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2.
「嘘、黒川さん学校来てないの!? 文化祭のクラスポスターお願いしようと思ってたのに! どうしたらいいかな、マナ? 」
甲高い夏希の声は、雑然とした空気の教室ではよく通って非常に頼もしいのだけれども、こう二人しかいない放課後の教室で面と向かってぶつけられると少々くどいものがある。 愛美は相手に気付かれるか気付かれないかのギリギリの線を狙って、眉をしかめ「本当にね」とだけ返した。
夏希と共にHR委員を務め、2年目になる。別段気の合うわけではないのだが、何となく1年生の時に同じ委員会に入って以来、お互いに飽きもせず同じ職を務め続けている。不思議と、大して仲の良くない2人ほど同じクラスになるもので、なんだかんだお互いの性質はよく知り尽くしている。だから、夏希がそれ以上の返答を求めていないことを愛美は感覚的に察知していた。
「黒川さんがいないってなると、相当苦しくなるじゃん。誰か代わりの人見つけないと」
「無理だよ。美術部の子達みんな性格キツいし。黒川さんが学校来なくなっちゃった理由、知ってる?」
愛美は話を続けるのが上手い方では無い。ただ、作業中の気まずい沈黙も嫌いだった。
進級早々HR委員に与えられた仕事は、春休みの課題を教師に提出することだったのだが、これがまたバラバラに集められた課題を種類ごとに分け、名前の順に整理していくのはなかなか骨が折れる。慣れない新クラスと言えばなおさらだ。
そんなところに丁度『黒川さん』という話題が降ってきたので、愛美はありがたくそれを活用させていただくこととした。苦しんでいる人物のことを面白おかしい話題に利用するのには多少良心が痛んだ。
だから、黒川さんの空っぽの机の方へ絶対に視線を動かさない。新しい教科書も、昨日配られた自己紹介のプリントも入っていない、冷たい金属で囲われているだけの机の内側を見たら、きっと不自然な合間を生み出してしまうだろうから。
廊下に人がいないことをわざとらしく確認して息を吸い込む。こうした方が噂話の雰囲気が出るのだ。
いくつになっても、いくら興味のないフリをしていても、なんだかんだ大抵の女の子は噂話が嫌いではない。そして、本当のことにほんの少しアクセント、――言ってしまえば嘘なのだが――を加えてやると、より相手は会話を楽しみ、自分への好感度を上げてくれる。それが、愛美がこの女子高に入学してから得た、しょうもない処世術のひとつだった。
天頂近くの春の太陽は柔らかい光で大気を照らし、桜色のよく映える蒼穹はこれ以上ないほどに高く見えて、いかにも人を浮かれた気持ちにさせるのに、空の教室と会話の義務感に囚われた愛美にとってそれらは、これ以上なく恨めしい存在に思われた。
良心と優しさとをほんの少しずつ、おろし金ですりおろすようにして口から言葉を紡ぎ出す度「早く家に帰れたらいいのに」だの「このプリントを一斉に窓からばら蒔いたなら、夏希はどんな顔をしていて笑うんだろう」といった現実と酷くかけはなれた光景が浮かんでは消えていく。
時々窓の外から飛び込んでくるサッカー部のランニングの掛け声や、剣道部の叫び、合唱部のハーモニーが、愛美を繋ぎ止めている楔だった。
「ふうん、どこの部もドロッドロしちゃって大変ね。 どうしてそこまでして、他人に勝とうとするのかしら?」
『私は興味ないですよ』といったふうを装った台詞は、上滑りして春の空へと吸い込まれた。 仮面の下の歪んだ唇が隙間から覗いてしまっている。
つまらない。空虚な時間に、怒りを覚えるほどに眠くなる甘ったるい大気。ただただ喉から発せられる鳴き声は、ぶつかり合うことも混ざり合うこともない。
夏希が剥き出しの心で向かってきてくれたら、この退屈な壁はどんな風にして崩れ落ちて行くんだろうか?
そこまで考えて、また他人に頼りきりな自分の影に気が付き、愛美は行き場のない視線を時計に投げ、それから曖昧に微笑んだ。
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