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2駅も過ぎると、車内に数人いた乗客もぽつりぽつりと消えていき、眠ったフリをした愛美だけが取り残されてしまった。 朝はあんなにも狭い車内が、こんなにも広く見えるのが不思議に思える。掴む者の居ない吊革が、ポールに当たる空っぽな音に加えて、カツリカツリと濡れた床を慎重に踏みしめる靴底の音が車内に響いてきた。 誰かこちらへ来るのだろうか? 薄目を開けて確認すると、そこには隣の車両との繋ぎ目のドアの取っ手を掴み、こちらへと向かってくる橋本瑠偉の姿があった。 絡まれるのも面倒だと思い、愛美は寝たフリを続けることに決めた。教室の中の義務感を、学校の外にまで押し広げたくなかった。3年間、小さな学級という檻の中でそれなりの関係を築いた人間、ただそれだけで良かったのだ。 瑠偉は歩くのをやめない。こんなにも空いている車内なのだから、どこでも自分の好きなところに座れば良いのに。 ローファーの音が止み、瑠偉は愛美の隣の席に座った。 「起きてる? ……いや、起きてても起きてなくてもいいんだけど」 瑠偉は愛美に話しかけている。愛美は驚いて、うっかり目を開いてしまいそうになった程だった。変わっている人間だとは思っていた。けれど、ここまでだとは。 「愛美、いつもつまらなそうにしているよね。でも、今日クラスメイトに怒鳴り散らしたでしょう? ……あの時ね、直感した。私達きっとよく似ているんだよ。自分にブレーキかけて何事も起こらないように上手くやったつもりになっている。だから、あなたと素顔のままで話をしてみたいけれど、私にはそこまでの勇気がないや」 灰色の空は相変わらず続いている。ひんやりと冷えた窓ガラスがゆだった頭を優しく冷やす。 反応のない愛美を無視して瑠偉は続ける。 「私、来年から留学するんだ。だからしばらくあなたとはお別れだね、あなたに話しかけるならこれが最後のチャンスだと思ったから」 物怖じせずに、人の懐へ潜り込む瑠偉の姿が目に浮かぶ。夏の天頂間近の太陽みたいな光のイメージはどんどん崩れていって、春の夕焼けのような微笑みへと変わった。 永遠に分かり合うことのないと思っていた人種が目の前にいる。彼女はずうっと破れることのない仮面を被っていたのか。気がついてしまうと、今相手しているのは得体の知れない怪物なのではないかという錯覚に襲われる。急に自分の足元が消えて、空に放り出されてしまったような、恐怖と不安に揺られて酔いそうな感覚。 「本当は私、びっくりするくらい臆病で、弱虫で、人も話すのが苦痛で仕方がない。でも、そんな自分を変えたくて、1年の間だけだからって耐えてた。それももうすぐ終わりだね。私、変われたかな?……ごめん、勝手にぶちまけて、一人だけ満足して。気持ち悪いよね」 沈黙だけが空白の車内を満たした。座り心地の悪い硬い座席に吸い込まれていくような感じがする。 駅への到着を告げる、無機質な車掌の声。 いつも通りドアが開く。 瑠偉は踊るような足取りで、ホームを踏んだ。愛美の方を振り向いた彼女の顔は、またいつもの仮面に戻っていた。 ――夢を、みていたんだろうか。 再び一人電車に揺られて、車内との温度差に曇った窓の外を眺めた。 瑠偉の存在を証明するように、隣の席の足元が、少し、濡れていた。
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