視線を愛美の方にむけた。
「何してたの?」
「……新聞書いてた」
「へえ、確か石川さんは今年から新聞委員会になったんだよね?いきなり記事の担当になったんじゃ大変だったでしょ?」
「ううん、自分で志望したから」
はにかんで俯いたものの、杏の瞳には、教室にいた時にはない仄かな光が宿っている。教室の隅の方で、いつも本を読んでいる気弱な杏と今の杏、果たしてどちらが本物なのだろうかという疑問が愛美の中に浮かんだ。
この子もまた、仮面を被っているのだろうか。
「その前にあるのは原稿?少し見せてよ」
意外なほどすんなりと杏は原稿を手渡した。どうやら、新聞のミニコーナーの担当らしい。様々なアンケート結果が面白おかしく書かれ、愛らしいキャラクターの踊る四コマ漫画が丁寧に描き込まれているのが、素人目にもわかった。
「絵、上手いんだね」
これじゃあ、まるで
「――黒川さんみたいだ」
「練習……したから」
渡そうかどうかと逡巡した結果、助けを求めるような目で、杏は最後の1枚の原稿を愛美に差し出した。
差し出された1枚には空白が目立つ。アンケートのうちの1問らしい。
――今までについた1番の大嘘は?
縦長に並んだ『る、い、が、ん、ば、れ』の文字。俗に言う縦読み。文章を組み立てようとしては消しゴムで消した奮闘の後がみてとれる。杏はこれを書くために、教室に残っていたのか。
「――瑠偉が、言ってたの。黒川さんの書くこのコーナーが大好きなんだって。瑠偉の留学先に絶対新聞送るからねって約束したのに、その……」
――だから、大嘘をつくことを選んだ、と。
正直に言って、愛美は杏のことを見くびっていた。自分の足で立つこともできない臆病者。いや、もしかしたら去年までの彼女はそうだったのかもしれない。けれど今、紛れもなく杏は嘘をつく覚悟を決めることで、1歩を踏み出そうとしていた。愛美の目の前にいるのはクラスの爪弾きものではなかった。
ああ、瑠偉。あなたは本当にすごいや。あなたの背中を追って少なくとも2人、変わろうとしている馬鹿がいる。
――私、変われたかな?
あの日の雨粒が耳の中で共鳴する。
「もし良かったら、手伝おうか?文章考えるの」
「いいの?」
「その代わりにさ、文化祭のクラスポスター一緒に手伝ってくれたら嬉しい」
愛美は笑った。杏もつられて笑った。
一陣の風が『がんばれ』の文字を撫でて、ふきぬけていった。
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